大学と楽しさを並記させる感性。
大学は「楽しさ」を求めて入るところではないと思う。
結果的に「学ぶ楽しさ」に気付くことがあってもいいが、それを大学のカリキュラム的に設定すべきではない。
「楽しさ」なんていう内面的価値を大学の売りにするのは一種の洗脳だ。
大学で個人の見出だす価値は多様でいい。学ばない自由/退学する自由も含めて大学なのだ。
昨日からの卓球の愛ちゃんの中退を巡る騒動を見ていてもそう思う。
大学と楽しさを並記させる感性。
大学は「楽しさ」を求めて入るところではないと思う。
結果的に「学ぶ楽しさ」に気付くことがあってもいいが、それを大学のカリキュラム的に設定すべきではない。
「楽しさ」なんていう内面的価値を大学の売りにするのは一種の洗脳だ。
大学で個人の見出だす価値は多様でいい。学ばない自由/退学する自由も含めて大学なのだ。
昨日からの卓球の愛ちゃんの中退を巡る騒動を見ていてもそう思う。
やる気のない日常の光景。高田馬場にて。
高田馬場駅そばの小学校で芝生化の作業が行われている。なんでも老朽化したゴムチップのグラウンドを剥がして芝生にするらしい。
どうせ剥がすなら、はじめから芝生でよかったのではないか、と思う。無駄な公共事業。
芝生にすると除草剤や肥料をけっこう使う必要が出てくる。「学校環境の緑化」というと聞こえがいいが、芝生化が本当に環境にいいことか、検討してみる必要がある。
講習会等の際、必要な文房具の「たすかる」セット。
知のパッケージ化が起きているような気がする。
日本児童教育専門学校(高田馬場)の張り紙。
子どもに生きる、とは何なのか? 子どものまま暮らすことか、子どものために人生を捧げる人のことか?
思うに、私は保育園や幼稚園の先生に「わたしの人生はあなたたち子どものためにあるのよ」と言われるとプレッシャーを感じてしまう。「そんなことして頂かなくても…」と感じる。
人生の意味は人に奉仕することにある。そういう人がけっこういる。けれど私はあくまで自分の人生を大事にした上でいうべき言葉だと思う。そうでないと捧げられる側がプレッシャーなのである。
ある雑誌広告に、ゴミ出し作業をしていて気付く。
「生きることがリハビリ」
何とも言えない違和感を感じる。
リハビリは、よりよく生きるために行うものだがリハビリが人生それ自体を意味するような言葉だと思うからだ。
『Twitter社会学』(津田大介、洋泉社)を読了。「速さ」がネット時代において強烈な力になることを実感した。
JR加古川駅のコンビニで、網野先生の日本史本を購入した。
こんなところで買えるとは…。
コンビニ本、恐るべし、である。日本の文化性の向上とも言えようか。
虐待する親から子どもを引き離し児童養護施設に入れても、親が親権を訴え、連れ戻しに来る。
ちょうどいま連載中の『GTO』でも、この問題を扱っている。
もともと公立学校は親が子どもを使役・労役するのを防ぐために作られた側面がある。つまり親が虐待をする前提で、学校は作られたのである。
いま親に過度の期待をしすぎているのかもしれない。その風潮を正す意味でも、今回の親権制限への政策は画期的といえるだろう。
勝ち組・負け組という言葉がある。
今日、本屋で<できる子・できない子>という説明の仕方を目にした。どうやら勝ち組・負け組と同じようなくくりらしい。親に恐怖心を与え、早期教育に走らせる魂胆だ。
人間を出来る・出来ないや勝ち・負けで見ること、私は嫌いだ。