2009年 3月 の投稿一覧

日々の思いの短歌集

天才と/バカとの境/考えて/足元見れば/ガムを踏みけり

くだらない/短歌つくりて/ありしとき/一人あるくは/多摩の道なり

携帯の/電源切れて/手紙書く

クリスマス/今日もどこかで/人が死ぬ

東京の/寒さキツ過ぎ/涙する

コズミック/センター前で/ボードする/人を横目で/通り過ぎけり

村上陽一郎『新しい科学論』(講談社ブルーバックス、1979年)

古い本である。しかし、手元のものを見ると2008年5月に
43版が出ている。驚異的な本だ。

ある時代、ある社会のなかである考え方が有力な底流を形成しているとき、
それは、その社会共同体のメンバーたちに共通の、広い前提になるわけです
し、そうした共通の前提の上にたつ限り、多くの人びとが、その前提と構造
的同型性や意味の連関性をもつような同一の理論に、独立に到達することは、
ある意味では当然のことになりましょう。(195頁)

村上は、科学は「中立性」や「客観性」をもつという考え方を「科学につい
ての常識的な考え方」であるという。
そして「新しい科学観」を提示していく。それは’そもそも科学に中立性や
客観性というものはない’ことを形をかえて主張していくのである。
そもそも近代科学の父であるニュートンもキリスト教に基づいて、
キリスト教の見方(偏見)にしたがって研究を進めたのだから。

要するに、現代の科学は、その長所も欠点も、わたくしども自身のもって
いる価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚すること
から、わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は、
今日のわたくしども人間存在の様態を映し出す鏡なのです。今日の科学者の
考えていることは、わたくしどもの時代、わたくしどもの社会の考えている
ことの、ある拡大投影にほからないのです。(201頁)

この本、1979年時点では斬新な本であっただろう。けれど、ここに書か
れた「新しい科学観」はある意味の「常識」となってしまっている。
科学の中立性について何かを言うのは高校の教員くらいであろう。
学校での科学教育は今だ村上の言う「常識的な考え方」に縛られている
ようだ。

歌集 暇人の独り言

青インク/白きノートを/埋めていく/意味のあること/意味のないこと

寺山は/何度母親/殺せども/ついに母より/先にいきけり

人の書く/ノート盗み見/学ぶ我/他者の視点は/面白しかな

思い出す/岡本太郎は/言ったのだ/「才能なんて/ない方がいい」。

失敗と、その共有

私は母校の寮でボランティアをしている。寮生のお世話をしたり、悩みを聞いたり、寮の運営の手伝いを行ったりする。

着任の日ではないが、昨日寮に行ってきた。寮生の激励をするためだ。高校生との話が興に乗り、夜中の2時半頃まで話していた。

…私と同じく寮の着任についていた私の一つ下の後輩に叱られてしまった。「寮生を早く寝かせてください! インフルエンザが流行ってるんですよ」と。

ああ、つまらない失敗をしてしまった、と反省した。

私は自分のボランティア先での失敗談を、特に回りに話さないできた。「伝わらない」と思ったからだ。しかし今日は周囲に話してみることにした。「後輩に叱られちゃったよ」と。そうすると、笑い話となった。それまで私は「なんで後輩に言われなきゃ…」と暗く考えていた。一人気にしていると辛くなる。けれど周囲に話すと気が楽になるし、「また決意してやっていくしかない」と考えられるようになった。

「どうせ周囲に言っても伝わらない」という自分の思い込みを排すことが大事なようだ。話すことで、自分がその事実を別の捉え方で考えられるようになるからだ。伝える努力をするのを私はすっかり忘れていた。

同じ事実なら、失敗は第三者的友人に話し、笑い話とした方がいい。「何で俺だけ…」「後輩に叱られたよ…」と落ち込むよりは。事実は見方次第で価値が変ってくるのである。それに「暗いよりは明るい方がいい」のである。

バイトに命をかけられるか?

お笑い芸人をyou tubeで見ていた。
そのネタに
「俺、バイトに命かけてるから」「かっこわるいよ!」
というものがあった。

不思議に思った。
なぜ、バイトに命をかけてはいけないのだろうか? なぜこのネタで観客が笑うのだろうか? 

灰谷健次郎は「仕事と金儲けは違う」と述べた。それは「仕事は人生を教えてくれるから」であった。仕事、とくに職人仕事は丁寧に素材を扱う事の大事さ・気分が乗らなくてもやり続ける重要性を教えてくれる。これは人生の真理発見につながる、と主張する。なんだかプロテスタント的な職業観だが、私はこの灰谷の仕事観に共感を持っている。仕事は人生をかけてやるものであり、仕事を通じて学ぶものがあると信じるからである。

冒頭のコントには「バイトはあくまで食うための手段だ」という思想が背景にある。そのために「かっこわるい」とつっこむのである。けれど本当にそのアルバイト内容が自分の好きなものであるなら、命を賭けてやってもかまわないのではないか。

追記

ギリシア時代、人間の命を現す概念は2つあった。ビオスとゾーエーである。身体的・物質的な生命を意味するのがビオスであり、「Aさんが死んだ」というときに示される生命である。一方のゾーエーとは、霊魂の生き様を現すための命である。「命を賭けてやる」というときの命はゾーエーであるのだ。「精神的あるいは霊魂的な『生きがい』の主体としての’いのち’を生きているという発想がギリシア時代の人びとの原点にあった」(以上、長尾達也『小論文を学ぶ』より)。これに従うなら、「バイトに命を賭ける」とはビオスでなく、ゾーエーを賭けることである。

face book社長の話

face bookの社長は1984年生まれ。それを聞くと1988年生まれの私は驚異に思うのである。

あと4年後に私は何をしているのだろうか。大学院博士課程の2年生である(順調に行けば)。

おそらく儲かってはいないが、自分の夢を追い続けて走り続けるしかない。

梅田望夫『ウェブ時代をゆく』

‘われわれは情報の無限性の前に生きている。しかし人間存在は有限性を持つ。今や各種資料やデータ・書籍がネット空間にある。その状態では資金も学歴もほとんど意味を持たない。純粋にその対象がどれだけ好きか、興味を持てるか、対象に対しどれだけ時間を注ぎ込めるかで勝負が決まる’というメッセージを受けた本であった。

私は重ねて「オープンソース・プロジェクトも、成功するものと失敗するものがあるよね。もちろんほとんどは失敗するよね。その差は何だと思う
と尋ねた。「成功するかどうかは、人生をうずめている奴が一人いるかどうかですね」と彼(石黒氏)は端的に答えた。(66頁)

時間だけがすべての人に平等に与えられたリソースである。その時間を、自らの志向性と波長の合う領域に惜しみなくつぎ込む。それが個を輝かせる。大切な時間というリソースを自分らしくどう使うのか。そこがこれからはますます問われる。(90頁)

*(  )内は石田一。

「やらないルール」作りのすすめ

梅田望夫は『ウェブ時代をゆく』のなかで、新年の決意を実行できないのは何故か、と考察する。そして、それは「やらないこと」を決めていないからだ、と指摘。新たにやることばかりを言っていると、絶対に実現不可能だ。だから絶対にやらないと決めたことを絶対にやらないようにするところから、始めるべきだと。

私は多いに影響された。そのためにいろいろリストを決めた。

 よくチマチマした節約をする人がいる。ペットボトルにお茶を入れてジュース代の節約、コピーの裏紙を使って節約…。けれどそれをやって節約できるのは一日500円くらいであろう。そういうことをしている人に限って、「たまには海外旅行に行こう」と飛行機に乗る。十数万円を費やすことになる。
 先の梅田の言を借りよう。私は「なるべく帰省しない」ルールと「海外に行かない」ルールを作った。これをするだけで少なくとも大金は減らなくなる。

梅田自身は「年上の人と会わない」ルールを決めている。
友人にこれを話すと「そんなの無茶だよ」と笑った。その通りだと私も思う。けれど、実行不可能に見える「やらないルール」を定め、実行していること自体には誰も文句を言えないであろうと思う。

学問とお笑いの間

今ではすっかり売れっ子になった漫才師・オードリー。私も好きなコンビである。冷静に話を進める若林と、途中理不尽なツッコミをいれる春日。「ズレ漫才」の名にふさわしく、絶妙にずれあって話が進まないまま時間となる。

彼らは順調にお笑い界を生きてきた訳ではない。NHKのお笑い登竜門「爆笑 オンエア・バトル」では史上初の「7連敗」を喫している。ここまで評価されないのも珍しい。それでも彼らはめげずにやってきた。M1では敗者復活で勝ち抜き、決勝トーナメントまで進む。惜しくも優勝は逃すが、彼らのキャラクターが理解され、各種バラエティやトーク番組に引っ張りだこである。筆者としたら「消える芸人」にならないことを祈るばかりである。

お笑い芸人たちはたとえ売れなくても、真剣に闘い続けている。小さなステージや番組の前セツなどを経て、ようやく番組に出られるようになる。それまでの苦労は半端ない。
 ここまで見てきてふと、お笑い芸人の精神と学者の精神の一致点に気づいた。学者は食えない。大卒後、職を得るまで長い長い下積み生活がある。その間、バイトをしながら自己の学問の研鑽に励む。芸人も食えない。やはりバイトをやりながらネタを作り、練習に励む。
 ようやく自分に非常勤の口がやってきた。あるいは助手でもいい。これは芸人では前セツをできるようになったことに相当する。ようやく助/准教授。これはレギュラー番組を持つことにあたるか。
 そして自分の冠番組を持ち「天下を取る」。学者ならば教授のポストに就くことにあたる。

こうしてみると、芸人の上を目指すハングリー精神は、学者の精神性とも一致する。いまは全く理解されなくとも、常に研究に励む。

 だから私は芸人的真剣さを持って教育学の研究に精進したい。

 最後に下手ながら歌をひとつ。
「芸人と/学者のつながり/深しかな/ともに理想を/めざす仲なら」