早稲田駅前の鍵屋さんで、我が家のスペアキーを作った。
オリジナルを元にして、おじさんが機械で削る。その時間、3分弱。
あっという間にスペアキーができた。
不思議なことに、スペアの方がオリジナルのキーよりも鍵の開閉が楽なのだ。今ではもっぱらコピーを愛用するようになった。オリジナルの方がスペアになったのだ。
スペア(コピー)の方が、オリジナルよりも価値的。
考えてみれば不思議だが、現実社会でもオリジナルよりコピーの方が扱いやすいことが多いのではないか。タブローに描かれたモナリザも、印刷され人びとの手元に美術集として掲載された方が多くの人に見てもらえる。多くの人が芸術に親しめる。案外、遠くにあるものよりも手身近なもののほうが価値を感じるようだ。
昨日、やはり早稲田駅前の あゆみBOOKS で『叶恭子写真集』が売られているのを目にしたが、これも写真で鑑賞する方がオリジナルの叶女史よりも美しいのではないのだろうか。
モーセがシナイ山にいるあいだ、イスラエルの民衆は「遠くの目に見えない神より、近くの神がいい」といって金の子牛を作った。オリジナルの神よりコピーの方が価値的だと感じたのだ。
コピーがあるにもかかわらず、「オリジナルの方が価値が高い」とされるのは何故だろう。コピー/オリジナル問題は、オリジナルのもつカリスマ性を認知されるか否かにかかってくる。
話は変わるが、私の座右の書『小論文を学ぶ』には、コピー/オリジナル論が出ている。そこには「オリジナルとコピーの境界がなくなるとき、それはオリジナルの権威も失墜することを意味する」(p110)とある。
「オリジナル」と「コピー」が融解して何がホンモノで何がニセモノであるかわからないような世界のありかたを、フランスの社会学者のボードリヤールというひとは、「シミュラークル」という概念で言い表そうとしているが、現代はハイパー・リアルな「シミュラークル」化した世界になろうとしているといっていいだろう。(p110)
作者の長尾氏はオリジナル/コピーが対等であるというシミュラークルを元に議論をしている。
けれどこの論に【時にはコピーの方が価値が高いことがある】という事実についても含めて、考察をすべきなのかもしれない。
私の家の鍵のように。