さいきん、小説が読めなくなってきた。まどろっこしい人間関係を頭にいれ、なおかつ作品のメッセージを読み取る。あるいは世界観を楽しむ。それが面倒になってきた。
同様に、映画も見れなくなってきた。物語がある映画に入り込めなくなった。しかし、ドキュメンタリー映画は面白い。同様にノンフィクション小説も。字t実を知るほうが面白く感じるようになってきた(『僕らの頭脳の鍛え方』における立花隆の立場だ)。
そんなわけで先日、ドキュメンタリー映画『平成ジレンマ』をポレポレ東中野で観た。「悪名高い」戸塚ヨットスクールの「現在」のドキュメンタリー。
校長の戸塚宏氏は「体罰」による教育効果を語る人物。「脳幹論」をもとに教育論を構築する。
戸塚の視点は子どもは人格が出来ていないため、「体罰」を使い人格を向上する、と語る。映画冒頭に戸塚はこういう。「進歩を目的とした有形力の行使」が体罰である、体罰・いじめによる「恥」が人間を進歩させる、と。教育学徒として、違和感のある書き方だが、それは昨今の教育学の前提が子どもの「人格」の尊重にあるためである。子どもの「人格」の未完成性を指摘するのが戸塚であるのに対し、子どもの「人格」ならではの可能性を見るのが教育学者である(「子どもの作品は素晴らしい」などの言説)。
全体的に見て、戸塚ヨットスクールは「悪」「体罰」の代名詞となっている現状への批判が本作品のテーマであるように思えた。マスメディアは戸塚ヨットスクールを「悪」であるようにいうが、内実をまったく見ていないのではないか。「認識せずして評価するなかれ」のテーゼの重要性を感じた。
本作品を通じ、非常に勉強になったのは戸塚の示す「近代的主体」としてのあり方だ。周りが何といおうと、自分は自分の信じる「正義」を行使する。まわりがヒール(悪者)呼ばわりするなら、それもよかろう、自分は自分のやり方で日本の教育を少しでもよくしてやるのだ。それが「本当はやりたくない」(映画内での戸塚の言葉)ことであっても。そういう「熱さ」に感銘を受ける作品だった。
以前、筆者は現代の日本は「一億総教育評論家社会」と書いたことがあるが、評論するだけでは教育は変わらない(教育学を研究する者の「無力さ」もこの辺にある)。であれば、たとえある者に「ヒール」と言われようとも「ありうべき」教育のバリエーションを増やす実践をする人物に対し、何らかのエールを送る必要があると思えてくる。
しかし、「戸塚ヨットスクールの、現在」(映画宣伝ビラより)を映したものであると言いながら、本作品で述べられていない部分の存在が気になった。間もなく選挙を迎える石原慎太郎氏の存在だ。出所後の戸塚に対し、ヨットスクール再建を応援している人々が存在している。戸塚ヨットスクールをめぐる支援者の状況を示さないことには、「戸塚ヨットスクールの、現在」を呈示することにはならないのではないかと考えられる。
いつも興味深いなぁと思って拝読しております。私も教員になるにあたって、今のうちに教育の現状を多く見聞きしようと思っています。「自分の答え」或いは「立場」が思いつかなくても、現状を知り、考え、その頭で日々世の中を見て考え続けようと思います。
7段落目(「本作品を通じ、」以下)についてコメント
戸塚氏の思想及び言動は戸塚氏にとってまさに「正義」であり、あらゆる事を背負ってでも、それを貫き通しているその信念に感銘を受けます。私の場合、特に感銘を受ける理由は、戸塚氏の「正義」のあり方、それ以上に戸塚氏の「正義」への「ニーズ」です(「ニーズのある正義」)。
戸塚氏は確かに「悪者」呼ばわりをされて叩かれています。死者行方不明者を出しています。その事実を知っていてもなお、子どもを託す親達のニーズが絶えない。戸塚氏が今も「ヨットスクール」を続けるのは、個人的にやりたいからではなく、社会的ニーズがあるから(戸塚氏自身、「こんなの無い方がいい」と言っているし)。だから、やる。そういう所に個人的に感銘を受けると共にタイトル通り、「ジレンマ」を感じました。
また、戸塚氏の「誰が子ども達をこんな風にしたの?」という問いには考えされられます。私達にとって「結果(現状苦しんでいる子ども達)」ははっきり認識できても、その「原因(誰がこうした?)」に対しては曖昧な気持ちでいると思います。特定の個人に責任があるとは言えない為に。だから、誰も責任を取ろうとしない。だから(ある意味)その責任を戸塚氏が代わりに背負っているとも考えられる。
戸塚氏の主張に納得する一方、「体罰に賛成ですか?」の問に対して、私は「はい」とは言えません。きっと「体罰以外の方法を考えたい」と答えることでしょう。
でも、もし法的に体罰が禁止されていなかったら、「私はいかなるときも体罰をしません」と言い切れるだろうか?結局は自分が法に触れたくないから体罰をしないことに従っていて、従っているうちに無意識に「体罰って悪い事」って気がしているんだと思います。人は知らぬうちに責任から逃れようとしてるんだな、勝手だな、と思いました(しかし、そういう風に出来ている)。無意識にジレンマから逃れようとしていると自覚しました。戸塚氏はそういった中で命をかけてこの問題に自ら直面している。
「平成ジレンマ」は誰にとっての「ジレンマ?」って思いました。
いつも興味深いなぁと思って拝読しております。私も教員になるにあたって、今のうちに教育の現状を多く見聞きしようと思っています。「自分の答え」或いは「立場」が思いつかなくても、現状を知り、考え、その頭で日々世の中を見て考え続けようと思います。
7段落目(「本作品を通じ、」以下)についてコメント
戸塚氏の思想及び言動は戸塚氏にとってまさに「正義」であり、あらゆる事を背負ってでも、それを貫き通しているその信念に感銘を受けます。私の場合、特に感銘を受ける理由は、戸塚氏の「正義」のあり方、それ以上に戸塚氏の「正義」への「ニーズ」です(「ニーズのある正義」)。
戸塚氏は確かに「悪者」呼ばわりをされて叩かれています。死者行方不明者を出しています。その事実を知っていてもなお、子どもを託す親達のニーズが絶えない。戸塚氏が今も「ヨットスクール」を続けるのは、個人的にやりたいからではなく、社会的ニーズがあるから(戸塚氏自身、「こんなの無い方がいい」と言っているし)。だから、やる。そういう所に個人的に感銘を受けると共にタイトル通り、「ジレンマ」を感じました。
また、戸塚氏の「誰が子ども達をこんな風にしたの?」という問いには考えされられます。私達にとって「結果(現状苦しんでいる子ども達)」ははっきり認識できても、その「原因(誰がこうした?)」に対しては曖昧な気持ちでいると思います。特定の個人に責任があるとは言えない為に。だから、誰も責任を取ろうとしない。だから(ある意味)その責任を戸塚氏が代わりに背負っているとも考えられる。
戸塚氏の主張に納得する一方、「体罰に賛成ですか?」の問に対して、私は「はい」とは言えません。きっと「体罰以外の方法を考えたい」と答えることでしょう。
でも、もし法的に体罰が禁止されていなかったら、「私はいかなるときも体罰をしません」と言い切れるだろうか?結局は自分が法に触れたくないから体罰をしないことに従っていて、従っているうちに無意識に「体罰って悪い事」って気がしているんだ。と思います。人は知らぬうちに責任から逃れようとしてるんだな、勝手だな、と思いました(しかし、そういう風に出来ている)。無意識にジレンマから逃れようとしていると自覚しました。
戸塚氏はそういった中で命をかけてこの問題に自ら直面している。
「平成ジレンマ」は誰にとっての「ジレンマ?」って思いました。