マイケル・W・アップル/長尾彰夫/池田寛(1993):『学校文化への挑戦 批判的教育研究の最前線』、東信堂。

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 ここでいう「学校文化」とは、学校のメインストリームにあたる支配者層、あるいは「抑圧者」の再生産機構という正統文化を意味する。それらに対するアンチテーゼ(黒人・女性差別への抵抗など)を整理しているのが本書である。
 しかしこの本書、あまり現代の文脈に対応していないように感じられる。それは若干マルクス主義すぎて、共感しづらくなっているのだ。

●序章(M・W・アップル/野崎与志子訳)
・「すなわち、学校教育は権力―ある集団が他者の教育的経験を支配する力―と関係があるという印象である」(3)
・「われわれが何かについてどう考えるかは、われわれの行動に違いをもたらすからである」(4)
→洪水を自然災害とみるか、人災とみるかで、評価は変わってくる。
・「カリキュラムはそれ自身選択的伝統(selective tradition)と呼ばれてきたものの一部である。すなわち、知識と呼ばれうるものの広大な宇宙全体から、学校ではある知識だけが教えられている。ある集団のもつ社会的・文化的権力と、その集団の知識を学校のカリキュラムの公的な知識にしてしまう力との間には強い関係がある。ゆえに、労働者階級、女性、そしてマイノリティ・グループの歴史や文化は多くの国家において、学校のカリキュラムのなかにはしばしば表現されていない」(7)
・「文化闘争や国家内部での闘争が、もし相対的自立性をもつなら、それは現在ある搾取と支配の関係を変容させる本質的要素を供給するかもしれない」(20)
 
●1章 ラディカルたちの学校論(森実)
・「資本主義社会のありかたが学校を大きく左右しているというボールズ=ギンタスの見解そのものは、それなりに受けとめられたといってよい。これ以後、学校を変えれば社会が変わるといった楽天的な意見はあまり見られなくなったからだ。問題だったのは、学校教育はつねに資本主義の再生産しかできないという彼らの主張だった。彼らの意見に賛同すると、社会主義革命が起こるまで学校教育関係者は何もすることがなくなってしまう。学校に期待を寄せる人々は、この点に批判を集中した。二人の著作の重要性は確認しつつも、この問題点をどう乗り越えるかという課題に焦点が当たることになった」(32)
・「機能主義の基本的な考え方を示すとつぎのようになる。
 〈社会生活のあらゆる要素は相互に連関している。お互いに影響し合い、結びあって分かちがたい全体を構成している。全体と各要素はお互いに支えあっているということができる。各要素が今あるごとくあるのは、その要素が全体に対して貢献しているからである。
 ひとことでいえば、機能主義とは「社会には自己を維持しようとする傾向がある」とする立場だといえよう。この考え方に支配された研究者たちは、社会を予定調和的に変化しないものととらえ、けっきょく現状肯定論に陥っていった」(37)
・「ジルー自身にとって、おもな説明の対象は生徒や教師の抵抗である。抵抗こそが社会構造と人間行動を媒介する概念だという。ところが、抵抗にはその対概念として適応がつきもののはずであるのに、ジルーはいっこうに適応については論じようとしない」(43)
・「マルクスにとって、ある社会化関係が不公正かどうかは、その社会関係が生産様式に応じたものであるかどうかによって判断される。勃興期の資本主義社会は、いくら不平等で高率の搾取をしても、それによって生産様式は発展したのであり、これを道徳的に不公正だと批判してもはじまらない」(49)
→文字通り初期資本主義社会では「トリクル・ダウン」(滴り落ち)の効果があったのだ。
・「資本主義をマルクスが批判するときにも、道徳的な意味においてではなく理性的な意味において「資本主義社会には自由が欠如している」という点に重点が置かれているというのである」(50)
「さまざまな行動を評価するに当たってマルクスが重視するのは、意図や方法よりもまず結果である。自分だけの利害に基づいたエゴイスティックな行動であっても、それが社会の発展に貢献する場合もおおいにありうる。逆に主観的には善意であっても社会発展に逆行する行為も少なくない。そのような意味で、まず問われるべきは結果であり、この点でマルクスは結果主義者だというのがミラーの主張である」(51)

●2章 政治力学としての人種問題(池田寛)
エスニシティ・パラダイムに対する、批判的パラダイム(50-60年代)72頁
①階級理論(72頁) 提唱者
A 市場関係理論 G・ベッカー(ラベリング理論のH・ベッカーとは別人の新古典派経済学者)
B 階層理論 W・J・ウィルソン
C 階級闘争理論 
C1 分断理論 M・ライシュ
C2 分離労働市場論 E・ボナシチ
②国家理論(74頁)
A 汎アフリカニズム マルコム・X/ブラックパワー 「アフリカ系アメリカ人」という言葉の一般化
B 文化的ナショナリズム H・クルーズ 黒人文化の独自性強調→自文化への黒人の誇りを喚起 白人文化に対する「抵抗の文化」の思想を支えるものとなる

・「本書(注 『アメリカにおける人種問題の形成』)が強調しているのは、国家は本質的に人種的であるという点である。人種的な争いに介入するどころか、国家じたいがまさに人種闘争の場なのである。」(81)
・「「新しい社会運動」が大転換を招来するような成功をおさめた原因は、このように、人種アイデンティティや人種の意味を再定義するという困難な事業を成し遂げ、そのことによって、人種に付与された社会的意味を変革することに成功したところに求められるのではないか」(85)
・「ニューライトはマイノリティの主張を否定する立場をとっている」(91)
・まがりなりにも、アファーマティブアクションは黒人のエンパワメントに効果があった。一定数の黒人が「中流階級」になることができた点からそれは言える。「六〇年代半ば以降の黒人の地位上昇は国家による「優先政策」に負うところが大きいといわねばらない」(95)
・「何が問題なのか。自分たちの運命を自分たちで切り開くことができない、そうしようとしても社会的差別の壁がその努力を拒んでしまう、その構造が問題なのである」(95-96)

●3章 少女から「女」へ(木村涼子)
 少女向け小説をテキスト分析した『Becoming a Woman through Romance』の書評および内容紹介。少女向け小説に表れる物語の型が、ヘテロセクシャルを推奨し、ロマンスの「正しい」やり方を規定する働きがあるという指摘。性欲を持ってはならないというような規範が、少女を「お人形さん」のような人物に作り替える働きがあるのではないかと感じる。
 しかし、同性愛的な憧れを女性の「先輩」に抱くという物語構図も少女小説に存在しているのは事実であり、本章の記述には疑問を感じる点がある。
・「ヒロインがロマンスにおいて成功をおさめるためには、この美しくなるプロセスが必要である」「ボーイフレンドを得ることによって、ヒロインの精力的な努力は報われ、ビューティフィケーションの手続きが完了する。ヒロインの美しさから喜びを得ることが許されているのは、彼女のボーイフレンドのみであり、ヒロイン自身でさえ自分の美しさを意識的に活用し、楽しむことは禁じられている。自分の美しさを意識し、武器とする少女は、小説のなかで何らかの制裁を受けることになっている」(112-113)
・「分析の対象となった、四〇年間にわたる恋愛小説はすべて、「ロマンスを通じて女になる」というモチーフを中心に構成されている。この中心モチーフは、「ヒロインの支配的特徴をカプセル化し、形態(対の対立概念)を内容(ロマンス、セクシャリティ、ビューティフィケーションのコード)に結合する」ことによって、小説のなかで浮き彫りにされている」(114-115)
・「普段学校の教師などからあまり高い評価を受けていない彼女たちも、ヒロインに自己同一化することによって、ポジティブな感覚を味わうことができる。退屈で、うんざいりするような毎日をおくっている少女にとって恋愛小説を読むことは、「最悪の一日でさえ何か特別な日に変えてしまう」手軽な儀式である」(117)
→生徒や子どもの視点からの文化分析が必要(「内職」について多少調べた自分だからこそ、その点を忘れないようにしたい)
・「少女小説が描く空間は、さながら少女の精神修養のための道場である。精神的成長の中身は、自立、自己主張、洞察力などさまざまな要素が含まれるが、何より強調されるのは他者に対する共感能力、他者を思いやる力や姿勢である。教官の対象はまず第一にロマンスの相手である異性だが、ロマンスのなかで身につけた共感能力は、まわりの友だちや家族など、ボーイフレンド以外の人との人間関係にも適応されていく。こうした面での成長は、女性としてのアイデンティティ形成の一部であるといえよう」(128)

●4章 ニューリテラシーの理論(平沢安政)
「ひとくちに「学習者の生活体験から出発する」といっても、(注 フレイレ等の)批判的識字の場合は「搾取」「差別」「貧困」「抑圧」に特徴づけられる社会的生活現実が土台になっているのに対し、ニューリテラシーの場合は感動と表現意欲の源泉となる生活体験を子どもたちが日常のなかにさぐりあて、その意味世界を「読み・書く」ことによって探求するプロセスを大切にしようとする志向性をもっている。今日のように」(156)
→「貧困」「搾取」が明確でないのが現代の社会である。フリーターと言っても自発的にその地位に居るのか、構造上の問題でその地位に居ざるを得ないのか、違っている。そういう時代だから「批判的識字」の活動(や「プレカリアート」などの造語による運動)という結果や道筋の見える活動よりもニューリテラシーの方が運動の広がりは大きくなるのだろう。

「ニューリテラシーは、学校が生活経験を切り捨てた上で成り立っていることを批判し、むしろ子どもの生活が学校の学習を規定していくような関係につくりかえることを提唱している。また、教師が権威ある知識提供者、評価者としてふるまうのではなく、子どもの認識プロセスにともに参加し、促進するためのサポートを提供する存在となるべきことを強調する。また、受信型モデルで機能性獲得を論じるのではなく、自己を表現し、発信するプロセスとしてリテラシーを位置づけている。こうして、ニューリテラシーは主に個を中心にした実践と論理展開を行ってきた」(158)
「リテラシーが人々の私的、公的な生活のなかで力となり、多様な表現と経験の共有をすすめるような形で生活に位置づくようになることが、ニューリテラシーの最大の目的である」(159)

●第6章 学校におけるカリキュラム・コントロールの矛盾(長尾彰夫)
・子どもの詩のもつ「生きた文化(lived culture)からの批判と抵抗」(223)
「このように、学校における一定の知識や行動は、生徒の多様な経験、背かつ、立場の違いのなかで、それぞれに異なった意味をもちうる。そしてそのことが、現在の学校を支配している潜在的カリキュラム、学校知への批判や抵抗を生みだし、カリキュラムをめぐっての矛盾や対立となっていく。こうした批判や抵抗、矛盾や対立は、時として授業の「能率性」、教師の「権威性」をそこない、学校の管理的構造を大きくゆさぶっていくことにもなるのである」(223)

●第7章 批判的教育研究の理論的背景(池田寛・長尾彰夫)
「教師によって生徒が学びうると考えられたカリキュラムが選びとられ編成される。そして、それが生徒に対して学習する内容として提示されるのである。/教師によって構成されたテクストを、個々の生徒は自らが背負っている生きた文化にしたがって選択し変換する。たとえば校則によって定められた制服に手を加え、反抗的な生徒文化としての意味を与えることによって変換的に摂取していくのである」(238)
→「内職」のこの「生きた文化にしたがって選択し変換する」/「変換的に摂取」の一例である。

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