最近、「先生を選べ」という本を友人宅で読んだ。
理由は忘れたが、
「あの先生のいうことだから、何か意味があるのだろう」と受け止めることが大切だ。自分の先生の発言や著作のヘキゲン節句をあげつらい、批判して「我賢し」、というのはあるべき姿ではない
とあった。そして「先生を批判するよりも、自分自身がその先生の理論を乗り越える」重要性を説いていた。
最近、「先生を選べ」という本を友人宅で読んだ。
理由は忘れたが、
「あの先生のいうことだから、何か意味があるのだろう」と受け止めることが大切だ。自分の先生の発言や著作のヘキゲン節句をあげつらい、批判して「我賢し」、というのはあるべき姿ではない
とあった。そして「先生を批判するよりも、自分自身がその先生の理論を乗り越える」重要性を説いていた。
人との約束、自分は時々、寝ちぎる。理性が感性を支えられていない。
「やばい、寝てしまう」危険のある際は、早めに移動し、集合場所で寝る。寝てしまいそうなとき、自宅から出ることを習慣化したい。
いろんな人から、信頼を失っている気がする、睡魔によって。
2週間前にアポをとって講演に来て下さる人は、2週間前にアポを取っても来てくれるような人である。
眠さに耐えるのも修業なのであろうか?
教育学の「臨床の知」に、一番近いのは現場の教員ではないか。
心に傷を持たない人間はつまらないように、失敗のない人生は味気ない。
なんか知らぬが、俺のいた寮では、変な決まりがある。
腰に巻くタオル。入浴時、落ちぬよう、洗濯挟みで継ぎ目をとめるのだ。
面白く、合理的な決まりであったものだ。
マッハのみた世界、それはマッハにとっての直接経験である。マッハがものを学ぶとき、写真に示した世界を見ているということを意味する。「客観的」だと思われるものも、結局は白黒で示したマッハの写真のように、「主観的」なものが前提になっている。
フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた。この場合、学問的であるためには、なんとしても、この光景に還元せねばならないのである。というのも、私たちは、この光景(あるいは表象)の外に出ることができないからであり、それにもかかわらず、その外に出られると考えるのは、非学問的だからである。
谷徹『これが現象学だ』(p47、2002年、講談社現代新書)
モノより思い出より、経験。
これがプライスレスで、人生で最も役立つものでは? あと人間関係があれば完ぺき。
政変のとき、普段雑誌を買わない層は、「気になる!」と思って雑誌を買うのだろう。
何も事件のないとき、それでも売り上げを高めようとするため、デマやでっちあげ報道をしてでも、マスコミは自ら重要な事件をつくろうとするのかもしれない。
何もないなら、わざわざ雑誌を作らずともよいのではないだろうか。報道自体が自己目的化していないか。