「経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかでなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです」(157-158)
松下幸之助は「百聞百見は一験に如かず」との名言を残している。
単に目で読んだり、耳で聞いたりしただけでは「情報」に過ぎない。
それを「知恵」に変えるのが「一験」、つまり自分で実際にやってみるという事である。
しかし、この「経験」も、言葉にすることができないと無意味であると長田はいう。
言葉にする、つまり言語化するということは自分の中で「納得」する・「腑に落ちる」ということが必要となる。
言語によって振り返りを行うことで、普遍的なルールを学習することが出来るのである。
長田の言葉は「言葉にできない経験はのこらない」と続く。
言葉を豊かにする、つまり読書や学習で自分の触れる言葉を多くすることで、より多くを気づけるようになるのである。
また、同じ経験から多くを学べるようになる。
よく「経験」か「知識」か、という不毛な対立関係が教育界で議論されている。
重要なのは単なる「経験」も、単なる「知識」も、役には立たないということだ。
バランスよく、「両方」を提供できるなら、それが一番の解決策となる。
言葉を豊かにすることについて、長田は次のように述べる。
「読書というのは、実を言うと、本を読むということではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうということです。みずから言葉と付きあって、わたしたちはわたしたち自身の記憶というものを確かにしてきました」(182-183)
「みずから言葉と付きあう」読書は、自分のなかに言葉を「育てる」ことでもある。
「簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です」(197)
こういった言葉を「育てる」行為全体が「読書」なのである。
「すべて読書からはじまる。本を読むことが、読書なのではありません。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です」(214)