抜粋集

小浜逸郎『先生の現象学』(1995、世織書房)

近代ヒューマニズムの信奉者が自明なことと考えている「教育は子どものためにある」というテーゼは、別に少しも自明なことではないといいたいからである。
 教育は、もともと子どものためを思って意図されたのではない。それは発生的には共同体の維持の必要から生まれたのであって、子どもを共同体のシステムに引き込むのが目的だったのである。
 もちろん、発生期の事情が、複雑な社会構成をもつ現代にもまったくそのまま単純に当てはまるというわけにはいかない。その複雑さを考慮に入れた上で強いていうなら、「教育は、大人(の作っている社会)と子どもとの関係のためにある」ということになるだろうか。ただ、それは、近代社会が生み出した人間の実存の分裂したありかたに対応して、一つに絞り切ることができずに、「国家や社会のため」と、「個人の自由と幸福の追求のため」という二つに分かれて追求されざるを得ないのである。(pp100~101)

→内田樹のいう「既に始まっているゲームに参加させられる」状況に類似している。

神前悠太ほか『学歴ロンダリング』(2008年、光文社ペーパーバックス)

 『ドラゴン桜』では、「バカとブスこそ’東大’へ行け!」と力説いていた。
 本書では、この言葉をパロディにして、「バカ」と「ブス」そして「人生の負け組」こそ、’東大大学院’へ行け! と力説したい!(p11)

 この本は恐ろしい本である。「東大大学院は入りやすい!」を何度もいうことで「大学院で学歴を’東大’という最高のブランドに変えよう」と提言する。東大などの諸大学院が「大学院重点化」という失策を行っていることを逆手にとっての提言である分、ラディカルながら本書は大学院政策のあり方を読者に訴えかけるものとなっている。
 本書の白眉は「どうやればカンタンに東大大学院に行けるか」という箇所ではない。東大の傲慢さを徹底的に批判するChapter 8が肝心なのである。

はっきり言って、大学院の定員数の急激な拡大は、単純に大学の予算拡大を狙って行われたものです。学問の発展や社会の要請、果ては人材の育成云々と言った理由はまったくの建前です。
 少子化に伴って自然減少していくことが明白な学生数を、一時的に増大させるのに最も効果的な方法は、定員の拡大です。
 大学院の定員の拡大は、学部の定員をまったく増やすことなく大学全体の定員を拡大させる魔法でした。なにしろ大学院は大学とは「別」なのですから。
 この戦略を真っ先に実行したのが東大法学部です。
(中略)
 東大は、日本の大学の中では絶対的な存在なのです。そうであるからこそ、東大が改革を行えば、必ず他大学も改革せざるをえない事態になるのです。(p323)

 ところで『新・大学教授になる方法』という本がある。この本には「10年間の無収入時代を耐えることができれば大学教授になれる」ことを謡っている。『新・大学教授になる方法』と『学歴ロンダリング』は同じ事実を肯定的/否定的に評価しているだけなのだ。『新・大学教授になる方法』は「しばらく食えないけれど、耐えれば大丈夫」といい、『学歴ロンダリング』は「食えない期間は非常にキツい」ことを言っている本なのである。厳密には書かれた時期の問題でポスドク問題などの現代特有の問題が起きており、『新・大学教授になる方法』はポスドク問題などには対応していない。その点での問題点はあるようだが、基本的に研究者という生き方は「若いうちは食えない」ものなのであろう。

 私は幸運にも、文系の中では比較的就職率の高い教育学を先行している。これはいざとなったら「教員」というカードを切れるということが大きいようだ。看護学校の必須科目でも「教育学」の授業があるなど、「教育」分野には潜在的需要が存在しているのだ。ありがたいと言ったらありがたい話である。
 
 この本を読み、人生プランについて改めて考えてみた。「修士にいくのはお勧め。でも博士課程はやめといた方がいい」とのメッセージを受け、「本当に俺は博士課程にいくべきなのだろうか?」と思ったからである。
 いろいろあって、最終的な結論として、

①修士課程は行く。できれば東大。
②修士を終えたら、一度社会に出る。それは教員や出版関係である。
③働きながら社会人枠で博士課程に入る。

 こういうルートを考えていないと、研究者として生きていけない。博士課程卒は食えないからだ。
 それにしてもニコニコ動画「創作童話 博士が100人いる村」のラストシーンは印象的だった。

抜粋 パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育』

 信頼のおけない言葉は、構成要素が二分させられるときに生まれる。それは現実を変革することができない。言葉が行動の次元を失うときには、省察も自らその影響をうける。そして言葉は、無駄話、空虚な放言、疎外されかつ疎外するたわ言に変えられる。それは世界を告発することのできないうつろな言葉になる。なぜなら告発は変革への積極的関与なしにはフナこうであり、変革は行動なしにありえないからである。
 逆に行動が極端に強調されて省察が犠牲にされるならば、言葉は行動至上主義に変えられる。行動至上主義、すなわち行動のための行動は、真の実践を否定し、対話を不可能にする。いずれにしても二分化は、偽りの存在形態をつくりだすことによって偽りの思考形態を生み、それが先の二分化をさらに強めるのである。
 人間存在は沈黙していることはできず、偽りの言葉によって豊かにされることもない。それを豊かにしうるのは真の言葉だけであり、人間はそれを用いて世界を変革する。人間らしく存在するということは、世界を命名し、それを変えることである。いったん命名されると、世界は再び課題として命名者の前に表れ、新たな命名をかれらに求める。人間は沈黙のなかでではなく、言葉、労働、そして行動―省察のなかで自己を確立するのである。(p96)

内田樹『街場の教育論』

 まず、師弟についての部分から。内田は師弟関係の重要性を繰り返し説明する特異な学者である。かなりカタカナ言葉を使い、衒学的なところはあるのだが…。

 

不思議な話ですけれど、レヴィナスが「レヴィナス哲学」の語り手になるためには師に出会う必要があった。けれども、レヴィナスがその師から教わったのは、哲学ではなくて、ユダヤ教の経典であるタルムードの、それも「アガダー」と呼ばれる一領域についての解釈の仕方だけだったのです。つまり、レヴィナスの知的可能性を開花させたのは、師から「教わったこと」ではなくて、「師を持ったこと」という事実そのものだったということです。
 「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。
 
 ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高く設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言いえるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。それが本人には「うぬぼれ」だと自覚されていないだけ、いっそう悪質なものになりかねません。
 ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。(pp154~156)

→非常に感銘を受けた箇所である。こんな場所が、『街場の教育論』にはあふれている。
 他にも、こんなものがある。

 最初に、次のことだけをみなさんと合意しておきたいと思います。
(1)教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。
(2)それゆえ、教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである(私たちがなす議論も含めて)。
(3)教育制度は一時停止して根本的に補修するということができない。その制度の瑕疵は、「現に瑕疵のある制度」を通じて補正するしかない。
(4)教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである。
 ざっとこれくらいのことを教育論の前提としてご了承いただければ、と思います。(pp21~22)

→不毛な教育論を回避するための前提作り。たしかに重要なことだ。なお、オーバーアチーブについて、は以下の説明を見ていただきたい。東洋経済オンラインマガジンより。

「オーバーアチーブ」とは耳慣れない言葉かもしれませんが、「overachieve」すなわち「期待以上の成果をあげる」という意味です。
 私たちは通常、さまざまな「期待」に囲まれながら働いています。上司の期待、取引先の期待、お客様の期待……。それが「ノルマ」という形をとることもあれば、「希望」止まりの場合もありますが、いずれにせよ仕事をしている限り、周囲の期待と無縁でいることはできません。
  だからもしあなたが、「期待以下」の仕事をしてしまえば、それは問題でしょう。「書類を3日で仕上げるように」と言われたのに、もし締め切りを過ぎてしま えば、それは「期待以下」の仕事です。言われたこと、期待されたこともろくにできない、三流の人材ということになってしまいます。

他に気に入った箇所を引用していく。

「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。(p59)

教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自信が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。(p142)

人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。
 ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する激しい欲望に灼かれていることが必要である。(p158)

すべての人間的資質は葛藤を通じて成熟する。これは経験的にたしかなことです。あらゆる感情は葛藤を通じて深まる。(p252)

→このために、教員は葛藤を子どもに生じさせる役割をもっている、と内田はまとめている。

この本は、「学校の先生たちが元気になる」ことを目的に書かれた本である。読んでみると、他の教育論とは毛色が違って面白い。

村上陽一郎『新しい科学論』(講談社ブルーバックス、1979年)

古い本である。しかし、手元のものを見ると2008年5月に
43版が出ている。驚異的な本だ。

ある時代、ある社会のなかである考え方が有力な底流を形成しているとき、
それは、その社会共同体のメンバーたちに共通の、広い前提になるわけです
し、そうした共通の前提の上にたつ限り、多くの人びとが、その前提と構造
的同型性や意味の連関性をもつような同一の理論に、独立に到達することは、
ある意味では当然のことになりましょう。(195頁)

村上は、科学は「中立性」や「客観性」をもつという考え方を「科学につい
ての常識的な考え方」であるという。
そして「新しい科学観」を提示していく。それは’そもそも科学に中立性や
客観性というものはない’ことを形をかえて主張していくのである。
そもそも近代科学の父であるニュートンもキリスト教に基づいて、
キリスト教の見方(偏見)にしたがって研究を進めたのだから。

要するに、現代の科学は、その長所も欠点も、わたくしども自身のもって
いる価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚すること
から、わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は、
今日のわたくしども人間存在の様態を映し出す鏡なのです。今日の科学者の
考えていることは、わたくしどもの時代、わたくしどもの社会の考えている
ことの、ある拡大投影にほからないのです。(201頁)

この本、1979年時点では斬新な本であっただろう。けれど、ここに書か
れた「新しい科学観」はある意味の「常識」となってしまっている。
科学の中立性について何かを言うのは高校の教員くらいであろう。
学校での科学教育は今だ村上の言う「常識的な考え方」に縛られている
ようだ。

梅田望夫『ウェブ時代をゆく』

‘われわれは情報の無限性の前に生きている。しかし人間存在は有限性を持つ。今や各種資料やデータ・書籍がネット空間にある。その状態では資金も学歴もほとんど意味を持たない。純粋にその対象がどれだけ好きか、興味を持てるか、対象に対しどれだけ時間を注ぎ込めるかで勝負が決まる’というメッセージを受けた本であった。

私は重ねて「オープンソース・プロジェクトも、成功するものと失敗するものがあるよね。もちろんほとんどは失敗するよね。その差は何だと思う
と尋ねた。「成功するかどうかは、人生をうずめている奴が一人いるかどうかですね」と彼(石黒氏)は端的に答えた。(66頁)

時間だけがすべての人に平等に与えられたリソースである。その時間を、自らの志向性と波長の合う領域に惜しみなくつぎ込む。それが個を輝かせる。大切な時間というリソースを自分らしくどう使うのか。そこがこれからはますます問われる。(90頁)

*(  )内は石田一。

増田れい子『看護 ベッドサイドの光景』(岩波新書、1996年)

増田れい子『看護 ベッドサイドの光景』(岩波新書、1996年)

60頁
日本人というのは、マイナスのものをマイナスのままで引き受けちゃう。マイナスを、プラスに変える方法はいくらでもあるんだけど…。

84頁
同じ課題に立ち向かう仲間がいるということが、厚い壁を超えるときの不可欠の要件だと言う。

125頁
「看護っていうのは、患者さんとかかわるなかで患者さんに教わりながら育つ技術だと私は思います。おかげさまで、看護婦をさせてもらっております、これが、ほんとうの気持ちですね。ですから患者さんありがとう、家族の方いろいろ教えていただいてありがとうございます……と、ひとへの感謝につながっていきます。看護っていう仕事は、感謝の仕事だと思っております」

→教育学にもつながる考え方である。

156頁
忍耐する強い母より自然体でいこう、痛いときは痛い、つらいときはつらい、と。だから産んだあと、ああビール飲みたいの気分でした。

178頁
(子どもの親について)こどものイヤがることは、必要なことでもしない。
 入院したこどものことでお母さん方がいちばん神経質になる点は、病気をなおすことよりも、勉強のおくれです。そっちの心配でイライラなさる。病気なっても病気でいられないのが、いまのこどもたちなのかもしれません」

236頁
看護とは、人間を人間らしくいかし、また人間らしい死を可能とする人間の仕事である。

中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社現代新書、1967年

中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社現代新書、1967年

47頁
実際、日本人は仲間といっしょにグループでいるとき、他の人びとに対して実に冷たい態度をとる。

78頁
学歴で一律に個人の能力を判定するということは能力主義というよりも反対に能力平等主義である。なぜならば、学歴で能力が違うということは、誰でも在学した一定年数分だけ能力をもつということになるから、個人の能力差を無視した考えである。

104頁
どんな社会でも、すべての人が上に行くということは不可能だ。そして社会には、大学を出た人が必要であると同様に、中学校卒の人も必要なのだ。しかし、日本の「タテ」の上向きの運動の激しい社会では、「下積み」という言葉に含まれているように、下層にとどまるということは、非常に心理的な負担となる。なぜならば、上へのルートがあればあるだけに、下にいるということは、競争に負けた者、あるいは没落者であるという含みが入ってくるからである。

181頁
日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである。

佐々木健一『美学への招待』(中公新書、2004年)

佐々木健一『美学への招待』(中公新書、2004年)

あるアーティストがこれはアートだと言えば、それがいかに異様な、これまで藝術やアートとされてきたものとは一致しないものであっても、それをアートではないとする根拠はない、ということになります。(68頁)

われわれの経験のなかで、何らかの意味で直接体験と呼びうるものが最初にくるケースはほとんどない、と言えるでしょう。われわれを取り囲んでいる文化環境のなかでは、複製の存在が圧倒的なヴォリュームをもっています。それはわれわれの文化環境が、テクノロジーによって形成され、そのテクノロジーが複製を増殖させているからです。世界については、99%の情報はテレビや新聞からやってきます。藝術については、まず画集を開いて名画を知り、ラジオやCDで音楽を聴きます。複製を否定することは、文化に触れることを拒絶するに等しいでしょう。(81頁)
→たしかに、わたしたちは読む前から『坊っちゃん』のストーリーを知っている。場合によってはシャーロック=ホームズの犯人やトリックすら知っている。

自由であるとき、われわれは怠惰になりがちです。(90頁)

163頁「藝術史を識らなければ、藝術は分からない」

新作しか上演されなかったギリシャ演劇。

「人間を超える」ということは、人間中心主義(藤本注 近代の考え方のこと)を清算し、虚心に宇宙のなかでの人間の位置を問い直すことにほかなりません。さしあたりは、われわれ人間が自然の一部でもあることを認識することであり、ひいては、人間以上に偉大なものが存在することをわきまえることです。それが美学と結びつくのは、美がそのようなものだからです。(中略)いま、「人間を超える」美学としてわたくしが考えているのは、藝術美よりも自然の美です。藝術美でさえも、それは計画して得られるものではなく、卓抜な仕事への報奨として与えられる恵みでした。人間の力は美に届かないのです。大自然の美に触れるとき、われわれは自らの矮小さを認め、それに愉悦を覚えます。無限に広がる大洋に向かい合い、高山の威容に触れるとき、誰でもそのことを体験します。美学は美のこの性格と、その体験における効果を語らなかればなりません。(222〜223頁)

吉永良正『「複雑系」とは何か』

吉永良正『「複雑系」とは何か』(講談社現代新書、1996)

38頁
(複雑系は)「全体は部分の総和以上である」という性質をもつがゆえに、これまでの科学の方法では攻略できないというわけだ。

244頁
複雑系が真に問うているのは、「世界を見ることを学び直すこと」なのである。