どこか遠くに幸せがある。どこか遠くに自分のことを本当に理解してくれる親友がいる。
そんなわけはない。密かに期待している自分に対し、戒めの為にここに書いておく。
今いる場所でないところに幸福があるか、どうか。実際にあちこちに行ってみなければ分からない。手間も暇もお金もかかる。そんなカンタンに移動できないからこそ、人は夢を見てしまう。そして現状の慰めとして、〈遠くにある/いる幸せ〉ユートピアを設けるのだろう。もし仮にユートピアがあったとしても、そこに行き着かない可能性も考えなければならない(砂漠ではオアシスの幻が見えます。ユートピア=オアシスに向かっていても、それが蜃気楼だったら悲しすぎますね)。ユートピアの存在を信じるのはリスクが大きい。
どこか遠くに幸せはない。どこか遠くに親友がいるわけではない。だからこそ、今いる人間関係をよくしていくしかない。
幸せの青い鳥は、あんがい身近にしかいない。今までの自分は近くにいた「青っぽい鳥」をカゴからわざわざ逃がしていたのではないか。洗ってあげていれば青くなったのかもしれないのに。
どこか遠くに幸せがあると考えることにリスクがある以上、今いる現実で満足するしかない。つまり、いまの現実を楽しむしかないのだ。現実を否定して「俺は不幸だ」と考えるのは、頭のいいやり方ではない(オアシスの蜃気楼をみることになる)。
アランは「悲観主義は感情によるものだが、楽観主義は意思によるものである」と語る。意識的に楽観主義で現状を楽しむことが大切なのだ。
内田樹は‘幸せになるには開放系をとるしかない’と書いた(『疲れすぎて眠れない夜のために』)。現状の人間関係を否定せず、楽しめる方法を考えていくことが、現代の「幸せになる方法」なのかもしれない。