銭湯の持つ公共性

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【コラム・断 講談師・神田茜】銭湯は教育の場https://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070727/wdi070727001.htm

 銭湯のよさを、ここまで語る。でも、下の引用文でいっているのは、「銭湯で公共性を学べる」ことのみであって、「銭湯でないと学べない」と書いていない。
 
 たしかに、教育のためには多くの事物が必要だ。「教育のための社会」にとってなおさらである。が、あくまでこの事物は絶対性を持つわけではない。

 感覚で教育を語っているような気がして、しかたない。重要なことではあるのだが。

 銭湯が減っている。ここ数年で近所の銭湯が2軒なくなり、大変なショックをうけた。わが家ではたまに行く銭湯が、子どもたちの社会勉強の場所でもあったからだ。

 そこで他人とのかかわり方を知ることができた。体を洗ってから湯船につかる。立ったままお湯を掛けない。走らない。騒がない。体を仮拭きしてから上がる。それらの公共性を自然に身につけられ、自分の行動で迷惑をかけるひとがいるということを、実体験で学ぶことができた。

  勝手に水を入れて湯をぬるくすれば、怒鳴りつけるお年よりもいる。よく顔を会わせる大人たちとは叱ったり叱られたりが許される信頼関係ができる。電車の中 でいきなり知らないひとに怒られるのと、顔見知りに叱られるのとでは大きな違いだろう。地域の子供とかかわりたいのに機会がないという大人だって結構いる ものだ。

 子供にとっても、よその大人とふれあうことができる格好の場所ではないだろうか。男の子で あれば、大人の男をそこで学び、女の子もしかり。親としては生活をさらけ出すようなうっとうしさも感じるのだが、家庭内の親子だけの空間で道徳心や公共性 を教えることがどんなに難しいかも、身をもって感じている。しつけがなっていないことを親はせめられてばかりだが、親たちも公共性を学ぶ機会がなかった世 代なのだ。

 最近子供たちへの道徳教育の必要性が叫ばれているが、銭湯こそ子供にとって必要な場所ではないかと思う。流行(はや)りのスパや健康ランドのように、何も地下深くから温泉を汲(く)み上げなくても、近所で気軽に行ける銭湯がまた復活してほしい。(講談師・神田茜)

(2007/07/27 07:43)

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