性急は愚かさの母である。
→迅速と性急はどうちがう?
性急は愚かさの母である。
→迅速と性急はどうちがう?
カレーの辛さ表示、全国共通に出来ないのか?
未来を開き、未来を育むといっても、その主体は「人間」にあるといってよい。「人間」をつくりあげる事業こそ、すなわち教育にほかなりません。「人間」の内なる無限の可能性を開き鍛え、そのエネルギーを価値の創造へと導くものです。いわば教育は、社会を開き、時代を決する「根源の力」であります。
リボンの騎士にも、ドラえもんの映画「のび太の大魔境」にも、玉座をねらう悪い大臣が出てくる。
なぜ、あえてこのような者を大臣にしているのか?私は社会学の用語である「コアプテーション」がヒントになると思う。
対抗勢力を敵視せず、あえて自分の陣営に取り込むこと、それがコアプテーションだ。
国内をまとめるため、あえて政敵を大臣とし、大臣派の人々を懐柔した王様。しかし大臣は王を目指す。ここからさきほどの物語が始まる。
現実社会にもこれがあり、自民党の旧派閥が該当するだろう。
モンテクリスト伯という小説に、次のような一文がある。
子どものときに、またはじめて食すときまずいものが、しばらくすると珍味としてもてはやされるようになる、と。
ビールに始まり、牡蠣、雲丹、煙草など多くのものが該当するだろう。
私は豆乳もそのひとつでないかと思うようになった。
批判するのは人の自由である。しかし私は何も表現しない批判者よりも、批判されつつも表現する側にまわりたい。
知られていないが、稲には花が咲く。写真の白いのがそれである。私の実家で撮影した。
実物に触れないとわからないものがある。そこで暮らさないと見えないものがある。
教育における多様な経験の重要性を思う。
引用。
「情報の価値とは何でしょう。
それは関係性にあると思います。
個別の情報ではなく、それらが出会い、溶け合い、融合したところから、新しい生命を持った情報が生まれる。それこそが価値となるのです。」
→創造における、直感や偶然の復権を説いた本である。
京都などに教師がいく際、写真を撮ってくる。
後日それをスライドショーしつつ、教科書ではわかりにくいことを、教師の経験とビジュアルをもちい、解説する。
地理や歴史、政経など多くの社会科科目で活用できる。
生きた学問を伝えられる。それに教師の経験を話せるので、授業が生き生きする。
携帯は歩きながら考える・字を書くのに最適なツールである。
片手でかける、字が暴れない、帰宅後すぐに文章化できる。
実際、この文章は西田幾太郎ゆかりの哲学の道を南禅寺に歩みつつ、書いている。
もう少し技術があがればブラインドタッチも可能になるのだが…