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大二病

人間は社会的生物である。一人暮らしの夏休みほど、それを感じる時はない。

何もすることがないということの悲哀。可処分時間が多すぎると、人は空しさだけを噛み締める。そんなとき、むやみと人に会いたくなる。「まったり」話していると、孤独さから解放される。

Hさんという人と今日の夜、ずっと話していた。
「早稲田に入って、やたら映画に詳しい人によく出会うので、『映画詳しいよ』とうかつに言えなくなりました。だから毎日1作のペースで映画を見ているんです」といった所、Hさんは、
「大二病だね」
とおっしゃった。

大二病とは中二病(中二病の定義は文末を見てほしい)の亜種らしい。自分より遥かに「出来る」友人を見て落ち込み、引きこもり気味になり、その間徹底的に映画を見るなどして自信を付けたがることをいうらしい。

そうか、大学4年生にしてようやく「大二病」になったのか。罹らないまま卒業して方が幸せだったのだろうか?

Hさんの話の中にもあったが、世の大学生は本当に「大学生」たるべき行動をしているのか妙に気になった。軽々しく「ポストモダン」論を語るが、真剣に本を読んで学んだ時期があったのか? 簡単に「もう自民は駄目だよ」というが、真剣に政治学を学んだ時期があったのか? 教育学部生は「教育学」をマスターしているのか? 大学院に行く人間はそれにふさわしいだけの学問を学んできたのか? 

「大二病」に罹ることが出来る方が、「大学生」らしい大学生と言えるのではないかとふと思った。

*Wikipediaにおける、「中二病」

思春期の少年が子どもから急激に大人に なろうと無理に背伸びをして、「(子供の価値観での)大人が好みそうな格好のいいもの」に興味を持ち始め、「子供に好かれそうなもの」、「幼少の頃に好き だった幼稚なもの」を否定したりするという気持ちが要因である。こういった感情から「もう子どもじゃない」、「(格好の悪い)大人にはなりたくない」とい う自己矛盾からくる行動が、実際に大人になってから振り返ると非常にピントが「ずれ」ており、滑稽に感じることが大きな特徴である。

加えて生死宇宙、人間や身近なものの存在に関して、(的外れ気味に)思い悩んでみたり、(子供基準での)政治社会の矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85

猛省、猛省。

今日も12時まで寝てしまった。その後、映画『燃えよドラゴン』を見つつ寝てしまい、行動開始は16時。何という自堕落な生活だ!

先日中学時代の友人に電話した。彼は上京して現場監督として働いている。電話口の声が疲労で溢れていた。その彼の話を思い出す限り、「大学生」を味わわせてもらっていること自体に申し訳なさを感じる。

アメリカの大学は、大学生が週に45時間勉強することを想定してカリキュラムを組んでいるらしい。授業が15時間あり、残り全て自習という想定。
何故45時間か? それは一日8時間労働×5日+土曜は半日(5時間)労働、という一般企業の労働体系を学問にも合わせているからだ。
「君たちと同い年の人間は、週に45時間くらいは働いている。だから君たちもそれくらいは勉強しろよ」という、考え方なのだ。

アメリカでは一度社会に出てから大学に行くことも多いらしい。そのようなとき、「労働するのと同じくらいは大学で学ぶ」という考え方には納得できる点が多いであろう。

私も、猛省をしなければ。明日は7時に起きて、即行動開始をしよう。

『シャドウ・ワーク』を読む。第2章前半。

●「60年代に、「発展=開発」は「自由」や「平等」と肩を並べる地位を得てきた」(40頁)
→「もっとたくさんの学校、もっと近代的な病院、もっと広く長い高速道路、新しい工場、高圧送電システムを設けること」(同)が重視された。
→際限のない拡大・開発を求め続けてきたのが近代である。1章に「発展=開発と平和を一緒のものと見る」ことへの批判があったが、この章でも「発展」観の見直しをイリッチが訴えている。

●その結果、「外部不経済」や「逆生産性」が現れてきた。
例:「学校や病院の税金負担が、どのような経済も支えきれないほど莫大になった」(40)
  「制度の顧客である多数の貧しい人々は、たえず欲求不満におちいることになった」(41頁)のだ。
  「大多数の人間にとってラッシュアワーにしか使えない交通機関は、自由に選ぶことのできる移動や相互的な接近の機会を減少させて、通勤の乗物に隷属しながら費やす時間を増やすことになる」(42頁)
→つまり、制度の発展によって人間の自由や仕事が奪われるのである。

●「経済成長はすべて不可避的に環境の利用上の大切な価値を衰弱させるのだ」(43頁)
→環境と経済成長の関係。いまよくいわれているようなことである。
→イリッチのこの指摘を解決する方法として、宮台真司は次のように主張する。〈経済発展を皆が目指すのだから、企業のみに「環境に配慮せよ」とはいえない。そうではなく、「環境に配慮した会社が儲かる」ような社会システムを設計することが重要だ〉。その例として炭素税などを宮台は提案する。

●「新たな『満足』を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった」(43)
例:自宅で子どもを産むこと。かつては「普通」だったが、いまでは「エリート層」の人の特権となった。
  新鮮な空気を吸うこと。

「今日の下層階級を構成するものは、逆生産性のお荷物一式を消費しなければならないもの、みずから買って出た奉仕者たちのお情けを何としても消費しなければならないもの、にほかならないのだ。これと逆に、特権階級とは、逆生産的な装置一式と手前勝手な世話やきを自由におことわりできる人々のことである」(43)
→自分の力で何かが出来る人/制度に頼らずに生きていける人が、いまでは特権的なことになった。

「この社会(商品集中社会)では、専門家によって企画・指定され、しかも彼らの管理のもとで生産される商品やサーヴィスの規格化といった観点から、ニーズというものが定義される傾向が強まる」(45頁)
→自分たちが自由にものをつくったり、生活したりしていた中世と違い、近代に入ってから自分の意のままに生活していくことができなくなってしまった。そこでは専門家や企業・政府の意図によって人々のニーズがつくり出されることになる。

●「経済成長」に対立するものとして「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会、を置きたい。すなわち、『ホモ・エコノミクス』の観点から組織される社会にたいして、『ホモ・アーティフィクス』、つまり人間生活の自立と自存にかんして伝統的な仮説を回復した社会を対立させるのである」(46頁)
→経済という「制度」に頼る生き方ではなく、「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える」生き方を志向していくべきなのだ。本人の「自立」「自存」に留まらず、「共同の環境の使用」(あんまり意味が分からない…)を目指していくべきなのだ。

●「現代社会の形態は、実際、これらの独立した三つの軸に沿っていまなお行われている選択の結果である」(46頁)
3つの軸とは?

X軸:「ふつう『右』と『左』ということばで表される問題、たとえば、社会の階層性、政治的権威、生産手段の所有、資源の配分をめぐる諸問題を配置したい」(44頁)

Y軸:「『ハード』と『ソフト』とのあいだの技術上の選択がくる」(同)

Z軸:「特権や技術でなく、人間の満足=欲求充足の性質それ自体が問題となる」(45頁)
Z軸の下限:「商品集中社会」。「経済成長につかえる社会」(46頁)
Z軸の上限:「実にさまざまな社会が、扇形に並ぶ。そこでは、生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」(pp45~46)。「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会」(46頁)

「政治形態への信用の度合いは、三つの選択のそれぞれの組合せに、人々がどの程度参加するかに依存しはじめる」(46頁)

イリッチは「社会のユニークなイメージ、つまり社会の諸部分が明確に分節され、独自に関連づけられているイメージというものは美しい」と語る。

「質素とつつましさという特徴をそなえ、現代的ではあるが手作りであって、小規模に営まれている生活様式というものは、市場化をとおしてのそれ自身の伝播をなかなかゆるさないものである。こういうふうにして、歴史上初めて、貧しい社会と豊かな社会とを掛け値なしに対等の関係に置くことができるようになるだろう」(47頁)
→文化相対主義とも言うべきか。

イリッチは続ける。「このことが本当に実現するためには、開発の視点から国際的な南北関係の問題をみる現在の認識のあり方が、何をおいてもまず破棄されなければならない」(同)。

ここから、『シャドウ・ワーク』というイリッチのことばの解説がはじまる。

「仕事は雇用と同一視され、名誉ある職業は男性に限られていた。就職口と切り離して行われる〈シャドウ・ワーク〉の分析はタブーだった」(47頁)
そして、このシャドウ・ワークは「開発が進めば、そのような労働は消えていくだろう」(48頁)と考えられていた。

※シャドウ・ワークの説明:
『社会学』(長谷川公一ほか、有斐閣)には、「家事労働は資本主義社会を支える相補的労働でありながら、賃労働の影の部分として暗黙に存在するシャドウ・ワークとなり、労働として自覚されなくなっていく。そのように分離された中で、性別役割分業を基軸とする〈近代家族〉は、男性を市場で営まれる有償労働に、女性を家庭で営まれる無償労働に一般に割り当てることになる」(389頁)
→イリッチの本文の記述と近い。イリッチは「家庭内という領域での女の隷属状態は、今日もっとも明らかかなその代表である。家事には給料が支払われない。しかも、昔は女の仕事の大部分は生活の自立と自存をめざす活動であったが、今日の家事ではそうではなくなった」(50頁)といっている。
つづけて「現代の家事は、生産を支えることに向けられた産業的な商品によって規格化されている」(同)と説明する。
「賃金労働者を再生産し、休養させ、賃労働にかりたてる原動力となる役割に彼女たちを押し込めている」(同)

「シャドウ・ワーク」は「経済学の分析の手からすりぬけていた」(51頁)。そのために、下の2つの活動のうち①のみが重視されるようになる。

賃金が支払われない二種類の活動:
①賃労働を補う〈シャドウ・ワーク〉
②本当の自立・自存の仕事

●「コミュニティが人間生活の自立と自存を志向する生活の仕方を選ぶときには、いまとは正反対の仕事観が広がってくる。その場合には開発を逆転させること、消費材をその人自身の行動におきかえること、産業的な道具を生き生きとした共生の道具に変えることが目標となる。そこでは賃労働と〈シャドウ・ワーク〉はそれこそ影をひそめるだろう」

人間を「成長中毒患者」とみるかどうかは、「非雇用」や失業を「みじめな禍とみるか、あるいは有益な一つの権利とみるかの分かれ目を決めてしまう」(49頁)

商品集中社会:「基本的なニーズは、賃労働の生産物によって満たされる」(49頁)
商品集中社会を動かす労働倫理:「給料や賃金のための仕事を正統化し、それと反対に自律的な活動の価値を引き下げる」(49頁)

(本来、まだ続くのですが、できませんでした)

ニール・ポストマン 小柴一訳『子どもはもういない』(1995年改訂1版、新樹社)*原著は1982年

 かつてPh・アリエスは『子供の誕生』において、「子ども」が大人社会の中で認識されたのは近代に入ってからであることを提示した。ポストマンの書いた『子どもはもういない』はアリエスのこの主張をさらに発展させたものである。
 本書の前半で、ポストマンはアリエスや他の思想家が訴えてきた事柄を用い、「子ども」「子ども期」が近代になって生まれてきたことを提示する。どうして「子ども」概念が出てきたか? ポストマンは活版印刷機の登場を用いて説明する。手書きで文字を読み書きしていた時代において、大部分の大人は識字ができなかった。そのため口頭によるやりとりが行われることになる。その中では「子どもに言うべきでない話題」などの「秘密」を隠すことができなかった。現在では「子ども」といわれるような人間も、その秘密をふつうに見聞きしていた。
 活版印刷の発明は、文明のあり方を変えた。人々の仕事において、文字を使用する機会が圧倒的に増えた。役所に提出する文書、契約書などなど、書面で仕事のやり取りをすることも出てきた。活版印刷技術は、人々に読み書きできる能力を必要とする。けれどこの能力の習得には長い時間が要る。まだ文字を習っていない人間を隔離し、「学校」で教えなければ。人々はこう考えるようになり、結果として「子ども」が誕生した。

印刷技術の発明後、子どもは大人になるものとされ、かれらは、読むことを覚え、活字の世界にはいりこむことによって、大人にならなければならなかった。そして、それをなしとげるためには学校教育が必要だった。こうして、ヨーロッパ文明は、(古代以来)学校を再びつくりだした、しかもそうすることによって、子ども期をなくてはならないものにしたのである。(pp59-60)

*(  )内は石田。
 ポストマンは「子どもの誕生」を活版印刷機が元になったと説明する。時代は進む。活版印刷により誕生した「子ども」が消滅するところまで、時代は進んだのだとポストマンはいう。ではそのきっかけとなったのは何だろう? ポストマンは電気による通信(象徴的な意味ではモールス信号)をあげる。この進化系であるテレビが、「子ども」を消滅させてしまったのだと説明するのだ。
 テレビは「子ども」でも理解可能である。識字能力は必要ではない。テレビは「活版印刷」や「活字」が子どもから隠してきた「秘密」を明らかにしてしまう。例えば性、例えば暴力。それにより、もはや「子どもはもういない」といわざるを得なくなってきているのだ。
 高橋勝は『文化変容の中の子ども』の中で「子どもの消滅」についてを説明している。それは子どもが「消費者」として大人扱いされるという点からの説明であった。ポストマンは「メディア」の変遷により、子どもが誕生し、消滅しているのだと説明をしているのである。
 ここで、私の問題意識を提示しておく。子どもの誕生―消滅を「メディア」の変遷によりポストマンは説明した。いま、メディアの世界の主力はインターネットである。ポストマンはこの状況を見てどう思うであろうか?
 当初、インターネットは文字文化の復興をもたらしたように思われた。掲示板の書き込みも、企業のウェブサイトでも、大体は文字情報のみに寄っていた。現在、ニコニコ動画やYou tubeなど、ネット世界は「動画」が重視される時代に入った。インターネットがもたらした効果も、文字中心の時代と動画中心の時代とに分けて、考えることはできないだろうか? また、手軽にインターネットの「メール」ができるようにした「携帯」登場以後について、彼はどういう説明をするだろうか? 気になるところである。
 余談だが、ニコニコ動画などには、「本来、文字で示すべきだろう!」と怒りたくなるような「動画」が公開されている。メッセージを音楽にのせて延々と流し続ける動画がそれである。私はそれを見たとき、文字情報のテレビ化という言葉を思いついた。映画のエンドロールに端を発しているんであろうが、読み取り手の意図・読むスピードに関係なく一律で文字を動画に表し続ける態度にイライラを感じてしまう。
 以下は、本文からの引用です。

本と学校が子どもをつくりだしたとき、それらは大人についての現代的な概念をもつくりだしたのである。(p79)

早稲田大学で学べること

早稲田大学にいることで学べることはいくつかある。

1、酔っ払いへの対応の仕方・介抱の仕方が無理なく修得できる。
2、受験秀才というのは大した存在ではないということが自覚できる。
3、相手との話のネタに困ったとき、バイトの話か就活の話を振るという「技術」を身につけることができる。
4、図書館に行くと六法全書を手にした人物が必ず座っており、多くの者はそのまま突っ伏している事実を知ることができる。
5、早稲田出身者は必ずと言っていいほど「授業に出なかった」ことを自慢するということを知ることができる。
6、受験の中で第一志望に受かる人間はほとんどいないのだと気づくことができる。

短編小説・夏屋さん

 少女が街を歩いていると、一人の中年男性に出会った。寒空の下、その男だけは半袖シャツにサンダル履き。周囲から浮いた姿で屋台をやっている。

「おじさん、何やってるの?」
 少女は尋ねた。「おじさん」と呼ばれたその男性は、
「俺かい? この看板見てごらん。『夏屋』をやっているんだ。夏を売って、お客さんに冬を楽しく過ごしてもらうんだよ」
「へー、そんなお仕事があるのね。全然知らなかったわ」
「この仕事、なかなか大変なんだ。お嬢ちゃん、ちょっと夏を買っていかないかい?」
「おいくら?」
「子どもには1分100円で販売してるんだ。どうだい」
「はい、100円」
 男は手元のかき氷機を手早く回し始めた。下に氷がたまっていくのを少女は見ていた。すると、ふいに自分が海岸に佇んでいる心持がしてきた。海に反射する太陽がまぶしい。
 気づくと、再び男の姿が目の前にあった。
「気に入ったかい、お嬢ちゃん?」
「うん、とても」
「その先に屋台があるだろう? そこには俺の女房が店をやっているんだ。『秋屋』と書いてあるからすぐ見つかるよ。そこから先に行くと俺の親父がやっている『冬屋』がある。ちょっと行ってみな」
 少女は男の言う2つの店に寄ってみた。100円を払い、それぞれの季節を楽しんだ。素敵な仕事だと、少女は思うようになった。そして、独り言のようにつぶやいた。
「わたし、大きくなったら絶対『春屋』さんを開くわ。そこでみんなに春を売るのよ」

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』(岩波現代文庫、2008)

 著者は30年間学校の教師をした後、「東京賢治の学校」をつくる。現在は子どもを対象にシュタイナー教育を行っている場所だ。
 執筆した当時、鳥山氏は「うまく育てなかった」大人を対象に「ワーク」とよばれるケアを行っていた。「ワーク」は、その人の心理の根底にある、不安な出来事・辛かった出来事などをその場で「演じて」見ることで、「うまく育てなかった」部分を乗り越えていくという実践だ。
 「どうしても子どもを抱きしめることができないんです」という母親。鳥山氏が「ワーク」を行ったとき、その母親自身が親から愛情を注がれることがなかった・抱きしめられることがなかったことを思い起こす。親にいいたかった思いを、「ワーク」の中で伝える母親。それを見ていた母親の子どもが涙を流して母親の元に抱きついてくる。「ごめんね」と母親も子どもを抱き返す。本書は鳥山氏が出会ってきた多くの家族が「再生」するという、感動的なエピソードに彩られている。
 印象的なのは次の部分だ。

新聞や雑誌には、「学校へ行けない子どもに決して強要してはならない。学校へ行けない場合には、無理やりに学校に連れていってはいけない」とありました。本当に今も、いろいろな本とかカウンセラーたちが、閉じこもっている子を無理やり外に出してはいけないとか、学校へ連れていってはいけないとかいうようにいっています。そして、今も、そういう考えが主流を占めています。困ったことに、これらの忠告や知識は母親が自分の子にていねいにふれて感じながら二人の関係をつくり上げることをストップさせます。(p72)

 「自分の子どもが不登校になった。教育雑誌やネットを見る限り、そっとしておいてあげることが大事だろうな…」。著者の鳥山氏はこういう親の態度に批判的だ。子どもと向き合っていないからである。ひょっとしたら、学校を休むことを通して、「もっと私に関わってほしい」というメッセージを子どもが発しているかもしれないではないか、と。
 私の専門はフリースクールである。日本的文脈において、フリースクールは「不登校の子がいく所」という認識になっている。子どもが不登校になった時、「とりあえずフリースクールに行かせればいいかな」と安易に親が考えるようでは駄目なんだな、と本書を読んで感じた。
 フリースクールの活動はそれ自体は子どもの学習権の保障や、「子ども中心の教育を行う」という意味合いで重要な実践である。けれど、だからといって「わが子が不登校になったら、フリースクールにすべてお任せ」ということがあっては子どもが不幸になる。フリースクールがあるからと言って、親が子どもに関わることを避けていいわけではない。新聞やテレビなどで専門家のいう言葉を鵜呑みにして、子どもと関わることを放棄しては本末転倒なのである。自分で考えて、自分から向き合っていくことを忘れてはならない。
 「フリースクールに行かせれば何とかなる」という判断は、あくまで子どもと向き合った上で行うべきなのだ。そうでなければ、イリッチの言う「価値の制度化」が起きてしまう。
 親として、子どもと向き合うことから逃れてはいけない。そういう強烈な主張を受け取った。

 …けれど、この本は人々を不安に陥れる恐ろしい本でもある。一見、うまく行っている家庭であっても、親の「うまく育つことができなかった」点のために家族が崩壊していることがある、という事例を多く提示するからだ。家庭の様子は外と比べることが少ないだけに、問題はなかなか表面化しない。
 昔の映画に『家族ゲーム』があった。名優・松田優作の遺作である。奇妙な性癖を持つ家族の日常を描いた映画だ。その家では、細長い机に横一列になって座 り、食事をする。飛び回るヘリコプターの騒音のBGMが、どことなく不安定な一家の姿を暗示している。けれど、この家族の中ではこれが当たり前の姿なの だ。
 『家族ゲーム』を奇妙と言えるのは、この家族の外部に自分がいるからだ。『家族ゲーム』の中の家族にとっては、これが当たり前の姿。何の疑問も提示されない。自分が育ってきた家庭環境は、外部から見ると映画同様に奇妙に映っているのかもしれない。
 『居場所のない子どもたち』を読みながら、「自分は大丈夫なのか?」「きちんと育つことができたのか?」、と何度も不安に感じる。だって、『家族ゲーム』の奇妙さは、外部の人間にしか分からないのだから。自分の育ってきた環境は、外部から見ると「奇妙」としか言いようがないことがあるのだ。それゆえ、不安に駆られる。
 読み終えたときには、「人間がきちんと育つことなんて、本当にあるのだろうか? この著者は不安をあおっているだけではないのか?」と強烈に感じる本である。
 

幸福実現党の適当さ

高田馬場で幸福実現党のビラを配っていた。

2030年に人口3億人・国内総生産世界一を実現、と謳う。別に魅力を感じもしない。

もっといいプランを示せないのか?

映画『マトリックス』(1999年)

映画『マトリックス』(1999年)
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
主演:キアヌ・リーヴス
 表面上は1999年の社会。けれどそれは機械が人間に見せている虚構の現実であった…。主人公・ネオはモーフィアスの助けでその事実に気づく。機械用の生体熱エネルギーを得るために、人間が「栽培」される世界。これが「現実」の世界だったのだ。ネオのことを「救世主」と信じる仲間と共に、ネオは機械への戦いを開始する。こんなストーリーの本作、多くの方はもう見ておられるのではないだろうか?
この映画は社会学者・ボードリヤールの理論を基にして作られた。それだけに、非常に哲学的かつ学問的内容の示唆が多い映画である。見ていて、非常に勉強になった。少なくとも、あと2回くらいは観ると思う(ツタヤはそれまで待ってくれないが…)。
 箴言として残しておきたい文章も多い。「入り口までは案内した。扉は自分で開け」・「救世主であることは恋愛と同じ。それは自分でしか分からない」・「道を知ることと実際に生きることは違う」。
 特に気に入ったのは「マトリックスの正体は人から教えられるものではない。自分で見るものだ」との台詞。教育学に通じるものがある。思想家・イリッチは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」現象を批判した。教えられるのでなく、「自分で見る」こと・自分で「学ぶ」ことの大事さを語っているように思う。
 もう一つあげるなら、「人生は自分で決めるもの」という言葉であろう。ネオも「予言者」も語ったこの言葉は、本作のキーフレーズである。本作ではネオは何度も選択を迫られる。真実を知るか否かも、ネオが自分で決めたことなのだ。
 本作のテーマは、機械に〈生かされる〉社会から、人間が〈生きる〉社会への転換の必要性についてである。真実を見つめず、〈生かされる〉生き方をするほうが容易である。けれどそれは人間の本来生きるべき道ではない。たとえ困難であったとしても、人間として〈生きる〉生き方をこそ選ぶべきなのだ。そのためには行動しなければならない。どんなにキツイ戦いになったとしても。真実を知ることには、行動する義務が付きまとうのだ。
 けれど、真実を知ることは辛い。途中でやっていられなくなる。ネオ達を裏切ることになるサイファーがいい例だ。寒くて食事も不味く、楽しいこともない現実社会を生きるくらいなら、仮想現実の作り出す夢の世界を生きればいいじゃないか。そして彼は「無知は幸福」と言ってのける。
 たとえそうであったとしても、現実から逃げないで戦い続けるべきことをネオ達は示している。宮台真司の著書に『終わりなき日常を生きろ』がある。現在は輝ける未来もなく、かといって世界の終焉もなく(ハルマゲドンは存在しない)、いまと同じ日常が延々と続く時代である。けれど、そうであったとしても生き続けなければならない、と主張する本だ。
 『マトリックス』の世界は、宮台の言っているような社会であるように思う。現実社会はキツくて辛い社会である。仮想現実の夢に戻りたくなるけれど、それでもネオ達は生き続けなければならない。
 現実が暗くてキツくてショボいなら、仮想現実の夢を見たくなる。あるいは現実から逃避(引きこもり、自殺など)したくなる。それであっても、生きなければならない。そんな現代の困難さを実感した映画であった。

『シャドウ・ワーク』第1章から。

それぞれのコミュニティが、地域に生きる民衆の草の根の声として「平穏に暮らしたい」という主張をいかに表現することになるだろうか、私にはわからない。たしかなことは、どの主張も、それぞれのコミュニティにおいて固有かつ独自なやり方で明示されねばならないだろうということである。(pp37-38)

 イリッチのこの文章が印象的であった。
 平和には一つの形は存在しない。外部から「これが平和だ」と押し付けられるものではない(9・11後のイラク戦争で平和をもたらすことはできなかったことを想起されたい)。外発的な平和ではなく、内発的に人々の発意によって成立した、コミュニティ独自の「平和」を目指すべきなのだ。一つではない平和、つまり「多様な平和」とでもいえようか。少なくとも言えることは、「こうすれば平和になる」という処方箋は存在せず、コミュニティの中で「これが平和だ」といえるものを考案していかなければならない、ということだろう。
 この章の始めにも、次の言葉がある。

民衆に平和を取り戻させるには、経済開発にたいして草の根からの民衆の手で制限を加えることが重要なことと考える。(p19)

 「草の根から」の平和運動、それも「経済開発にたいして」「制限を加える」運動が必要となってくる。この文章の後、イリッチは国連の創設以来、「平和は徐々に『発展=開発』と結び付けられてきた」(p26)ことを主張する。この意見は非常に開明的だ。私も無意識的に「途上国が開発を行うことで、人々は平和になる」と考えていた。けれど経済開発により、人々に本当の平和がもたらされるかというと、そうではない。文化やアイデンティティ・言語の喪失、環境破壊など平和とは逆行してしまうことも多い。そもそも、「発展」や「開発」が他からもたらされるものであるなら、そこに住んでいた人々に「これが平和だ」と理想の平和像を押し付けることになってしまう。
 イリッチは意識していないと思うが、このような「多様な平和」という概念は多文化社会やグローバル社会においてこそ必要となるであろう。現在は価値観が多様な時代である。何をもって「平和だ」と意識するかも人それぞれ・コミュニティそれぞれに違ってくる。コミュニティ外の人々は、「これが平和だ」と押し付けることがあってはならない。
 「これが平和だ」と同じ構造を持つのは「あれは平和ではない」「あれは暴力国家だ」という言説である(と思う)。私が不思議に思うのは、北朝鮮の内情を見たわけではないにも関わらず「北朝鮮は反社会的国家だ」と糾弾してよしとする人々の姿勢についてである。案外、北朝鮮の人々は平穏に暮らしているかもしれない。北朝鮮の対外政策では拉致被害者やミサイルが話題になるが、ソ連時代にも似たような事件はあった(少なくとも、発生可能性はあった)。けれどソ連の人々が皆悲惨な生活をしていたとはいえないはずであろう。平和を満喫できた人々も結構いたはずだ。勝手な決め付けは真実を見えなくさせることがある。北朝鮮問題の真実を私が知っているわけではないが…。