ishidahajime

フリースクールと、それにまつわる種々の名言。

 最近、フリースクール関連でボランティアをしている。今日はJDECというイベント内で行われた、パネルディスカッションの打ち込み作業に没頭した。

 打っていて、「有り難い仕事だな」と思う。フリースクール関係者のコメントは、非常に面白いものが多いからだ。

 名言を残しておきたい。

「フリースクールには、〈何もしない自由〉がある」

「教育を使うのは子どもたち自身」(「教育を使う」とは、すごい着眼点だ)

「フリースクールは自分の母校。だからいつまでもそこに存在し続けてほしい」(内田樹も《自分の母校が無くなることを、卒業生は望まない。自分の頃と同じ教育がずっと続いていくことをOB/OGは望むのだ》と語っている)

「子どもの自己肯定感は、教えられるものじゃない。子どもたち自身が学ぶものだ」(以前書いた『マトリックス』の評論を思い出す。モーフィアスの台詞「マトリックスの正体は教えられるものじゃない。自分で見るものだ」)

「自分らしさとは、自分で決めること」

「フリースクールの活動はほとんどソーシャルワーク」

 永六輔が『週刊金曜日』で連載している「無名人語録」。私もフリースクールや脱学校関係でこんな語録集をつくりたいものだと思う。

映画『重力ピエロ』

 八王子の大学に通っている弟と、久しぶりに会った。髪が長くなり、背も高くなった(ような)気がしたので、一瞬誰か分からなかった。金を使わない性格の弟なので、21時に大阪行き深夜バスを見送るまで、書籍代しかかからなかった。
 相変わらず、私の話に論理的に批判をしてくる。兄弟で議論をすると楽しいのはその点だ。こうまで痛烈に批判をしてくる相手はほとんどいない。血族の成せる技だ。

 夜の9時、新宿に一人取り残される。そんなとき、私は映画館に駆け込みたくなる。周りの喧噪を目にしていると、いたたまれなくなってくるからだ。そんなわけで、新宿武蔵野館で映画『重力ピエロ』を観る。選んだ理由は単純明快。「たまたま、あと少しで上映開始だから」である。私は「この映画が観たい!」と思って映画を見に行くのでなく、「何か映画を観たい!」と思い映画館へ行き、それから観る作品を探すタイプの人間だ。わが親友のOが伊坂幸太郎の作品を絶賛していたことも、選択の理由である。

 泉水(いずみ)と春(はる)の兄弟には、ある秘密があった。泉水は実の子どもであるが、春は母がレイプされた時に出来た子どもであったのだ…。春の出生の秘密は、地域においては公然の秘密となっている。父は妻が強姦魔の子を身ごもったことを知ったとき、即座に「生もう」と妻を励ます。このシーンが印象的だった。

 思わず涙が出たシーン。2段ベットで寝る小学生時代の兄弟の会話。

春「おにいちゃん、レイプって何? みんな僕のことをそういうんだ」
泉水「(しばしの沈黙。その後、思いついたように)レイプ、グレイプ、ファンタグレープ。レイプ、グレイプ、ファンタグレープ」
春「(真似をして、笑顔で)レイプ、グレイプ、ファンタグレープ。レイプ、グレイプ、ファンタグレープ」
 楽しげにリズムに乗る春とは対照的に、泉水は沈んだままの表情だった。

 レイプされて生まれた子ども。本人は何も悪くないにも関わらず、周りはその子を悪く言う。子どものもつ苦しみを感じた映画である。
 
 昔、早稲田松竹で観た『サラエボの花』のテーマも、『重力ピエロ』と同じであった。主人公・エスマは、ボスニア紛争中、兵士のレイプに遭いサラを身ごもる。サラには長い間、この事実は秘密にしていたが、ある日エスマは事実を口走ってしまう…。取り乱すサラとエスマ。けれど学校の旅行にいくサラを見送るラスト・シーンには希望が見えている。手を振るサラのアップが印象深かった。

 映画館を出た私の目には、再び新宿の光景が広がる。『重力ピエロ』の泉水と春は、なんだかんだいい兄弟であった。私と弟の関係も、そのようなものにしていきたいと思う。お互い東京に住んでいながら、最近全く会っていなかったからだ。

『重力ピエロ』原作:伊坂幸太郎 監督:森淳一/2009年/日本

『サラエボの花』監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ/2006年/ボスニア・ヘルツェゴビナ

追記
●最近、本を読むのが面倒になってきた。人が「この作家、いいよ」といっても、あまり読む気がしない。
 そのかわり、「名著」の映画版(あるいはマンガ版)を積極的に観るようになった。『重力ピエロ』も、いちど伊坂幸太郎の作品に触れておきたい思いから観ることにした。

早稲田に受かる人はどんな人たちか?

 早稲田大学で、オープンキャンパスが開かれている。道理で馬場下町の交差点に制服の高校生が多いわけだ。大学の受付で、オープンキャンパス参加者に配っている資料・プレゼントを受け取る。別に「悪いことをしている」実感はない。「ください」と言ったら、役員が渡してくれたんだから…。

 『入学データ集2010』を開く。受験のデータを見ると、いろいろ面白い。一緒にもらえる「早稲田大学案内」は読まないことにしている。読めば読むほど、「へー、早稲田ってこんなにいい大学なんだ。そうは全く見えないんだけど」とツッコミたくなる衝動を押さえにくくなるからだ。

 わが教育学部・教育学科・教育学専修の2009年度入試の倍率は5.8倍。私のとき(2006年度入試)とほぼ同じだ。一応、チェックしておく習慣がある。

 「出身高等学校所在地別状況」という項目に目が行く。早稲田に来る人たちの出身地がほぼ分かる、という便利な資料だ。
 最も数字が多いのが東京都。31.43%もの学生が東京にある高校出身だ。地域としては関東の高校出身者が全体の71.14%を占める。うーむ、早稲田はほとんど「関東人」のための大学といえそうだ。

 わが故郷・兵庫の出身者はわずか1.42%なり。みんな、ワセダになんか来ないんだ、と思うと寂しくなる。近畿地方までみると4.94%。早稲田生100人中、5人ほどが関西の高校出身。関西は少数勢力だなあ、と心もとない。

 リストの一番下に私の目は止まった。「高卒認定等」の欄である。なるほど、「出身高等学校所在地」であるわけだから「高卒認定」試験で入ってきた人は除外されているわけか。「高卒認定等」の受験者は1397名。合格者は134名。2009年度合格者全体に占める割合は0.92%である。
 ちなみに、北海道の高校出身者は0.97%である。「高卒認定等」で早稲田に合格した割合とほぼ同じ。早稲田大学内で北海道の高校出身者に会うのと同じくらいの割合で、「高卒認定等」合格者がいるのである。私のいるゼミに、北海道の高校出身の先輩がいる。この方と遭遇したのだから、案外「高卒認定等」でワセダに来た人はいるのだろう。

 フリースクール→高卒認定→大学進学、というルートが認められることを期待している私にとって、このニュースは非常に嬉しい知らせであった。

水族館劇場『谷間の百合』

 わが早稲田大学の演劇博物館前広場において、水族館劇場という劇団の公演が行われた。『谷間の百合』というタイトルだ(同行したわが親友は「百合」が読めなかった)。「伝説のストリッパーの芝居を上演します」という説明から密かな「期待」があったが、案の定その「期待」は現実のものとなった(何を意味するかはここでは書かない)。

 野外公演。ちょうど、天候は雨が降ったり・やんだり。ビニールシートに座っていた私と親友は、頭にタオルをかぶるなどして対応した。どんよりとした天気は本演劇のもつ暗いイメージと非常にマッチしていた。天候という偶然の産物が、演劇という時に偶然性をも利用する芸術と、うまくおりあっていたといえるだろう。ヒロインの「これからの一条さゆり」の、今後の人生への暗い展望が、心情描写として描かれていた。

 ストーリーとしては、ストリッパーとして働く「これからの一条さゆり」のもとに、将来の一条さゆり(「あれからの一条さゆり」)が会いにくる。いまは売れっ子の踊り子・一条さゆりであるが、その内全く売れなくなり、酒に溺れ、釜ヶ崎の住人となってしまうほど落ちぶれてしまう。「あれからの一条さゆり」は「あんな町へ行ったらあかん」と、忠告に来たのだ。
 「これから」と「あれから」の一条さゆりは互いに苦しい身の内を語り合った後、抱きしめあうところで幕となる(野外なので、本当の「幕」はないけれど)。

 「人間は阿呆でさびしんぼうや」というセリフに、非常に惹かれるものがあった。続けて「夜になると人が恋しくなり、酒を飲む。寂しさが分からなくなるくらいまで飲む。金がなくなると、体を売る」。私も夜になると、無性に寂しい思いになり、酒を飲んでしまう。「あれからの一条さゆり」の寂しさが、無性に伝わってきて泣きたい思いがした。

 調べてみた所、この「一条さゆり」は実在の人物であるようだ。60~70年代に一世を風靡したストリッパー・ポルノ女優。晩年は釜ヶ崎で寂しくこの世を去ったと聞く。

 野外公演も、ぎゅうぎゅう詰めで観る演劇も初めてなので、非常に印象深かった。学生演劇くらいしか今まで観ていなかったが、プロの演劇は違うと実感した。早稲田での公演でありながら、観客は中高年ばかり。早稲田生は数えるほどしかいないようである。

 

早稲田大学教育学部 自己推薦入学の裏側

 わが早稲田大学教育学部には、自己推薦入学試験制度がおかれている。自己推薦入学試験(いわゆるジコスイ)とは、部活の全国大会優勝などの実績をアピールし、受験する試験制度である。早稲田の全学部に自己推薦入試があるわけではない。そのために、「一芸」に秀でた人々は「教育」に興味がなくとも教育学部にやってくることとなる。

 ちなみに「一芸」入試で有名なのは亜細亜大学である。登山家の野口健はこれを使って入学した。彼の著書は『落ちこぼれてエベレスト』。私はそれをもじって『落ちこぼれて亜細亜大』と呼んでいる。
 閑話休題。その早稲田大学教育学部の自己推薦入試であるが、合格してきている人々はどんな「一芸」に秀でているのであろうか? やはり全国大会1位などが多くなるはずだろう。どんな人たちが合格しているのだろうか。
 そう思い、さっそく早稲田大学の教育学部の学部事務所に行った。そして「自己推薦入学のご案内」というパンフをもらった。以下はパンフに載っていた昨年度のデータである。
 なお、下の学芸系とは「全国書道展1位」などの文化系での実績、スポーツ系とは「サッカー全国大会3位」などの体育会系での実績、全校的活動系とは「生徒会長」などの実績で合格した人のことを指す。
 自己推薦試験、志願者は計390名。そして合格者は61名。
 では学芸系での合格者から。志願者128名、合格16名。倍率は約10倍。
 続いてスポーツ系。      志願者175名、合格23名。約8倍。
 最後に全校的活動系。    志願者87名、合格22名。約4倍。
 なんと、最も合格率が高いのは「生徒会長」「生徒会副会長」などの「全校的活動系」の実績で受験した人達なのだ。ときどき生徒会長になることを「大学入試のための点稼ぎ」と悪くいう人もいるが、「確かにそうともいえるよなあ」と思ってしまうデータであった。
 ちなみに、私は高校では生徒会長。ああ、ジコスイを使えば早稲田に簡単に入れていたのか・・・。あんなに苦労しなくても良かったのに・・・。悔やむ心が起きてくる。
 
 ところで、「いない」とは思いますが、これを読んでいる受験生で、かつ生徒会長の方へ。早稲田大学教育学部への自己推薦試験を受けてみることをお奨めします。「教育」への興味はなくて構いません(私も教育学部は第五志望。まさかここへ通うことになるとは)。だって倍率はたかだか4倍なのですから・・・。

「学校じゃ教えてくれないこと」批判

 よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。

 「学校じゃ教えてくれないこと」という言葉には、「もっと役立つことを学校では学びたかった」という思いが込められている。そんな思いを哲学的にはルサンチマンという。学校に対する「恨み」ということだ。この「恨み」はしかし、学校それ自体への批判ではない。「学校制度でこんなことを教えてほしかった」「もっと役立つことを教えてほしかった」との、ムシのいい思いが感じられる。学校で「教える」ということ自体には何も批判をしていない。また「教えられる」ことを無条件に「善」としている点も気になる。
 問題なのは「教えてもらいたい」「教えられたい」という受身の感情、「奴隷根性」が見え見えである点だ。自分で学ぶ、という自発性・能動性が感じられない。思想家・イリッチは『シャドウ・ワーク』などの著作を通して、「自分でやること」「自分で作り出すこと」「自分で学ぶこと」の大事さを訴えた。他者を頼りにする姿勢(ここでは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」の様子)は本当の人間のあり方ではない。
 「学校じゃ教えてくれないこと」。この言葉、脱学校論者からみれば「当たり前じゃないか」と感じる。学校は何も役立つことを教えてくれはしない。そんな期待をしてもいけない。来年には私は「教員免許」を入手できるが、「先生」といわれるほど人格は高くない。「人生において大事なこと」を教えられる自信は全くない。
 人生で大事なことなんて、学校が教えてくれるわけないのだ。自分で学ぶしかない。そんな当たり前のことを、なぜ今さらキャッチ・コピーに使うのだろう。
 私は高校までは「優等生」であった。早稲田という場所は「優等生」を崩してくれる場所である。だいぶ不真面目になったなあ、とつくづく思う。
 こんな話を、非常勤講師をしたとき、中学・高校でしたいものだ。
追記
 イリッチの話を敷衍するなら、学校の「部活動」というものにも再考が必要だ。
 部活動は「勝利主義」的。勝つこと・プロになることを子ども達に押し付ける。「勝てなくてもいいから楽しくやろうぜ」とは決して言わない。「どうせ甲子園に出れるわけないんだから、紅白戦を毎日やって、楽しくゲームしようよ」という野球部のキャプテンは、おそらく吊るし上げられる。
 日本で健康のためのスポーツが根付かないのは、「部活」による「勝利主義」の存在が大きいのではないか。ゲームそれ自体を楽しむのではなく、「大会に出る」「根性をつける」「努力の大切さを学ぶ」という、汗臭い目標の達成が「部活」の目標になっているからだ。
 イリッチは「レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭で取れたものの方が価値があるとされる」(『シャドウ・ワーク』52頁)社会の誕生を待ち望んだ。スポーツも同じだ。勝利することなど「結果」として得られるものよりも、過程を大事にする姿勢(「楽しむ」ということ)の重要性をイリッチは教えてくれる。

山本哲士の本

早稲田生協でこの本を買った。

学校それ自体への批判を、山本哲士は積極的に行っている。

あとがき が気に入ったので購入。

「教師として失格であることが、教育的に一番害がない。50%ぐらいの教師がそうなると、教育は必然になくなり、学ぶパワーがとりもどされていこう」

イリッチが『シャドウ・ワーク』で言いたかったこと

『シャドウ・ワーク』においてイリッチは〈制度に縛られない〉生き方の大事さを何度も主張している。少なくとも、一章と二章を見る限り、そうである。

 「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはず。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行して、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

 『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである、と。近代成熟期には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

 追加すると、イリッチは「理想の社会」と一つのことばで表される社会を嫌っているように思える。コミュニティごとに、「理想の社会」は異なるはずだ。文化環境も、思想・信条も、自然環境も違っているのだから。山本哲士は『教育の政治 子どもの国家』において「社会」と「場所」とを対比的に語る。一元的な「社会」ではなく、その場その場の(ヴァナキュラーの)「場所」を重視すべきだと主張している。
 経済を基にしていると、経済はすべてを一元化してしまう。『シャドウ・ワーク』の「公的選択の三つの次元」のZ軸の定義として、上限が「経済成長につかえる社会」であると示している。その反対側の下限が「生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」というものであった。「経済に基づくコミュニティも多様な選択肢の一つではないか」という意見が聞こえてくることを見越した上での、主張であろう。経済を基にすると、コミュニティの独自性が失われてしまうことをイリッチは嘆いているのだろう。XYZ軸をすべて説明した後に、「当今の政治の概念作用となると、すべてを一次元化してやまない」といっているのは、そのためではないだろうか。

※余談だが、昔読んだリンカーン大統領の伝記を思い出す。サブタイトルは「丸太小屋からホワイトハウスへ」であった。当時の私は丸太小屋、つまりログハウスに住んでいる人は「別荘を持った金持ち」というイメージをもっていた。本来、19世紀初頭における丸太小屋は「貧しさ」の象徴であったのだが、誤解していたのだ。

宮台真司『14歳からの社会学』

 いま私は宮台に夢中である。
 宮台の著書『14歳からの社会学』に、「承認」論が描かれている。社会から、他者から認められ、「自分はこれでOKなのだ」という「尊厳」を得るためには(ちょうどエヴァのシンジのように)、何が必要か?
 宮台は「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。

《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)

 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。
 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。
 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしてい た自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものでは ない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台 のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」とな る可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。

 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

追記
 宮台はこれからの社会の「勝ち組」像を語る。その人物は、他者とコミュニケーションを自在に行うことができ、自分の示すビジョンの実現のために多くの人々を動員し、実現できる者である。
 コミュニケーション能力こそが、必要となるのだ。
 外に出て、人に会うのだ、石田よ! 
 誰かが「人生において重要なこと」として言っていた。「本を読め、人に会え、旅に出よ」と。私はこれに「映画を観ろ」を追加したい。
 さて。今日も人と会って深い対話をし、「承認」を得られるように努力していきたい。

夏の目標

 眠れない苦痛を逃れるため、過去の投稿を読んでいた。文章の下手さ加減に感心してしまう。「今ならこう書くのに…」。けれど、それに気づける時点で自分の成長が測れるのだろう。

 私の今年のテーマは「人と比べるな、昨日の自分と比べよ」である。過去の自分の文章に駄目出しできることは、過去の自分よりも成長した証しと言える。

 夏休みの私の目標。一日1本映画を観ること、一日1回はブログ更新をすること、『社会学』の厚い参考書を3回読むこと、卒論を「とりあえず」書き上げることである。インプット・アウトプット両方を重視しつつ、自分の成長につながる時間を過ごしたい。

 映画『燃えよドラゴン』解説での、ブルース・リーの言葉。
「自己表現を学べ。自分自身を研究するんだ」
 そんな夏にしたい。

 ともあれ、時間というストックだけは万人に開かれている(梅田望夫『ウェブ時代をゆく』)。ならば戦え、自分よ。目前の時間を価値的に使え、惰眠に使うな! 「生きるとは行動すること」とは誰かの言葉。
 自分に負けるな!