無糖缶コーヒーをよく見る。糖分を気にする人・カロリーを気にする人が増えてきたようだ。しかしそういう人に鍵って普通にラーメンやビールを口にしている。なら食うなよ、といいたいのである。
未分類
不審者
この看板、一見正しい看板にみえる。しかし本当は恐ろしい看板だ。
この高級住宅に相応しくない人物−−例えば私のような−−を締め出す発想だ。
「怪しそうだから通報する」はアメリカのイラク攻撃と同じである。「民主主義の敵に見えるから先に攻撃して倒してしまえ」と。
バレンタイン・チョコ
私は今年の2月14日、ボランティア先の学校の生徒にチョコを12個渡した。
よく男性は「チョコを何個もらった」と話す。そのながれでいえば、私はマイナス12個である。
自販機売り上げの一位
自販機売り上げの一位がクリスタルガイザーであった。ペットボトルでは最安の商品である。せちがらい。
世の中の不景気を感じた。
なお、写真は西武線・東村山駅ホームの自販機である。
高田馬場駅の変化
西武線・高田馬場駅の看板が変わった。単に新しくなっただけでなく、ハングル表記も追加された。
多文化共生社会の変動の一つの現れである。
近代
書評・山本政男『ヨーロッパ「近代」の終焉』(講談社現代新書、1992年)
本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)
文字の洪水の中から「近代」や「ポストモダン」という単語が目に飛び込んでくるようになった。公教育という「近代」の営みについて研究している者として、ある意味あるべき姿なのかもしれない。
ヨーロッパの「近代」は、人類の歴史のなかでかつて見なかったような激動の時期であったが、それだけに、光と蔭の対照も明確であった。その「近代」の光と蔭は、これまで述べてきたように、あるていど時間的な順序をもっていたことがわかる。すなわち、十六・十七・十八世紀を「近代」の光の部分だとすれば、蔭の部分は、まさに十九世紀ということになろう。もちろん、これもヨーロッパの中で多少のずれがあることは言うまでもない。だが、このずれも十九世紀の中期ごろにはほぼ足並みが揃ってくる。そして、ちょうどこの時期に、日本は西洋世界に向けて門戸を開くのである。
ということは、当初の日本が理念とした近代ヨーロッパとは、じつは蔭の部分のそれではなかったのかという想いが湧いてくる。(山本1992)
1992年に山本が書いている点がすごい。
日本的海外感
異国としての海外から、気軽に行ける場所としての海外、しかも「比較される海外」となっている。
単に「海外だから行きたい」でなく、「あそこよりもここの国がいい」と比較される存在になっている。
ポスト週刊誌の時代
現在、週刊誌低迷の時代を迎えている。週刊新潮のノリは無料の2ちゃんねるに取って代わられたようだ。
ポスト週刊新潮やポスト週刊ポスト時代を考えていく必要がある。
「ポスト週刊ポスト」といいたいだけではないか、との指摘はしないでいただきたい。
歩行者和歌
歩行者に
注意と書いた
看板を
読んでる間に
歩行者を轢く
学校の精神性
今年で私は大学4年生。私が入学したときの先輩はほぼ大学から消える。
早稲田らしさというものが人が代わっても残り続けている実感がある。その点が不思議である。










