受験「敗者」の集うのが、早稲田大学のもうひとつの姿である。
早稲田大学生協出口にあったビラのキャッチコピー。
的をえている。
受験「敗者」の集うのが、早稲田大学のもうひとつの姿である。
早稲田大学生協出口にあったビラのキャッチコピー。
的をえている。
著者の牛山氏は小学校で長年教師をしてきた。いまは校長だという。本書には氏の教員としての実践が描かれている。氏はヤドカリやガチョウなど、いろんな動物を学校で飼育する実践を繰り広げている。印象深いのはヤギの飼育のひとこまである。修士課程で生物を学んだといっても、牛山氏はヤギの飼い方に精通しているわけではない。ヤギ小屋の設計やエサの量・種類について全く知らない状態からヤギ飼育をはじめた。その際〈どうすればヤギにとって最も幸福なのか〉、クラスの小学生たちと話し合いながら進めていった。試行錯誤の連続だ。初期は失敗も多く、結果的にヤギを苦しめてしまっていた。
ヤギについて「無知」であることの責めは負えない。しかし、ヤギ(自然)に呼応する自分の体、暮らしから「知」を紡ぎ出す自分の体、実在するもの・こと・人に生身をさらして交わる自分の体、子どもから感じ子どもから発想する自分の体、そして、「共同」によって新たな学びの回路を拓くグローバルな体、そういうものを含みこんだ「専門性」にことごとく迫られるのである。
こうした「専門性」は、座して得られるものではない。それは、ものごとにじかにふれ、実感を深くするほどに発見的に体得され形づくられる外ない。そう思うのである。
ヤギという未知の存在との共生(飼育)。教師も共生法を知っているわけではないため、子どもと知恵を出し合ってヤギを飼うこととなった。そのため、子どもだけでなく教師自らも成長していくこととなった。
この実践のなかで、牛山氏はあることに気づく。「こうした暮らしにあっては、所与の内容を伝える教師とそれを学ぶ子どもといった関係が薄らいで、共に感じ考え活動する仲間としての関係になっていた」(p44)。感動的な話である。
なかなか教師―生徒(児童)というタテの関係の中で「仲間としての関係」を築くことはむずかしいように思う。教育実習中は「実習生」という特別の地位のお陰で、教師ではない「先輩」として振る舞うことができた。生徒とある意味「仲間」になれたように思う。教員になるとこの関係を築くことは可能となるのであろうか?
昨夏の介護体験。新宿にあるデイサービスセンターで1週間ボランティアのようなことをした。1分前に話した内容を再度してくるお爺さんが印象的だった。どうせこの人たちは自分のことを忘れてしまうであろう。なら、介護を行うやり甲斐はどこにあるのか? 疑問に思った。
介護体験レポートを書く際、疑問は少し晴れた。たとえ忘れたとしても、介護の際の「ありがとう」の言葉は私の心に残っている。さりげない利用者の笑顔が、脳裏から離れない。ああ、介護のやり甲斐はここにあるのか! レポートに私はそう書いたのであった。昔観た映画『博士の愛した数式』の「ルート」の思いがようやく分かった。
一粒の砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見
掌(てのひら)に無限を乗せ
一時(ひととき)のうちに永遠を感じる
この映画はウィリアム・ブレイクの詩でしめられる。80分しか記憶を保てない「博士」。「博士」にとって、少年「ルート」との出会いは常に初対面。「博士」の記憶に「ルート」とのやり取りは残ることはない。けれど、「博士」と過ごした時間はまぎれもなく存在している。「ルート」だけでなく、「博士」の中にも(記憶では残らないが、やりとりした事実は残る)。だからこそ「ルート」は、「博士」と過ごす「一時のうちに 永遠を感じる」のであった。
先週まで続いた教育実習中、社会の授業をしていて私はふと次のことを思った。〈子どもは今日の授業の内容をどうせ忘れてしまう。それなのにいま授業をすることに如何ほどの価値があるのだろう?〉。現に私は中学校時代の授業について覚えていることは少ししかない。それこそ膨大な量の授業時間があったはずだが…。どうせ忘れるのに、なぜ授業をするのか。
しかし、子どもと関わったプロセスやひとときは間違いなくこの世に存在したのである。未来に覚えていることも大事だが、今というこの瞬間を輝かせていく営みとしての教育も重要なのではないか。ちょうど、昨夏の介護体験や『博士の愛した数式』と同じ図式となる。
人との出会い。たとえ忘れ去られたとしても、出会い交流したひとときは私の生命の中に残り続けるのだ。
教育の無意味性にイヤになったときは、このことを思い出そうと思う。別に教育が将来何の役に立たなかったとしても、生徒同士や教師―生徒との出会い、藤原氏のいう「ナナメ関係」を結べたという事実やその交流の中で生じた〈輝き〉を大切にしていきたい。
宮台の本を久々(3週間ぶり) に読んでいる。
難しいのと夜勤明けとで、東西線車内で爆睡していた。
読んでいるタイトルと違う結果になった。
しかし、なぜ宮台はこんなにエラそうなのだ?
最近わかったのは、「当たり前のことは当たり前じゃない」ということです。
誰かからの温かい励ましも、自分が大学に通っていることも、マックブックでブログを書く余裕があることも、すべて当たり前じゃない、ということです。
教育実習中、いろいろ気づいたことがありました。その前後に、私の身辺にもいろいろありました。そして気づいたのは、私が当たり前と思っていたことの「有り難さ」(存在しにくい、との意味の)でした。
孔子のことばに、こんなものがある。「之れを知る者は、之れを楽しむ者に如かず。之れを好む者は,之れを楽しむ者に如かず」学んでいる者よりも、好きだと思っている者がいい。好きだと思っている者より楽しむ者が一番上だ、ということ。
教育実習中にいいたかった…。
ちなみに、『学ぶ力』という本からの引用です。
私は今深夜バスに乗っている。22時10分、東京発のドリーム神戸号。出発から3時間。うとうとしたら目が覚め、そのまま。夜の長さを死ぬまで味わう。暇潰しのため、毛布をかぶってこれを書いている。
ああ、昼間さんざん昼寝しなければよかった。昼夜「半」逆転の怠惰な生活を反省。
さっきまでiPodで長井秀一のネタを聞いていた。もう聞くべきコンテンツがない。眠れそうもない。足元のカバンにはパソコンがあるが、ディスプレイが明るすぎるので周りの迷惑となる。さあ、どうする俺?
読書灯は暗すぎて本が読めない。だいたい、ランプの明かりが変な形に本に現れると読む気が失せる。
新幹線で帰るべきだったか。
まあ、これもいい思い出となるだろう。少なくともPPJこと逸見遥(へんみ・よう 漢字は合ってる?)の執筆のつらさはよく解った。半身不随のためキーボードでなく携帯でしか文字を打てないのだから…。
価値を見いだせないものに無理にでも価値を与える。それこそ価値的生活だ。いまのこの<眠れない>地獄も、新たな思索のヒントとしていきたい。
…もし本当に一睡も出来なかったら、辺りが明るくなる5時ごろからパソコンを開こう。まだ観ていない黒澤映画『乱』が入っているのだ。
石田一です。
来週から母校の中学校にて教育実習です。
あまりやる気が出ません。恐怖すら感じております。何故でしょうか?
各種団体・サークルであんまり役に立てていない「お荷物」の自覚があるためでしょうか。そんな自分が人の子の教師になって、よいものか、と思うのです。
…というのは嘘ですが、おそらく教職過程のなかで最も面倒なものに挑むためではないでしょうか。3週間拘束して教育を与えるという実習はしんどすぎます。
教育実習は自動車学校に毎日通うようなものです。学業的基準とは違う尺度で絶えず計られます。大学では学業的価値のみで判断される分、それ以外の尺度(教員としての適性など)で計られるとしんどくてしかたなくなるのです。
まあ、人生で大事なのは「やる気のおきない仕事を、いかに楽しく行うか工夫すること」だと私は信じてますので、教育実習に楽しさを見いだせる努力をしていくつもりです。
正義の味方・ウルトラマン。彼(ら)は命を懸けて地球のために戦っている。本来、自分に関係ないのに。まさにホワイトナイト(白馬の騎士)。
ところでもしウルトラマンが地球を守っているのでなく、ウルトラの星(およびM78星雲)と怪獣との『代理戦争』を地球で行っているとすればどうだろうか? もはや正義ではなく、話は180度逆になる。
ベトナム戦争や朝鮮戦争は米ソの代理戦争であった。代理戦争で損するのは戦われている現地の人間である。
代理戦争において、力のある側は味方のふりをする。『ベトナム人民の味方』をソ連は演じ、『共産主義からベトナムを守る』仮面をつけたのはアメリカであった。
代理戦争はウルトラマンそのものではないか!
総力戦ではないのがせめてもの救いだ。
注意をしているようだが…。
「そんな裏技があったのか!」と犯罪教唆になるのではないか。
新明解に火炎ビンの作り方が載っているようなものである。