今年は植木等が逝去した年である。その意味を込め、いま改めてニッポン無責任時代という映画とその主題歌を再検討してみたいと思う。
植木氏が人気者であった当時、「無責任」はどんな意味を持ったのか。現在、「無責任」はどんな意味をもつのか。映画公開当時の世相と現代を比較してみたい。
今年は植木等が逝去した年である。その意味を込め、いま改めてニッポン無責任時代という映画とその主題歌を再検討してみたいと思う。
植木氏が人気者であった当時、「無責任」はどんな意味を持ったのか。現在、「無責任」はどんな意味をもつのか。映画公開当時の世相と現代を比較してみたい。
皮肉ながら、アルタ前にいるとアルタビジョンは見ることが出来ないのに、ABCマートのCMはくっきり見える。
何でこうなるのだろう。
アルタ前では、何も見えない。アルタ前で待ち合わせする人が、一番長く見てくれそうなのに。
アルタビジョンのようなテレビ画面は、下から見えない。これでは待ち合わせの退屈を画面ではらすことができない。ALTA前で待ち合わせして実感した。
下から見えるようにしてもらえないのだろうか?
若松河田駅にて撮影。この写真、盗撮行為になるのだろうか?
なるなら、ごめんなさい。未成年なので実名は放送されないはずなので。
使える言語コードはなるべく多い方がいい。
標準語、方言、崩れた言い方、いろんな一人称名詞を使いこなして話したい。何故ならその分表現が豊かになるのだ。前に被抑圧者の方が言語コードが豊かになると書いた。そこから一歩飛躍し、自ら言語コードを広げる努力をしていきたい。
何故か知らぬが、映画館で寝るとすごく勿体ない気がする。
金を払っているからか。
最近、よく寝ているのだが…どうすればいいのだろうか?
教職を志す以上、自分にもわからないことは教えたくない。俺は社会科の免許を取る以上、いつでも政治や経済の動き、倫理や地理・歴史を生き生きと語れるようになりたい。そして尚且つわからないことはわからないと認め、生徒ともに考えていく。決して、わからないことをわかったかのように教えたくはない。
そのためには常に研鑽だ。学びに学んでやる。
生活綴方という教育実践が、戦前・戦後に流行った。子どもの思うことを積極的に作文や詩で表せようとする取組である。
ある本に、「これは子どもに表現欲を持たせる実践である」とあった。
私はこの「表現欲」との言葉に印象を受けた。私がいまこの文を打っている原動力の、最適な説明であると感じたからだ。
かつての生活綴方は紙とペンであった。現代のそれはblogという形で実現可能かもしれない。
今日、この映画を見た。WW2末期のドイツが舞台の反戦映画である。
従来の構図を覆し、「ナチの幹部にも良心があり、レジスタンスやユダヤ人の中にも悪魔がいる」ことを示している。
保身のため、終戦後すぐ連合軍に部下を売ったナチの大尉。慈悲の心を示すナチの中尉。仲間を売ったレジスタンス。人間の本性を追究する映画だ。
ナチスの幹部といえども、彼等が悪魔のように冷淡な人間であったわけでない。そのことを知った映画だった。
この映画は誰の心にも悪の命があり、同時に善の命のあることを示している。
自己の内面にあるグシャグシャした命を垣間見た気がした。