2007年 9月 の投稿一覧

先生を選べ

最近、「先生を選べ」という本を友人宅で読んだ。

理由は忘れたが、

「あの先生のいうことだから、何か意味があるのだろう」と受け止めることが大切だ。自分の先生の発言や著作のヘキゲン節句をあげつらい、批判して「我賢し」、というのはあるべき姿ではない

とあった。そして「先生を批判するよりも、自分自身がその先生の理論を乗り越える」重要性を説いていた。

人との約束、自分は時々、寝ちぎる。理性が感性を支えられていない。

「やばい、寝てしまう」危険のある際は、早めに移動し、集合場所で寝る。寝てしまいそうなとき、自宅から出ることを習慣化したい。

いろんな人から、信頼を失っている気がする、睡魔によって。

アポと講演

2週間前にアポをとって講演に来て下さる人は、2週間前にアポを取っても来てくれるような人である。

修業

眠さに耐えるのも修業なのであろうか?

山本周五郎の言葉

心に傷を持たない人間はつまらないように、失敗のない人生は味気ない。

風呂の決まり

なんか知らぬが、俺のいた寮では、変な決まりがある。

腰に巻くタオル。入浴時、落ちぬよう、洗濯挟みで継ぎ目をとめるのだ。

面白く、合理的な決まりであったものだ。

エルンスト・マッハ

エルンスト・マッハのメモを、自宅で再現してみた。

マッハのみた世界、それはマッハにとっての直接経験である。マッハがものを学ぶとき、写真に示した世界を見ているということを意味する。「客観的」だと思われるものも、結局は白黒で示したマッハの写真のように、「主観的」なものが前提になっている。

フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた。この場合、学問的であるためには、なんとしても、この光景に還元せねばならないのである。というのも、私たちは、この光景(あるいは表象)の外に出ることができないからであり、それにもかかわらず、その外に出られると考えるのは、非学問的だからである。

谷徹『これが現象学だ』(p47、2002年、講談社現代新書)


ちなみに、右のが私が試みた「私の直接経験」である。マッハの絵をもとにした。

プライスレス

モノより思い出より、経験。

これがプライスレスで、人生で最も役立つものでは? あと人間関係があれば完ぺき。

政変と雑誌と平常時

政変のとき、普段雑誌を買わない層は、「気になる!」と思って雑誌を買うのだろう。

何も事件のないとき、それでも売り上げを高めようとするため、デマやでっちあげ報道をしてでも、マスコミは自ら重要な事件をつくろうとするのかもしれない。

何もないなら、わざわざ雑誌を作らずともよいのではないだろうか。報道自体が自己目的化していないか。