2009年 4月 の投稿一覧

山のあなたの空遠く 「幸(さいわい)」住むと人のいう (カール=ブッセ)

どこか遠くに幸せがある。どこか遠くに自分のことを本当に理解してくれる親友がいる。

そんなわけはない。密かに期待している自分に対し、戒めの為にここに書いておく。

今いる場所でないところに幸福があるか、どうか。実際にあちこちに行ってみなければ分からない。手間も暇もお金もかかる。そんなカンタンに移動できないからこそ、人は夢を見てしまう。そして現状の慰めとして、〈遠くにある/いる幸せ〉ユートピアを設けるのだろう。もし仮にユートピアがあったとしても、そこに行き着かない可能性も考えなければならない(砂漠ではオアシスの幻が見えます。ユートピア=オアシスに向かっていても、それが蜃気楼だったら悲しすぎますね)。ユートピアの存在を信じるのはリスクが大きい。

どこか遠くに幸せはない。どこか遠くに親友がいるわけではない。だからこそ、今いる人間関係をよくしていくしかない。

幸せの青い鳥は、あんがい身近にしかいない。今までの自分は近くにいた「青っぽい鳥」をカゴからわざわざ逃がしていたのではないか。洗ってあげていれば青くなったのかもしれないのに。

どこか遠くに幸せがあると考えることにリスクがある以上、今いる現実で満足するしかない。つまり、いまの現実を楽しむしかないのだ。現実を否定して「俺は不幸だ」と考えるのは、頭のいいやり方ではない(オアシスの蜃気楼をみることになる)。

アランは「悲観主義は感情によるものだが、楽観主義は意思によるものである」と語る。意識的に楽観主義で現状を楽しむことが大切なのだ。

内田樹は‘幸せになるには開放系をとるしかない’と書いた(『疲れすぎて眠れない夜のために』)。現状の人間関係を否定せず、楽しめる方法を考えていくことが、現代の「幸せになる方法」なのかもしれない。

自分の言葉

自分の中で哲学を発見しながら、生きている。他者の本を読んで得たものも、自分の中で熟し、自分の言葉で表現できるようにならなければ本当に自分のものになったとは言えないのではないだろうか。

ショーペンハウアーも〈本を読みすぎると、自分で考えなくなる〉危険性を語る。

自分の言葉で表せなければ、借り物の知識にすぎない。

このブログの中に、こうした自分なりの哲学が多少なりとも入っている。雑文ではなく、こうした哲学的考察の記述を多くしていきたい。

まあ、内田樹にいわせてしまえば〈100%オリジナルな言葉など存在しない〉ことになってしまうのであるが。

石田一とは誰だ?

石田一というペンネームを用いて、私はずっとブログを書いてきた。私が「石田一」を名乗るわけであるから、「石田一」イコール「私」であるはず。けれど、読み直すとブログにいるのは「私」ではなく「過去の私」しかいないことに気づく。「あれ、俺こんなこと書いたっけ?」。ずっと昔の記述とほぼ同様のものが書かれていることがあるのはそのためだ。「過去の私」の別名が石田一である。

内田樹(本当によくこのブログに最近登場するなあ)はこう言う。自身のブログ〈内田樹の研究室〉の著者は「ヴァーチャル内田」である、と。「ヴァ―チャル内田」はホンモノの内田樹よりも人間性の高い人物である、という。

このブログを書いている瞬間の「私」はまぎれもなく「私」である。この時において石田一は「私」をさすのだ。けれど、ブログに投稿後、ネット画面を確認して読んでいるとき、もはやその文章は「石田一」の文責となる。一瞬間後の「私」は「石田一」にほかならず、「私」ではないのだ。

私がこのブログを読むとき(特に2年ほど前の記述を)、石田一という人物と対話をしている感覚になる。

今日は、やけにややこしいことを書いてしまった。今から明日のゼミのレジュメを作らないといけないため、気晴らしに書いていた。これも「石田一」が書いたのであって、現実世界の「私」が書いたわけではない(責任逃れ)。

追記
調べてみれば、さっそく見つかりました。「俺オリジナル」と思っていた発想が、実は誰かの発想をそのまま口にしていた、というケースが。http://nomad-edu.net/?p=501

4月2日の投稿より。

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 本日読了。相変わらず内田は面白い。 

レヴィナス老師は「時間とは私の他者との関係そのものである」と書いた。
 時間 のうちで、私は絶えず私自身ではなくなり、他者も別のものとなってゆく。私は他者といつか出会えるかもしれないし、出会えないかも知らない。私は他者に 会ったことがあるのかも知れないけれど、今のところそれを思い出すことができない。時間とは、端的に言えば、この過去と未来に拡がる未決性のことである。 私の現在の無能がそのまま底知れない可能性に転じる開放性のことである。(pp25~26)

問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない」
 これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の病像である。
 ニートというのは、多くの人が考えているのとは逆に「合理的に(あまりに合理的に)思考する人たち」なのである。(p31)

 

 

WBC

うちの近くの専門学校。

そうだったら、いいだろうな

歴史には裏話がつきものである。
フランス革命。バスチーユ牢獄には政治犯は一人も入っていなかった。〈にもかかわらず〉、「政治犯を解放する為にバスチーユ牢獄を襲撃した」と説明される。「そうだったら、かっこいいだろうな」という願望が嘘を事実に見せかける。

「そうだったら、かっこいいだろうな」という思いが、義経をチンギス=ハーンに成し上げる。

一匹狼に憧れて。

ジェームス=ボンドやゴルゴ13等、名だたるプロは常に一匹狼。ポアロもホームズも、基本的には日常は孤独である。その方が逆にプラスになっている。情報が漏れることもなければ、仲間割れもない。情報を共有する必要がないのでスピーディである。

彼らの姿がフィクションであることはわかっている。けれど、〈孤独でいる方が多くを成し遂げられるのではないか〉と思ってしまう。現実に幾つかの団体・集まりで〈集団のしがらみ〉を実感している分、よけいにそう感じる。

大学に行く前から「将来、必ず独立したい」という思いがあった。仕事が何であるかを決める前から、すでに感じていた。そのためか、〈集団のしがらみ〉を感じるたびに一匹狼に憧れてしまう。

〈孤独でいる方が多くを成し遂げられるのではないか〉との仮説。これは私が、「もしそうだったらいいな」と思っているだけなのか。もしそうなら、〈人間は見たいものだけを見る〉という構造主義の知見の正しさが証明されることとなる。

追記。
そういえば北杜夫の『どくとるマンボウ青春期』では〈成熟した人間には孤独こそが望ましい〉とあった。

さらに追記(09年7月26日未明)。
 いまの私はやたら「相棒」や「パートナー」を無意識的に探すことが多くなった。一人では何も成せない、けれど支えあえる「仲間」がいれば大事業を成すことも不可能ではないのではないか。こう考えるようになった。
 一匹狼を貫くことはキツい。精神的に強い者でなければ挫折を被る。けれど、「相棒」がいた場合は話は別だ。支えあえる。またアイデアを共有できる。それで成功したのが藤子不二雄だ。漫才師も結局は「二人」だからこそ笑いを生み出すことができる。
 一匹狼に憧れる自分ではあるが、それを「承認」してくれる「仲間」がなければ戦い続けることは困難であると自覚するようになった。
 自分一人に自己完結せず、自らの思いを他者に語ることが重要なのだ(傷つくことを恐れずに)。

そんな先のことはわからない。

B:今晩はどうするの?
A:そんな先のことはわからない。

映画『カサブランカ』内の言葉である。

私の場合も、その日がどうなるのかよくわからない。妙に親近感を覚える言葉である。

映画『オリエント急行殺人事件』

いくつかの映画評論などから、「皆が犯人」というパターンの推理ドラマであるということは知っていた。けれどこの結末は予想外であった。

映画『容疑者Xの献身』は昨年見た。
〈事実が明らかになっても、誰のためにもならない〉という後味の悪い映画であった。それに比べ、『オリエント急行殺人事件』は〈事実よりも大切なものがある〉というスタンスをとっている。

事実や真理は必要な物である。けれど常にそれだけに価値があるのではない。イデア論は現在の私たちが読むと、うさん臭さを感じる理論である。同様に、〈神託〉がどうのこうの、という理論も「非科学的だ」と感じる。けれど、それを理由にプラトンが迷信にとらわれていた/真理を捉え損ねていたとは誰も言わない。

社会のため/人びとのために、真理が犠牲にされるときもあるべきではないのか。それを感じた。

就活生

このところ、私の周りの友人の就職活動が少しづつ決まり始めている。不景気なだけに、すばらしいことである。

ただ、夢を妥協させる形で内定を得ている人が多い気がするのは杞憂だろうか。
内田樹は‘仕事は「やりたいもの」ではなく、「やりたくないもの」を除外して、それでも残ったものをすべきだ’と書いていた。この考えを多くの人が実践しているのだろうか。
昨夜、後輩一人・先輩2名と早稲田のOutsiderで飲む。その時飲んだラスティ・ネイル(ちょうど店内で『オーシャンズ12』をやっていたので、ブラピにあやかった)が未だに残っていて、頭が痛い。
就職について何も対策していない私が、こんなお気楽な生活を続けていいのだろうか。この私が、他人に揶揄することはできないのではないか。反省しつつ、筆をおくこととする。

『フリースクールからの政策提言』を読む③

 続いて、『提言』内に示された精神性についてを見ていく。
 『提言』は〈子どもの意思の尊重〉を重視している。学校があわなければ休むことを選択できるようにする・学校とは違う学びの場である「フリースクール等」(『提言』では「フリースクール、フリースペース、居場所、ホームエジュケーションのネットワークや訪問支援等の活動を含めて、『フリースクール等』と表示しています」とある)にいけるようにする等、さまざまな形態での「学び」重視を行っている。この背景には『子どもの権利条約』等の法規に示された、〈子どもの権利保障〉の実現、という考え方がある。不登校の子どもの意見を反映することなど、『提言』で示した政策提言の根拠を〈子どもの権利保障〉に置いているのである(このケースでは「意見を聞いてもらう権利」)。
 学校教育は教育基本法や学校教育法、文科省の学習指導要領や学校設置基準などに縛られて行われている。これらの法規はいずれも「教育はこうあるべきだ」「教育はこう行わなければならない」というスタンスで書かれたものである。学校教育はともすれば「あるべき教育像」を重視し現実の子どもたちを無視したものになる可能性がある。対して、『子どもの権利条約』等の〈子どもの権利保障〉を謳った法規は「あるべき教育像」より先に「子どもの権利を保障しよう」という立場から始まる。
 全体を重視するか、個を重視するか。学校教育と「フリースクール等」とでは教育に対する立ち位置が違う。日本国の教育の体制を定めているのが学校教育に関する法規である。フリースクールは子どもの人権保障の観点から語られるべきものである。

追記
方向性として、『提言』と『子どもの権利条約』との関係性についてを考察していこうと思う。そのため、『子どもの権利条約』に関連する法規(例えば『世界児童憲章』など)に一通り目を通しておこう。