なんか知らぬが、俺のいた寮では、変な決まりがある。
腰に巻くタオル。入浴時、落ちぬよう、洗濯挟みで継ぎ目をとめるのだ。
面白く、合理的な決まりであったものだ。
なんか知らぬが、俺のいた寮では、変な決まりがある。
腰に巻くタオル。入浴時、落ちぬよう、洗濯挟みで継ぎ目をとめるのだ。
面白く、合理的な決まりであったものだ。
マッハのみた世界、それはマッハにとっての直接経験である。マッハがものを学ぶとき、写真に示した世界を見ているということを意味する。「客観的」だと思われるものも、結局は白黒で示したマッハの写真のように、「主観的」なものが前提になっている。
フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた。この場合、学問的であるためには、なんとしても、この光景に還元せねばならないのである。というのも、私たちは、この光景(あるいは表象)の外に出ることができないからであり、それにもかかわらず、その外に出られると考えるのは、非学問的だからである。
谷徹『これが現象学だ』(p47、2002年、講談社現代新書)

ちなみに、右のが私が試みた「私の直接経験」である。マッハの絵をもとにした。

モノより思い出より、経験。
これがプライスレスで、人生で最も役立つものでは? あと人間関係があれば完ぺき。
政変のとき、普段雑誌を買わない層は、「気になる!」と思って雑誌を買うのだろう。
何も事件のないとき、それでも売り上げを高めようとするため、デマやでっちあげ報道をしてでも、マスコミは自ら重要な事件をつくろうとするのかもしれない。
何もないなら、わざわざ雑誌を作らずともよいのではないだろうか。報道自体が自己目的化していないか。
自分は積分的生き方をしているかも知れぬ。
すべてに於いて、ワカッタツモリになっている。
ゴロ的に、「修正液がかかった」とは言いづらい。
聞き方によっては「精液」なので。
japanとは、漆の意。
だからjapanをバッシングすると、かぶれるゼ。
A「集合場所は落合駅にしようよ」
B「なんで?」
A「落合で落ち合いたいから」
下痢は起きてほしくない最悪のタイミングで、出現する。
入試、結婚式、バイト中、電車内。
まさにゲリラ的。だから下痢というのだろうか?
中国論がよく語られる昨今である。
私はいろんな中国論を聞くが、ひとつ重要な点を外した議論が多いと思う。
それは中国には日本の10倍人がいる、という点だ。
中国製品叩きはいま多い。しかし、日本の10倍人がいるのだから日本の10倍不良品が出ても、半ば当然といえるのでないか。
犯罪者が仮に日本の10倍いても当然である。人口が10倍違うのだから。
軍事もしかり。日本はかなりの軍事大国。それでも人口は中国の10分の1。なら中国が日本の10倍の軍事を持たぬかぎり、中国のみを軍事大国と批判することはルール違反のはずだ。
人口が10倍違うのだから、浮浪者も悪人も仮に10倍いて当たり前である。
むしろ逆の面も見るべきだ。人口が10倍違うということは、日本より10倍天才がでて当然である。経済規模が10倍になっても不思議はない。
人口の視点を、我々は発想の根幹に置かぬと、本質が見えなくなるかもしれぬ。