2009年 3月 の投稿一覧

内田樹『街場の教育論』抜粋

内田樹
「人間のすべての感情は葛藤を通じて形成される。不思議な話ですけれど、葛藤しているときが人間はいちばん自然で、いちばん安定しているのです。」p255

存在するものを、しないかのように扱う

存在するものを、しないかのように扱う。これらは、悪に通じている。

近くは我が家の空き缶・ペットボトル、遠くはナチスのホロコースト。存在しているのにも関わらず、しないかのように扱うとき、例えばペットボトルは回収する意識にならず、「コンビニ行ったとき、ついでに捨てよう」という安易な考えになる。

また、スケジュール帳に勉強する時間も書かないで「絶対、この資格を取ろう!」と決意しても実現できるわけがない。本来、学習には時間というリソースが必要だ。けれどそれを自覚しない上で決意しても何にもならない。

存在するものを無視しない。これにつきる。

追記
例えば自分が何らかの役職をもっている。その役職には部下や後輩がいる。その際、自身の役職の権限を放棄して担当する部下たちを「存在しないかのように」扱う。これは悪であろう。

再記
この文章を膨らませて、ちょっとしたエッセイを書く予定。

中井孝章『学校身体の管理技術』

管理システムの浸透は、日常の生活環境だけにとどまらない。山田陽子が指摘するように、「現在の精神医療の現場では薬物療法や生物学主義への変調が色濃く、精神的な苦悩や人生における迷いに診断名をつけ、薬物によって解決する傾向が顕著になっている。(pp7~8)

アドレスの分散

aaaaaaから初めていって、zzzzzzzzzzが50個くらい続くアドレスまで全てのアルファベットや数字・記号の組み合わせの表を作る。その後ろに、@gmail.comをつけていく。

実際に使用者のいるアドレスには必ず至る。けれどこの分散の仕方は素数と同じく、まったく読めない展開が待っているはずだ。

パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育』より

 未来とは受け取るべく与えられるものではなく、人間によって創造されるべきものである。
 いずれのタイプのセクト主義者も、同じように歴史を独占的にとりあつかい、けっきょくは民衆不在で終ってしまう。(pp7~8)

 銀行型概念では、暗黙裡に人間と世界の二文法が仮定されている。すなわち、人間は世界や他者とともに存在するのではなく、たんに世界のなかにあるにすぎない。人間は再創造者ではなく、傍観者にすぎないのである。(p73)

 要するに、銀行型の理論と実践は静止させ固定化する力であり、人間を歴史的存在として認めることができない。課題提起型教育の理論と実践は、人間の歴史性を出発の原点とする。課題提起教育は、何ものかになりつつある過程の存在として、すなわち、同様に未完成である現実のなかの、現実とともにある未完成で未完了な存在として、人間を肯定する。実際、未完成であるが歴史をもたない他の動物とは対照的に、人間は自分自身が未完成であることを知っている。かれらは自分の不完全さに気づいている。この不完全さとそのことの自覚にこそ、一人人間だけの表現としての教育の根がある。
 この人間の未完成な性質と変化しうるという現実の性質が、教育がたえず進展する活動でなければならないことを不可避的に要求する。
 教育はかくして、実践のなかでたえずつくりかえられる。(pp88~89)

川柳

返す人
いない幸せ
ホワイトデー

小浜逸郎『先生の現象学』(1995、世織書房)

近代ヒューマニズムの信奉者が自明なことと考えている「教育は子どものためにある」というテーゼは、別に少しも自明なことではないといいたいからである。
 教育は、もともと子どものためを思って意図されたのではない。それは発生的には共同体の維持の必要から生まれたのであって、子どもを共同体のシステムに引き込むのが目的だったのである。
 もちろん、発生期の事情が、複雑な社会構成をもつ現代にもまったくそのまま単純に当てはまるというわけにはいかない。その複雑さを考慮に入れた上で強いていうなら、「教育は、大人(の作っている社会)と子どもとの関係のためにある」ということになるだろうか。ただ、それは、近代社会が生み出した人間の実存の分裂したありかたに対応して、一つに絞り切ることができずに、「国家や社会のため」と、「個人の自由と幸福の追求のため」という二つに分かれて追求されざるを得ないのである。(pp100~101)

→内田樹のいう「既に始まっているゲームに参加させられる」状況に類似している。

神前悠太ほか『学歴ロンダリング』(2008年、光文社ペーパーバックス)

 『ドラゴン桜』では、「バカとブスこそ’東大’へ行け!」と力説いていた。
 本書では、この言葉をパロディにして、「バカ」と「ブス」そして「人生の負け組」こそ、’東大大学院’へ行け! と力説したい!(p11)

 この本は恐ろしい本である。「東大大学院は入りやすい!」を何度もいうことで「大学院で学歴を’東大’という最高のブランドに変えよう」と提言する。東大などの諸大学院が「大学院重点化」という失策を行っていることを逆手にとっての提言である分、ラディカルながら本書は大学院政策のあり方を読者に訴えかけるものとなっている。
 本書の白眉は「どうやればカンタンに東大大学院に行けるか」という箇所ではない。東大の傲慢さを徹底的に批判するChapter 8が肝心なのである。

はっきり言って、大学院の定員数の急激な拡大は、単純に大学の予算拡大を狙って行われたものです。学問の発展や社会の要請、果ては人材の育成云々と言った理由はまったくの建前です。
 少子化に伴って自然減少していくことが明白な学生数を、一時的に増大させるのに最も効果的な方法は、定員の拡大です。
 大学院の定員の拡大は、学部の定員をまったく増やすことなく大学全体の定員を拡大させる魔法でした。なにしろ大学院は大学とは「別」なのですから。
 この戦略を真っ先に実行したのが東大法学部です。
(中略)
 東大は、日本の大学の中では絶対的な存在なのです。そうであるからこそ、東大が改革を行えば、必ず他大学も改革せざるをえない事態になるのです。(p323)

 ところで『新・大学教授になる方法』という本がある。この本には「10年間の無収入時代を耐えることができれば大学教授になれる」ことを謡っている。『新・大学教授になる方法』と『学歴ロンダリング』は同じ事実を肯定的/否定的に評価しているだけなのだ。『新・大学教授になる方法』は「しばらく食えないけれど、耐えれば大丈夫」といい、『学歴ロンダリング』は「食えない期間は非常にキツい」ことを言っている本なのである。厳密には書かれた時期の問題でポスドク問題などの現代特有の問題が起きており、『新・大学教授になる方法』はポスドク問題などには対応していない。その点での問題点はあるようだが、基本的に研究者という生き方は「若いうちは食えない」ものなのであろう。

 私は幸運にも、文系の中では比較的就職率の高い教育学を先行している。これはいざとなったら「教員」というカードを切れるということが大きいようだ。看護学校の必須科目でも「教育学」の授業があるなど、「教育」分野には潜在的需要が存在しているのだ。ありがたいと言ったらありがたい話である。
 
 この本を読み、人生プランについて改めて考えてみた。「修士にいくのはお勧め。でも博士課程はやめといた方がいい」とのメッセージを受け、「本当に俺は博士課程にいくべきなのだろうか?」と思ったからである。
 いろいろあって、最終的な結論として、

①修士課程は行く。できれば東大。
②修士を終えたら、一度社会に出る。それは教員や出版関係である。
③働きながら社会人枠で博士課程に入る。

 こういうルートを考えていないと、研究者として生きていけない。博士課程卒は食えないからだ。
 それにしてもニコニコ動画「創作童話 博士が100人いる村」のラストシーンは印象的だった。

抜粋 パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育』

 信頼のおけない言葉は、構成要素が二分させられるときに生まれる。それは現実を変革することができない。言葉が行動の次元を失うときには、省察も自らその影響をうける。そして言葉は、無駄話、空虚な放言、疎外されかつ疎外するたわ言に変えられる。それは世界を告発することのできないうつろな言葉になる。なぜなら告発は変革への積極的関与なしにはフナこうであり、変革は行動なしにありえないからである。
 逆に行動が極端に強調されて省察が犠牲にされるならば、言葉は行動至上主義に変えられる。行動至上主義、すなわち行動のための行動は、真の実践を否定し、対話を不可能にする。いずれにしても二分化は、偽りの存在形態をつくりだすことによって偽りの思考形態を生み、それが先の二分化をさらに強めるのである。
 人間存在は沈黙していることはできず、偽りの言葉によって豊かにされることもない。それを豊かにしうるのは真の言葉だけであり、人間はそれを用いて世界を変革する。人間らしく存在するということは、世界を命名し、それを変えることである。いったん命名されると、世界は再び課題として命名者の前に表れ、新たな命名をかれらに求める。人間は沈黙のなかでではなく、言葉、労働、そして行動―省察のなかで自己を確立するのである。(p96)

内田樹『街場の教育論』

 まず、師弟についての部分から。内田は師弟関係の重要性を繰り返し説明する特異な学者である。かなりカタカナ言葉を使い、衒学的なところはあるのだが…。

 

不思議な話ですけれど、レヴィナスが「レヴィナス哲学」の語り手になるためには師に出会う必要があった。けれども、レヴィナスがその師から教わったのは、哲学ではなくて、ユダヤ教の経典であるタルムードの、それも「アガダー」と呼ばれる一領域についての解釈の仕方だけだったのです。つまり、レヴィナスの知的可能性を開花させたのは、師から「教わったこと」ではなくて、「師を持ったこと」という事実そのものだったということです。
 「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。
 
 ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高く設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言いえるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。それが本人には「うぬぼれ」だと自覚されていないだけ、いっそう悪質なものになりかねません。
 ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。(pp154~156)

→非常に感銘を受けた箇所である。こんな場所が、『街場の教育論』にはあふれている。
 他にも、こんなものがある。

 最初に、次のことだけをみなさんと合意しておきたいと思います。
(1)教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。
(2)それゆえ、教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである(私たちがなす議論も含めて)。
(3)教育制度は一時停止して根本的に補修するということができない。その制度の瑕疵は、「現に瑕疵のある制度」を通じて補正するしかない。
(4)教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである。
 ざっとこれくらいのことを教育論の前提としてご了承いただければ、と思います。(pp21~22)

→不毛な教育論を回避するための前提作り。たしかに重要なことだ。なお、オーバーアチーブについて、は以下の説明を見ていただきたい。東洋経済オンラインマガジンより。

「オーバーアチーブ」とは耳慣れない言葉かもしれませんが、「overachieve」すなわち「期待以上の成果をあげる」という意味です。
 私たちは通常、さまざまな「期待」に囲まれながら働いています。上司の期待、取引先の期待、お客様の期待……。それが「ノルマ」という形をとることもあれば、「希望」止まりの場合もありますが、いずれにせよ仕事をしている限り、周囲の期待と無縁でいることはできません。
  だからもしあなたが、「期待以下」の仕事をしてしまえば、それは問題でしょう。「書類を3日で仕上げるように」と言われたのに、もし締め切りを過ぎてしま えば、それは「期待以下」の仕事です。言われたこと、期待されたこともろくにできない、三流の人材ということになってしまいます。

他に気に入った箇所を引用していく。

「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。(p59)

教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自信が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。(p142)

人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。
 ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する激しい欲望に灼かれていることが必要である。(p158)

すべての人間的資質は葛藤を通じて成熟する。これは経験的にたしかなことです。あらゆる感情は葛藤を通じて深まる。(p252)

→このために、教員は葛藤を子どもに生じさせる役割をもっている、と内田はまとめている。

この本は、「学校の先生たちが元気になる」ことを目的に書かれた本である。読んでみると、他の教育論とは毛色が違って面白い。