京都では寺院の名前が、そのまま地名になっているところがある。
例・銀閣寺
京都では寺院の名前が、そのまま地名になっているところがある。
例・銀閣寺
ラーメンズのネタの中で「京都の人口の半分は仏像、もう半分が修学旅行生」とあった。
今日行ってわかったのは仏像3分の1、修学旅行生3分の1、残り3分の1は外国人だ、ということだった。
めざすなら、夏は駿台。
遊んでしまったら、春は駿河台。
京都駅に手塚治虫のちょっとした博物館がある。しげしげと、観光を忘れ小1時間「ネオファウスト」を読んでいた。
未完の書である。続きを読みたかった。
それにしてもゲーテをもとに漫画を書くという、手塚治虫の思い切りのよさに感銘をうける。ゲーテを引用することは私にも出来るが、ゲーテをまくらに話を組み立てることはそう出来るわけではないからだ。漫画の神様にしか出来ぬことであろう。
旅行に行くとき、トートバッグがあると便利である。
お土産いれるとき、大きな荷物をロッカーにいれ財布やカメラを運ぶとき、ゴミを別に分けるとき
…多くの使い方がある。あると便利、ないと不便。今日私は京都観光。無くて困っている。どこかで買おうか?
貝原益軒の著作「養生訓」には、いかにすれば長寿できるかが項目別に書かれている。貝原の実践にもとづいているそうだ。
限りある命を、養生する方法をしらないまま、無駄にするのは自殺と同じ。この貝原の指摘にハッとした。
この本のすごいところは「長生きしたいなら、若いときに性行為をやりまくってはならない」とまともに書いているところである。最近のどの本にも「ここまでストレートに書かないだろう」というくらい、明確に書いている。
自分が真実と思うことを言い切る。貝原の姿からその重要性を感じた。
ものには言い方がある。これを私は高2で学んだ。
学習の場において、自己目的化が多い気がする。
子どものノートとり、参考書への過度のマーキング、下線引くのにわざわざ定規を使う、線を引いて消せばいいものをわざわざ消しゴムで消し、ボールペンでいいのにシャーペンでカシャカシャ無駄な芯出しの苦労をする。
何かあてはまることはないだろうか?
全て、学習には何の関係もない行為である。何でこんな無駄をするのか。学校の教師の学び方が下手で、効率のいい学習法を提示できない点に問題があるのでないか。
洋書でオーウェルの「1984」を読んだ。といっても、学習者用に易しくなっている本だ。
筋はわかる。しかし、英語力のなさがたかり、細部は読み取れなかった。
結局、「読了のための読書」になってしまった。読書の自己目的化である。これでよいのだろうか?
カントが死の床でいったように「これでよいのだ」といいきれれば楽であるのだが。
(わかる人にもわからないネタ)
ニイタカヤマノボレ
英語で言うと?
マウンテン・ドゥー