教育論

松永桂子『ローカル志向の時代 働き方、産業、経済を考えるヒント』

今年4月から、「私立高校教員」から「個人事業主」になる私。
ちょうど先日、札幌の税務署に「個人事業の開業届出」を出しに行きました。

そんな私にとって、【「個人事業主」こそが社会を変える!】的テーマで書かれた本書『ローカル志向の時代』はすごく面白い本でした。

 

2Q==

いま北海道・札幌市で4/7開業の塾設立に向けて動いています。

そんな私が勝手に「ロールモデル」としている人がいます。

それがイケダハヤトさん。

日本の元首相・池田勇人と名前がかぶるので、
あえてカタカナにしているプロブロガー。

 

イケダハヤトさんは、1986年生まれ。
早稲田大学政治経済学部2009年卒業。

私は1988年生まれ(早生まれ)で、
早稲田大学教育学部2010年卒業。

リアルに、同じ時期に、同じキャンパスにいたことになります。(密かな自慢)
(注 文学部を除く純粋文系の学部は、「西早稲田キャンパス」《現 早稲田キャンパス》にありました)

東京を捨てて「高知県」の「限界集落」に引っ越したイケダハヤトさんは、
教員時代から私のあこがれの人でした。

Z☆イケダハヤトさんの本の中でも、『新世代努力論』は「何を頑張るか」悩んだ時に役立つ本です。

私も、私立高校就職を機に東京を捨てて「北海道」に引っ越したからです。

 

いま私が住んでいる「札幌」を「地方」と言ってしまってもいいのかどうか微妙ですが、【北海道・札幌から日本の教育を面白く!】という私の目標にはゆらぎはありません(多分)。

イケダハヤトさんはじめ、「東京」以外の「地方」で活躍している若手がいまたくさんいます。

 コミュニティという言葉に敏感な世代の動きは多様化しています。農山村志向は象徴的ですが、地方であっても、都市であっても、下町であっても、顔が見える範囲でフラットな関係を築きたい、一方で、社会でなにかしら貢献したいという傾向は深まりをみせています。
あながち、「ローカル志向」を深めている背景は、ソーシャルネットワークによって支えられている部分が大きいといっても過言ではないでしょう。この世代はソーシャルネットワークを介して、ゆるやかなつながりを保とうとする傾向があります。自分の活動を孤独に遂行するというよりは、誰かに知ってもらいたい、共有したい、何らかのかたちで評価してもらいたいという気持ちがあります。そういうと大げさに聞こえますが、大なり小なり自らの活動の意義を確かめたいという動機、社会システムのなかで自分の立ち位置を明確にしたいという社会的欲求に支えられているようにみえます。
これは会社など組織への帰属意識が薄れ、個人と社会の距離感が近くなってきていることを意味します。これまで隔たりがあった個人と社会の距離感がぐっと近くなることによって、顔の見える範囲の社会といえる「地域」が存在感を高めてきています。(4-5)
☆アンダーラインは引用者です。

いまの時代、地域に根ざした「新たな自営」が存在感を高めています。

 いま「小商い」「ナリワイ」と呼ばれる「新たな自営」が存在感を高めつつあるのは興味深い現象です。これらは新技術・新分野の領域ではなく、従来型の産業の上にまたがる領域であるのが特徴です。前述のように、企業数は年20万人以上で推移しており、事業所数・企業数の減少率と比べるとその数は際立ちます。(64)

 

フリーランスとして地域で活動している人。
札幌にもたくさんいます。

本書にはそういった「新たな自営」として地域で生きるためのコツも書かれています。

地域や同業種のなかにゆるやかに帰属意識を持つことが大事になります。難しいことのようですが、経済原理は競争だけではなく、協調によっても成り立っていることを認識し、利益を追求しながら他者と共存を図るのです。
その際、同じような業種の仲間が近くにいるというのは案外、大事なことです。古今東西、歴史的にみても同業者集団が経済的にも、そして政治的にも社会のなかでプレゼンスを高めていく構図は見られます。同業者集団というのは内輪だけの理研獲得のイメージが先行しますが、危機の際にはリスクを分け合い、平準化する役割も果たします。(70-71)
アンダーラインは引用者。

地域で「新たな自営」としてやっていく以上、「同業者」とも連携することで出来ることは増えていきます。

ちょうど私も、札幌で塾をやっている人で始めた「一般社団法人Edu」に関わっています。
(なにげに「創設メンバー」です)

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「新たな自営」が1人ではできないことも、
グループで関わることでできることが広まります。

 

さて、本書『ローカル志向の時代』には「ローカル」での活動の例として波佐見焼(はさみやき)をとりあげます。

波佐見焼とは・・・。

長崎県東彼杵郡波佐見町が産地で日用食器の源流とされてきていましたが、現代的なシンプルなデザインが脚光を集めています。(・・・)
もともと、波佐見焼は長く隣町の有田に隠れた存在でした。高級志向の有田焼と異なり、波佐見焼は量産の日用品を得意としてきました。有田焼の生地作りや型起こしを担ってきた窯元も多く、伝統の技術に裏打ちされた商品スタイルの幅がひろいことが特徴です。(119-120)

私も使っていますが、軽くて薄くて使いやすい。
便利なお皿です。

9k=☆ものはら MONOHARA くらわんかコレクション ボウル 15cm 波佐見焼 15cm レッド

マルヒロでは地域おこしとしてアメリカのデザイナーと組んで「ものはら」ブランドを立ち上げるなど、古くて新しい価値を提供しています。

 

かつて「個人事業主」はダサい対象でした。
そこに「新しい自営」という新しい価値を与えるのが本書『ローカル志向の時代』です。

古くて新しい価値としての「新たな自営」。
私も札幌の塾経営を通し、実践したいと思っています。

 

 

『ヒーローを待っていても世界は変わらない』?

ヒーローって、なんだろう?
ウルトラマン?
仮面ライダー?
それとも007のジェームス・ボンド、
あるいは大阪の橋下市長?

本日3/21(土)、「読書会@札幌-帯広」にて、
反貧困ネットワークの湯浅誠氏の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』読書会を開催しました。

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>本書についての私の書評はこちら

さて、今回の読書会の議論をまとめた部分が以下に当たります。

読書会の大きなテーマは「これからの市民活動のあり方とは?」。

大きくわけて2つの立場が出ました。

(A)自分たちのために社会を変えていく組織・団体をイチから作るパターン

(B)既存の組織で活動をしていくパターン

(A)は、例えば湯浅誠氏の反貧困ネットワークやこの日本ノマド・エジュケーション協会のように、「なにもないところから」「ゼロベースで」作っていった組織のこと。
ここには今回のような読書会のほか、自発的なボランティアなどが入ります。

(A)の立場はラクでなおかつ楽しいこと。
(B)と違い、「〜〜月には・・・をしないといけない」というのが無い。
なおかつ、自分たちの好きでできる。

その一方、自分に全く関係を感じられない人、言ってしまえば社会的弱者に活動が届かない。

一方、(B)の立場には町内会や行政組織、学校のPTAなど、歴史と伝統あふれる組織が当てはまる。

ある意味、企業で働くのも(B)のパターン。

(B)は決まり事だらけ。
やりたくないこともたくさんある。

でも。
昔からあるし、歴史と伝統、そして信頼があるため、社会的弱者にも届きやすい。

誰かが「やらなけれればならない」からこそ、本当に助けが必要な人に届く。

その代わり、「やらなけれればならない」と決まっていることをわざわざやるのは、いくら社会貢献のためとはいえツラいし楽しくない。

(B)の立場を取る人が「楽しい」と思える仕組みづくりが必要でしょう。

例)PTA会長になると、「入学式でスピーチしてください」がよく来るが、それを言い訳に学校にいき、いろんな教員と関わり、学校の様子が分かる、等。

私は昔から、(B)の立場に何の魅力も感じていない。
どうせなら、「必要とされそうなことをイチからやっていく!」ほうが楽しい。

でも、この場合、「必要とされそうなこと」が、本当に「必要とされそうな人」に届かない場合がある。

難しい。

だからこそ、市民活動には(A)のものも(B)のものも必要なのでしょう。

でも私はやっぱり(A)がいいなあ。

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『「自由」はいかに可能か』読書会、開催!

本日2/28、『「自由」はいかに可能か』読書会を、読書会@札幌-帯広にて開催しました!

本書『「自由」はいかに可能か』は、私・藤本にとっては大学の学部・大学院の先輩にあたる苫野一徳さんの初の「哲学」著作。

奇しくも誕生日が同じという偶然も有りますが、その日に開催したことに(なんとなく)運命的なものを感じます。

それはさておき。

本書は自由の原理論を説いたもの。
私のような社会学くずれの人間にとって、「自由」や「正義」などはいくらでも/延々に議論できる対象です。

例)「人を殺してはいけないという反-自由権はいかに規定できるか」
例2)「教育によって人間は人間社会という暴力に侵され、それゆえに不自由である」

本書はそんな「不毛」な議論を断ち切ってくれます。

社会構想のための「原理」と認められうるのは、わたしの考えでは次の三点だけである。
①「欲望・関心相関性」の原理
②「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
③各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理(150)

 

読書会中、不毛な議論を終わらせるものとして「自由の本質を問うこの本は役立つよね」という意見が出ました。

ただ、「哲学者の引用によって【自由】を規定するのは、理論としてわかるけど、納得するのは難しい」との意見も出ています。

「自由」というのは日常語。
だからこそ哲学で議論する際は厳密さが必要。

カントやヘーゲルの言を引いて説明するのは、日常語としての「自由」と距離があるので、「腑に落ちた感」を出すというのはなかなか難しいなあ、と実感しています。

さて。

本書ではあまり気づかれていないけれどすごく大事なのは後半の「職業集団」に関するところ。

人は、何らかの職業を通して「現実的普遍のなかに位置を占る」、つまり人との関係において自己を自己たらしめる。わたしたちが”Who”(だれ)として現れ出ることを最も可能にするのは、多くの場合、このようなわたしたちの職業世界においてなのだ。
それはつまり、職業世界こそが、わたしたちにとってのより充実した「現われの空間」になる必要があるということだ。(242)

「現われの空間」とは、アーレントが『人間の条件』において示した、パブリック(公共圏)の条件である。

対話的関係性により、自己を認識し、対話により自己を変容する。
その過程の中で「自由」を実感できる場。

読書会の中では、事例として「奨学金制度」をもとに話しています。
奨学金制度。
要は低利子の借金をして大学に通う制度ですが、4年間フルで借りると数百万の借金

それを背負って社会に出ることは本当に「平等」「フェア」といえるのか?

学生個人としてだと、【まあ仕方ない】と思ってしまいます。

でも、学生団体のなかで奨学金制度について議論したり、
世間一般の人の意見を聞くと【これでいいの?】と思える制度です。

個人がいきなり「社会」と接すると、「まあ、仕方ない」「つらいけど、こんなものだろう」と思ってしまう制度も、「職業集団」的な学生の集まりや他の「大人」との議論に加わることで、
「これって、本当に自由の実質化なの?」と問題提起できます。

個人は、ハッキリ言って弱いです。
特に、日本のような「空気」全盛の社会にとっては、なおさらです。

だからこそ、「職業集団」的な対話の場・公共圏を用意していくことは必要なのでしょう。

「読書会@札幌-帯広」も、こうした公共圏を提示する場でありたいものです。

2Q==

私が早稲田で学んだこと。

私が早稲田で学んだのは「偽の二項対立をするな」ということだった。
 たとえば高校生時代の「切実な」悩みは「部活と勉学をどうやって両立するか」だった。
 この背景には、「部活もやりたい。でも受験で結果も出したい。どうやったら両方うまく行くのだろうか」という思いが存在している。
 この「悩み」を解決する方法は、当時の私が考えたもので3つある。

  ①部活のみに力を注ぐ。
  ②勉強のみに力を注ぐ。
  ③部活と勉強、両方に力を注ぐ。

 ①の場合、受験勉強がうまく行かなかった場合、その「後悔」を感じないか、というリスクがある。
 私の高校はある大学の「系列校」(付属校みたいなものだが、学校法人が違う)であった。
 私の同期生はみなその系列の大学に「推薦入学」する。
 それでいいのであれば、①の選択は可能であった。

 ②の場合。①の逆であるが、そもそも私の高校では「勉強」しかしない人に対する評価はあまり高くなかった。
 むしろ生徒の委員会活動や部活動、文化祭などに強く関わることが評価されていた。

 ③の場合。両方やるというのはもっともリスキーだ。
 なぜならば、両方ダメな結果しか残せない場合があるからだ。
 プロセスに満足できるなら、③が薦められる。
 
結局私は、③をやる形となった。厳密には私は生徒会活動が「両立」の一方の軸であった。
③の解決策こそ、「たいへんだけど、自分を成長させる」ものだと信じたからだった。
 じっさい、私の高校の友人達の間でも、③の選択肢がもてはやされていた。

 早稲田に入って学んだのは、①②③とも違う④の選択肢の存在だった。

  ④部活も勉強も、両方やらない。

 ④の選択肢の「すごさ」は、①〜③の前提をすべてひっくり返すところにある。 
 はじめは④を「不真面目」と思ってしまうことと思う。しかし、「そもそも、部活も勉強も、そんなに大事なのか」という問いかけをする点に、意味があるのである。

 ①〜③は「何かをしないといけない」という強迫観念に駆られた選択であった。
 しかし、④は「それ以外にもやり方があるんじゃないの」という思いを提示するものだった。

 ④の発想を一度することで、①〜③の選択肢が生きてくる。
 それは、①〜③は「何かをしないといけない」というマイナス志向から発している点である。
 ①〜③すべて、「まわりの評価」を求めている点では共通である。
 つまり、何かで結果を出し、「まわり」から評価されたい、という思いが表れているものなのである。
 「自分が本当に何をやりたいのか」が問われていないのだ。

 学習心理学では、「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」という概念を用いる。
 昔、「テストで100点とったら、ゲーム機を買ってあげるわよ」と親に言われた経験を持つ人はいないだろうか。
 残念ながら私の親はそうではなかったのだが、この場合が「外発的動機づけ」である。
 つまり、「誰かに何かをもらえるから」勉強する、という態度である。
 「誰かにほめられるから」「評価されるから」学ぶという態度だ。
 この「外発的動機づけ」、はじめは効果を発揮する。
 しかし、勉強して「ゲーム機を買ってもらった」あとには、効果がなくなる。
 ただそれだけの効果しかない。
 一方、「内発的動機づけ」は異なる。
 自分が「これを学びたい!」という思いから発している。
 「これを学び、仕事に役立てたい」という思いからの学習である。
 心理学的には「外発的動機づけ」よりも「内発的動機づけ」の方が効果的だ、という。

 ④の選択肢を考えることは、「内発的動機づけ」について考えることでもある。
 つまり、「本当に受験も部活も、やる価値があるのか」という問い直しが可能になる。
 今だから言えるが、高校生の時の私はまわりの「すごい」友人にコンプレックスを持っていた。
 自分も、まわりから「すごい」と言われるようになりたい。
 そんな「他人からの評価」が欲しくてたまらない弱い人間であった(今もそうかもしれない)。
 そのため、受験も部活も、「本当に」やりたいことだったかと言われると疑問を感じてしまう。
 ただ「東大に合格する自分」が、友人たちから「評価」されることだけを求めて、私は受験勉強をしたのであった。
 受験勉強で結果を出しながらも、部活でも結果を出すことで「すごい」と言われたかっただけなのであった。
 生徒会活動に精を出したのも、もとはといえば「すごい」と評価されたいだけであった。
 ④を考えるまで、私は厳密な意味で受験勉強をやる意味や部活動をやる意味を考えていなかったことに気づいたのであった。
 
 ここまで考えれば、①〜③の選択肢の「甘さ」が見えてくるはずである。
 なぜ「部活」か「勉強」かということで悩まないといけなかったのか、という根本原因が見えてくる。
 それが早稲田で学んだ④の選択肢である。
 要は私は他者からの評価をもとめていたのである。
 「外発的動機づけ」でしか動いていなかったのだ。
 
 この文章を読んでくださっている方には、あまり④の選択肢の意味が伝わっていないかも知れない。
 しかし、④を一度考えることはすごく重要なのだ。
 ④を考えた後、①〜③の選択肢を見ると、①〜③の内容をさらに深めることが出来る。
 やってみよう。

①’ 部活が楽しいから、部活に力を注ぐ。
②’ 学習するのが楽しいから、学習に力を注ぐ。
③’ 部活も勉強も両方楽しいから、両方やって両方とも楽しむ。

 要は他人の評価のために一生懸命やる必要はなかったのだ。
 早稲田で学んだ④の選択肢は、①〜③の内容を豊かにしてくれたのだ。
 ④の選択肢のお陰で「部活か勉学か」という「偽の二項対立」を乗り越える事ができるんのだ。
 
 ④の選択肢の存在は、私の持つ、物事への見方を大きく変えてくれた。
 これが「大学」に行く意味であるし、学問をする意味なのだなあ、としみじみ思う。

分業論

「分業」は、社会思想家においては普遍的なテーマであったのかもしれない。アダム・スミスの『国富論』は「分業」から始まっている。分業がないならば「精いっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを造ることも容易ではないだろうし、二〇本を造ることなどはまちがいなくできないだろう」(岩波文庫『国富論(1)』24頁)。しかし分業を行うならば「一〇人は、自分たちで一日に四万八〇〇〇本以上のピンを造ることができ」(同25)る。一人当たりで計算すると「一日に四八〇〇本のピンを造るものと考えていいだろう」(25)といってまとめている。
 また次の記述もある。「労働の生産力の最大の改良と、それがどこかにむけられたり、適用されたりするさいの熟練、腕前、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる」(23)

 スミスの場合、分業を肯定していた。それにより各人の貯えを高めることができるからだ。この分業肯定論に対し、マルクスは批判をする。そのときのキーワードが「疎外」労働論であった。資本主義による分業の結果、人々は人間的でない労働をさせられるようになった。その点をマルクスは批判したのだった。

 テンニースのゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの分離も、地縁・血縁をもとにする「分業」か、目的性をもとにする「分業」かという読み直しをすることもできる。

 ジンメルは32歳の作品『社会的分化論』(1890)のなかで社会の「分化」(分業とも読み取れる)の結果、社会圏が拡大する旨を述べている。またその「分化」につきまとう社会的相互作用(あるいは心的相互作用)により社会が成立すると言う件を述べている。

 デュルケムは『社会分業論』において機械的分業から有機的分業に「分業」が切り替わって行くことを述べている。

 このように、分業をどのようにとらえるかによって社会思想家ごとの違いが浮かび上がってくるように思われる。 
 

映画『平成ジレンマ』

 さいきん、小説が読めなくなってきた。まどろっこしい人間関係を頭にいれ、なおかつ作品のメッセージを読み取る。あるいは世界観を楽しむ。それが面倒になってきた。
 同様に、映画も見れなくなってきた。物語がある映画に入り込めなくなった。しかし、ドキュメンタリー映画は面白い。同様にノンフィクション小説も。字t実を知るほうが面白く感じるようになってきた(『僕らの頭脳の鍛え方』における立花隆の立場だ)。
 そんなわけで先日、ドキュメンタリー映画『平成ジレンマ』をポレポレ東中野で観た。「悪名高い」戸塚ヨットスクールの「現在」のドキュメンタリー。
 校長の戸塚宏氏は「体罰」による教育効果を語る人物。「脳幹論」をもとに教育論を構築する。
 戸塚の視点は子どもは人格が出来ていないため、「体罰」を使い人格を向上する、と語る。映画冒頭に戸塚はこういう。「進歩を目的とした有形力の行使」が体罰である、体罰・いじめによる「恥」が人間を進歩させる、と。教育学徒として、違和感のある書き方だが、それは昨今の教育学の前提が子どもの「人格」の尊重にあるためである。子どもの「人格」の未完成性を指摘するのが戸塚であるのに対し、子どもの「人格」ならではの可能性を見るのが教育学者である(「子どもの作品は素晴らしい」などの言説)。
 全体的に見て、戸塚ヨットスクールは「悪」「体罰」の代名詞となっている現状への批判が本作品のテーマであるように思えた。マスメディアは戸塚ヨットスクールを「悪」であるようにいうが、内実をまったく見ていないのではないか。「認識せずして評価するなかれ」のテーゼの重要性を感じた。
 本作品を通じ、非常に勉強になったのは戸塚の示す「近代的主体」としてのあり方だ。周りが何といおうと、自分は自分の信じる「正義」を行使する。まわりがヒール(悪者)呼ばわりするなら、それもよかろう、自分は自分のやり方で日本の教育を少しでもよくしてやるのだ。それが「本当はやりたくない」(映画内での戸塚の言葉)ことであっても。そういう「熱さ」に感銘を受ける作品だった。
 以前、筆者は現代の日本は「一億総教育評論家社会」と書いたことがあるが、評論するだけでは教育は変わらない(教育学を研究する者の「無力さ」もこの辺にある)。であれば、たとえある者に「ヒール」と言われようとも「ありうべき」教育のバリエーションを増やす実践をする人物に対し、何らかのエールを送る必要があると思えてくる。
 しかし、「戸塚ヨットスクールの、現在」(映画宣伝ビラより)を映したものであると言いながら、本作品で述べられていない部分の存在が気になった。間もなく選挙を迎える石原慎太郎氏の存在だ。出所後の戸塚に対し、ヨットスクール再建を応援している人々が存在している。戸塚ヨットスクールをめぐる支援者の状況を示さないことには、「戸塚ヨットスクールの、現在」を呈示することにはならないのではないかと考えられる。

『蛍雪時代』1947-1948年を読む。

『蛍雪時代』の「宗教と理性の問題」(1947年12月号2-3頁)が掲載され、受験色というよりは学問的内容も含まれている。そのため、投書欄にも「私は中学生でもなければ勿論女学生でもない。かつての軍需工場の一職工であり、いまさら本誌を見る年令でもないかもしれない」が「文化国の一員としても、自身のためにも学問の必要は勿論感じていたがどうしても実行する気になれず、たゝ”なりゆきにまかせて味気ない家業に機械的に従っているのみだった」(原文は旧字体)との内容がある(1947年7月号57頁「私と蛍雪時代」新潟県 松岡昭三)。「しかし頁を開き目次を見ていささか期待が外れた。私は蛍雪というからには独学指導誌かと思っていたからである」と述べ、「独学指導誌」でなかったけれども本誌に「私の魂をゆさぶるものがあった」、とまとめられている。
 
 原文は以下の通り。

 私は中學生でもなければ勿論女學生でもない。かつての軍需工場の一職工であり、いまさら本誌を見る年令でもないかもしれない。
 工場にあつた頃、仕事の必要にせまられて少しは勉強もしたが、國へ歸つてからはとんと縁が切れてゐた。文化國の一員としても、自身のためにも學問の必要は勿論感じてゐたがどうしても實行する氣になれず、ただなりゆきにまかせて味氣ない家業に機械的に從つてゐるのみだつた。思へば愚かな月日ではある。
 しかし機會は來た。偶々新聞で「螢雪時代」と云ふ雜誌の存在を知り、内容も知らず何でも買つてみろと云ふ氣で注文した。屆いた「螢雪時代」を手にした時、いつも貧弱なものばかり見慣れてゐた目には意外の感があつた。しかし頁を開き目次を見て聊か期待が外れた。私は螢雪と云ふからには獨學指導誌かと思つてゐたからである。
 むさぼるやうに讀み終つて私ははつとためいきをついた。自分が手段として考へてゐた勉強と、本當の學問との隔りに就いてである。そしてじかに私の魂をゆさぶるものがあつたことは忘れることができない。今のところこれ以上の批判をする氣はない。しかし中學生諸君が螢雪時代からはなれられない所以は單なる學習記事ばかりでなく、心の目を開いてくれる何ものかがあるのによるのであらう。
 私はまだ中學生諸君にも及ばない。從つて螢雪時代に親しむ生活はあと何年續くかも知れない。
(1947年7月號57頁「私と螢雪時代」新潟縣 松岡昭三)

 『蛍雪時代』は受験雑誌としての機能以外に、学問に志す人々の公共圏という意味もあった。それは他の投稿頁にも文化国家建設への期待が述べられていることからも読み取ることができる。

 

アダム・スミス(1776):水田洋監訳・杉山忠平訳『国富論(1)』、岩波書店、2000。

 アダム・スミスの『国富論』は「分業」から始まっている。分業がないならば「精いっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを造ることも容易ではないだろうし、二〇本を造ることなどはまちがいなくできないだろう」(岩波文庫『国富論(1)』24頁)。しかし分業を行うならば「一〇人は、自分たちで一日に四万八〇〇〇本以上のピンを造ることができ」(同25)る。一人当たりで計算すると「一日に四八〇〇本のピンを造るものと考えていいだろう」(25)といってまとめている。
 また次の記述もある。「労働の生産力の最大の改良と、それがどこかにむけられたり、適用されたりするさいの熟練、腕前、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる」(23)

 スミスの場合、分業を肯定していた。それにより各人の貯えを高めることができるからだ。この分業肯定論に対し、マルクスは批判をする。そのときのキーワードが「疎外」労働論であった。資本主義による分業の結果、人々は人間的でない労働をさせられるようになった。その点をマルクスは批判したのだった。

 以下は抜粋である。

 「社会が進歩するにつれて学問や思索が、他のどの職業とも同じく、特定階層の市民たちの主要あるいは唯一の仕事となり職業となる」(33)
→社会の再帰化・高度化の結果、「考える」職業が要求されるようになる。

●「いったん分業が完全に確立してしまうと、人が自分自身の労働の生産物で充足できるのは、彼の欲求のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。彼がその欲求の圧倒的大部分を充足するのは、彼自身の労働の生産物のうちで彼自身の消費を超える余剰部分を、他人の労働の生産物のうちで彼が必要とする部分と交換することによってである」(51)
→分業が発展すると、自分1人だけで生活するのは困難になる。誰かの労働に頼らずに生きては行けなくなる。素朴であるが「分業」論の古典的記述である。(いまMacBookが打てるのも、アップル社と部品を作る工場労働者の労働のお陰である)

 「注意すべきは、価値という言葉に二つのことなる意味があり、ときにはある特定の物の効用を表わし、ときにはその物の所有がもたらす他の品物を購買する力を表わすということである。一方は「使用価値」、他方は「交換価値」と呼んでいいだろう」(60)
→このあたりがマルクスに影響を与えていると言える。

コメント
・スミスは地主・労働者・資本家の「三つのことなる階層の人びと」(431)が「あらゆる文明社会を本来的に構成する三大階層であって、他のどの階層の収入も彼らの収入から究極的には引き出されるのである」(431-432)と述べる。そうして、資本家の身勝手が公共の利益を放棄させることがあると危険性を述べている。資本主義の勃興期に、すでに資本家の危険性が指摘されていたことを考えると、スミスはやはりただ者ではない、と思えてくる。

マイケル・W・アップル/長尾彰夫/池田寛(1993):『学校文化への挑戦 批判的教育研究の最前線』、東信堂。

 ここでいう「学校文化」とは、学校のメインストリームにあたる支配者層、あるいは「抑圧者」の再生産機構という正統文化を意味する。それらに対するアンチテーゼ(黒人・女性差別への抵抗など)を整理しているのが本書である。
 しかしこの本書、あまり現代の文脈に対応していないように感じられる。それは若干マルクス主義すぎて、共感しづらくなっているのだ。

●序章(M・W・アップル/野崎与志子訳)
・「すなわち、学校教育は権力―ある集団が他者の教育的経験を支配する力―と関係があるという印象である」(3)
・「われわれが何かについてどう考えるかは、われわれの行動に違いをもたらすからである」(4)
→洪水を自然災害とみるか、人災とみるかで、評価は変わってくる。
・「カリキュラムはそれ自身選択的伝統(selective tradition)と呼ばれてきたものの一部である。すなわち、知識と呼ばれうるものの広大な宇宙全体から、学校ではある知識だけが教えられている。ある集団のもつ社会的・文化的権力と、その集団の知識を学校のカリキュラムの公的な知識にしてしまう力との間には強い関係がある。ゆえに、労働者階級、女性、そしてマイノリティ・グループの歴史や文化は多くの国家において、学校のカリキュラムのなかにはしばしば表現されていない」(7)
・「文化闘争や国家内部での闘争が、もし相対的自立性をもつなら、それは現在ある搾取と支配の関係を変容させる本質的要素を供給するかもしれない」(20)
 
●1章 ラディカルたちの学校論(森実)
・「資本主義社会のありかたが学校を大きく左右しているというボールズ=ギンタスの見解そのものは、それなりに受けとめられたといってよい。これ以後、学校を変えれば社会が変わるといった楽天的な意見はあまり見られなくなったからだ。問題だったのは、学校教育はつねに資本主義の再生産しかできないという彼らの主張だった。彼らの意見に賛同すると、社会主義革命が起こるまで学校教育関係者は何もすることがなくなってしまう。学校に期待を寄せる人々は、この点に批判を集中した。二人の著作の重要性は確認しつつも、この問題点をどう乗り越えるかという課題に焦点が当たることになった」(32)
・「機能主義の基本的な考え方を示すとつぎのようになる。
 〈社会生活のあらゆる要素は相互に連関している。お互いに影響し合い、結びあって分かちがたい全体を構成している。全体と各要素はお互いに支えあっているということができる。各要素が今あるごとくあるのは、その要素が全体に対して貢献しているからである。
 ひとことでいえば、機能主義とは「社会には自己を維持しようとする傾向がある」とする立場だといえよう。この考え方に支配された研究者たちは、社会を予定調和的に変化しないものととらえ、けっきょく現状肯定論に陥っていった」(37)
・「ジルー自身にとって、おもな説明の対象は生徒や教師の抵抗である。抵抗こそが社会構造と人間行動を媒介する概念だという。ところが、抵抗にはその対概念として適応がつきもののはずであるのに、ジルーはいっこうに適応については論じようとしない」(43)
・「マルクスにとって、ある社会化関係が不公正かどうかは、その社会関係が生産様式に応じたものであるかどうかによって判断される。勃興期の資本主義社会は、いくら不平等で高率の搾取をしても、それによって生産様式は発展したのであり、これを道徳的に不公正だと批判してもはじまらない」(49)
→文字通り初期資本主義社会では「トリクル・ダウン」(滴り落ち)の効果があったのだ。
・「資本主義をマルクスが批判するときにも、道徳的な意味においてではなく理性的な意味において「資本主義社会には自由が欠如している」という点に重点が置かれているというのである」(50)
「さまざまな行動を評価するに当たってマルクスが重視するのは、意図や方法よりもまず結果である。自分だけの利害に基づいたエゴイスティックな行動であっても、それが社会の発展に貢献する場合もおおいにありうる。逆に主観的には善意であっても社会発展に逆行する行為も少なくない。そのような意味で、まず問われるべきは結果であり、この点でマルクスは結果主義者だというのがミラーの主張である」(51)

●2章 政治力学としての人種問題(池田寛)
エスニシティ・パラダイムに対する、批判的パラダイム(50-60年代)72頁
①階級理論(72頁) 提唱者
A 市場関係理論 G・ベッカー(ラベリング理論のH・ベッカーとは別人の新古典派経済学者)
B 階層理論 W・J・ウィルソン
C 階級闘争理論 
C1 分断理論 M・ライシュ
C2 分離労働市場論 E・ボナシチ
②国家理論(74頁)
A 汎アフリカニズム マルコム・X/ブラックパワー 「アフリカ系アメリカ人」という言葉の一般化
B 文化的ナショナリズム H・クルーズ 黒人文化の独自性強調→自文化への黒人の誇りを喚起 白人文化に対する「抵抗の文化」の思想を支えるものとなる

・「本書(注 『アメリカにおける人種問題の形成』)が強調しているのは、国家は本質的に人種的であるという点である。人種的な争いに介入するどころか、国家じたいがまさに人種闘争の場なのである。」(81)
・「「新しい社会運動」が大転換を招来するような成功をおさめた原因は、このように、人種アイデンティティや人種の意味を再定義するという困難な事業を成し遂げ、そのことによって、人種に付与された社会的意味を変革することに成功したところに求められるのではないか」(85)
・「ニューライトはマイノリティの主張を否定する立場をとっている」(91)
・まがりなりにも、アファーマティブアクションは黒人のエンパワメントに効果があった。一定数の黒人が「中流階級」になることができた点からそれは言える。「六〇年代半ば以降の黒人の地位上昇は国家による「優先政策」に負うところが大きいといわねばらない」(95)
・「何が問題なのか。自分たちの運命を自分たちで切り開くことができない、そうしようとしても社会的差別の壁がその努力を拒んでしまう、その構造が問題なのである」(95-96)

●3章 少女から「女」へ(木村涼子)
 少女向け小説をテキスト分析した『Becoming a Woman through Romance』の書評および内容紹介。少女向け小説に表れる物語の型が、ヘテロセクシャルを推奨し、ロマンスの「正しい」やり方を規定する働きがあるという指摘。性欲を持ってはならないというような規範が、少女を「お人形さん」のような人物に作り替える働きがあるのではないかと感じる。
 しかし、同性愛的な憧れを女性の「先輩」に抱くという物語構図も少女小説に存在しているのは事実であり、本章の記述には疑問を感じる点がある。
・「ヒロインがロマンスにおいて成功をおさめるためには、この美しくなるプロセスが必要である」「ボーイフレンドを得ることによって、ヒロインの精力的な努力は報われ、ビューティフィケーションの手続きが完了する。ヒロインの美しさから喜びを得ることが許されているのは、彼女のボーイフレンドのみであり、ヒロイン自身でさえ自分の美しさを意識的に活用し、楽しむことは禁じられている。自分の美しさを意識し、武器とする少女は、小説のなかで何らかの制裁を受けることになっている」(112-113)
・「分析の対象となった、四〇年間にわたる恋愛小説はすべて、「ロマンスを通じて女になる」というモチーフを中心に構成されている。この中心モチーフは、「ヒロインの支配的特徴をカプセル化し、形態(対の対立概念)を内容(ロマンス、セクシャリティ、ビューティフィケーションのコード)に結合する」ことによって、小説のなかで浮き彫りにされている」(114-115)
・「普段学校の教師などからあまり高い評価を受けていない彼女たちも、ヒロインに自己同一化することによって、ポジティブな感覚を味わうことができる。退屈で、うんざいりするような毎日をおくっている少女にとって恋愛小説を読むことは、「最悪の一日でさえ何か特別な日に変えてしまう」手軽な儀式である」(117)
→生徒や子どもの視点からの文化分析が必要(「内職」について多少調べた自分だからこそ、その点を忘れないようにしたい)
・「少女小説が描く空間は、さながら少女の精神修養のための道場である。精神的成長の中身は、自立、自己主張、洞察力などさまざまな要素が含まれるが、何より強調されるのは他者に対する共感能力、他者を思いやる力や姿勢である。教官の対象はまず第一にロマンスの相手である異性だが、ロマンスのなかで身につけた共感能力は、まわりの友だちや家族など、ボーイフレンド以外の人との人間関係にも適応されていく。こうした面での成長は、女性としてのアイデンティティ形成の一部であるといえよう」(128)

●4章 ニューリテラシーの理論(平沢安政)
「ひとくちに「学習者の生活体験から出発する」といっても、(注 フレイレ等の)批判的識字の場合は「搾取」「差別」「貧困」「抑圧」に特徴づけられる社会的生活現実が土台になっているのに対し、ニューリテラシーの場合は感動と表現意欲の源泉となる生活体験を子どもたちが日常のなかにさぐりあて、その意味世界を「読み・書く」ことによって探求するプロセスを大切にしようとする志向性をもっている。今日のように」(156)
→「貧困」「搾取」が明確でないのが現代の社会である。フリーターと言っても自発的にその地位に居るのか、構造上の問題でその地位に居ざるを得ないのか、違っている。そういう時代だから「批判的識字」の活動(や「プレカリアート」などの造語による運動)という結果や道筋の見える活動よりもニューリテラシーの方が運動の広がりは大きくなるのだろう。

「ニューリテラシーは、学校が生活経験を切り捨てた上で成り立っていることを批判し、むしろ子どもの生活が学校の学習を規定していくような関係につくりかえることを提唱している。また、教師が権威ある知識提供者、評価者としてふるまうのではなく、子どもの認識プロセスにともに参加し、促進するためのサポートを提供する存在となるべきことを強調する。また、受信型モデルで機能性獲得を論じるのではなく、自己を表現し、発信するプロセスとしてリテラシーを位置づけている。こうして、ニューリテラシーは主に個を中心にした実践と論理展開を行ってきた」(158)
「リテラシーが人々の私的、公的な生活のなかで力となり、多様な表現と経験の共有をすすめるような形で生活に位置づくようになることが、ニューリテラシーの最大の目的である」(159)

●第6章 学校におけるカリキュラム・コントロールの矛盾(長尾彰夫)
・子どもの詩のもつ「生きた文化(lived culture)からの批判と抵抗」(223)
「このように、学校における一定の知識や行動は、生徒の多様な経験、背かつ、立場の違いのなかで、それぞれに異なった意味をもちうる。そしてそのことが、現在の学校を支配している潜在的カリキュラム、学校知への批判や抵抗を生みだし、カリキュラムをめぐっての矛盾や対立となっていく。こうした批判や抵抗、矛盾や対立は、時として授業の「能率性」、教師の「権威性」をそこない、学校の管理的構造を大きくゆさぶっていくことにもなるのである」(223)

●第7章 批判的教育研究の理論的背景(池田寛・長尾彰夫)
「教師によって生徒が学びうると考えられたカリキュラムが選びとられ編成される。そして、それが生徒に対して学習する内容として提示されるのである。/教師によって構成されたテクストを、個々の生徒は自らが背負っている生きた文化にしたがって選択し変換する。たとえば校則によって定められた制服に手を加え、反抗的な生徒文化としての意味を与えることによって変換的に摂取していくのである」(238)
→「内職」のこの「生きた文化にしたがって選択し変換する」/「変換的に摂取」の一例である。

Michael W. Apple (1982):浅沼茂・松下晴彦訳『教育と権力』、日本エディタースクール出版部、1992。

「ヘゲモニーとは、私たちのごく日常的な実践により構成されているものである。私たちが知っている社会的世界、すなわち、内在的カリキュラムや教授、評価といった教育制度の諸特徴が相互にかかわっているような世界を作りあげているのは、私たちの常識的な感覚や行為の集合全体なのである」(62)

「学校は再生産以上のことをしている。学校はまず権力集団の文化や知識の形態と内容を取り上げることにより、続いてその形態と内容を、保存され伝達されるべき正統な知識として規定づけることにより、文化的手段の特権を維持するのに役立っているのである」(65)
→バーンスティンの言語コード論を思い出す。

「要するに、先進資本主義国にはひとつの公教育制度があるというのではなく、実際には二つの制度が同時に存在するのである。それぞれの公教育制度は、学習者の社会的階級と経済的軌道に合わせて、異なった規範と価値、そして性向を教え込むのである」(69)

「国家は科学研究や労働力の教育や訓練のような事柄のコストを社会的に認めてしまうのである」(83)

「まさにこの労働文化が、単なる対応理論によって描かれた規範よりもかなり充実した別の規範の発展がありうることを示すのである。この規範が、労働者のレジスタンスのための場、技術や操業速度、知識の部分的なコントロールを可能にし、また生産部門の完全な細分化ではなく集産性を、そして経営者が要求する速度からの自立性を可能にする」(120)

・アップルは労働者論の一環として教員を例に出す。(139)

Willisが描いたようなラッズたちは「同じ学校で、生徒たちは、より徹底して別のことをする。すなわち、彼らは、学校の顕在的・潜在的カリキュラムを率直にはっきりと拒否するのである。数学や科学、歴史、職業教育等々を教えている教師は、可能な限り無視される。時間厳守、几帳面さ、従順といった、より経済に密着した規範や価値を明確に教えても、最大限に忘れ去られてしまうものなのである」(152)

「実際に生じているのは次のようなことであろう。すなわち、生徒を勇気づけ、また、学校によって描かれるイデオロギー的価値に反抗しうるような労働者階級のテーマと態度を生徒が学校の日常生活の中で発達させるのを、何かより進歩的設定が制約すると同時に促進しているという点である。抵抗や権威の転覆、システムの操作、気晴らしや楽しみの創造、学校の公式的活動に対抗するための非公式グループの形成など、これらすべては、管理者や教師が望むものとは正反対のものであるが、具体的には学校によって生み出されている。したがって、もし労働者が相互に交換可能で、仕事自体が画一的で一般化されており、職種による内容の差がないとすれば、学校はラッズが見通す目を養うのを可能にするという点で、重要な役割を果たしているということになる。しかしながら同時に、そこには、結局のところ、そのような労働者階級の若者を労働市場につなぎ止め、一般化した、標準的労働市場へと準備させることになるという意味で制約があるのも明らかである」(160-161)

「提唱されている改革を単に組織的な調整の中で考慮することのみならず、何が実際に教えられ、何が教えられていないかということも同様に重要である」(205)

「私の議論の多くは機械的な再生産理論に対する概念的・経験的批判であった」(261)

「多くの再生産論(アルチュセールがその最初の例であるが)の主たる概念的・政治的弱点のひとつは、「それらが、学校の子どもたちや教師のレジスタンスの能力を正当に評価していない」という点である。つまり、学校がジェンダーに関する諸関係、生産の社会関係を再生産するのに役立っているという点を把握するのは重要であるけれども、「「学校が関与していないと思われるところで」学校はまた、歴史的に特殊なレジスタンスの形態を再生産しているのである」。これらの諸点は明らかに私たちの学校論議にのみ限られるものではなく、職場や家庭などにもあてはまる」(263)

ピーター・ドライヤーを引いて
「教師は、生徒に対し、語る内容によっても、また語らない事柄によっても、生徒の仮定、価値、好みを形成するのを助長している」(275)

訳者解説
「労働者が、単なる手足として働かされるのではなく、自らの手足を自分の意思で動かすことのできるように、頭脳の部分を取り戻すために自治と団結を主張するのは、人間の権利として当然である。それと同じように、教育における合理主義とシステム志向に抗して、教師も教育実践の頭脳を取り戻す必要があるというのがアップルの主張である。(…)近代的な目的合理主義の枠組みが、アメリカの教育の現実をいかに惨めなものにしてきたかを示す証拠でもある」(340-341)

コメント
・全体的に言って、アップルは「学校」というのみで学校種をあまり問題としていない。これは「学校」全体に対する議論としては有効だが、個別の学校種に着目する場合、弱みになる可能性がある。
・P. Willisらを検討し、学校における生徒文化に着目した第4章は、「内職」を研究する者として興味深い内容だ。
・「抵抗」としての実践に注目するアップル。労働者としての教員像という観点から、本書5章において単純労働者化したアメリカの教員像を批判する。
・273ページなど、マルクス的すぎて違和感を覚える個所がある。また、まず主体の「抵抗」ありきで議論がなされている感がある。
・授業や教育への「抵抗」の形態をアップル(1982)やウィリス(1977:『ハマータウンの野郎ども』)は描くが、これらは授業を受けることの拒否であり、授業中に別の学習をするという「内職」形態は描かれていない。ここに注目することで自分の研究を立てられるのではないか。