『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(2003)より

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「さよならだけが
人生ならば
またくる春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いてる野の百合何だろう」(69)

「たとえ
世界の終わりが明日だとしても
種をまくことができるか?」(125)

「たとえば書物とは「印刷物」ばかりを意味するものではなかった。街自体が、開かれた大書物であり、そこには書きこむべき余白が無限に存在していたのだ。
 かつて、私は「書を捨てよ、町へ出よう」と書いたが、それが「印刷物を捨てよ、そして町という名の、べつの書物を読みに出よう」と書き改められなければならないだろう」(223)
→世界というテキストを読む。

「戦争の本質は、実は少年たちの「戦争ごっこ」の中に根ざしている。十歳や十五歳の少年が、戦争ファンであるあいだ戦争はなくならない。
 少年たちが成長するように、彼らの「戦争」もまた成長してゆくのだから」(256)
→テキストを読み替えて、「制服」のカッコよさが共有されているかぎり、と読み替えてもいいのかもしれない。軍隊の特徴はキチッとした制服に象徴される。軍服を元に学校の「制服」が作られているのだからこれは事実だろう。

「死をかかえこまない生に、どんな真剣さがあるだろう。明日死ぬとしたら、今日何をするか?
 その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない」(342)

「死んだ人は/みんな/ことばになるのだ」から、寺山の遺した言葉とのコミュニケーションは、寺山自身とのコミュニケーションでもある。

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