それぞれのコミュニティが、地域に生きる民衆の草の根の声として「平穏に暮らしたい」という主張をいかに表現することになるだろうか、私にはわからない。たしかなことは、どの主張も、それぞれのコミュニティにおいて固有かつ独自なやり方で明示されねばならないだろうということである。(pp37-38)
イリッチのこの文章が印象的であった。
平和には一つの形は存在しない。外部から「これが平和だ」と押し付けられるものではない(9・11後のイラク戦争で平和をもたらすことはできなかったことを想起されたい)。外発的な平和ではなく、内発的に人々の発意によって成立した、コミュニティ独自の「平和」を目指すべきなのだ。一つではない平和、つまり「多様な平和」とでもいえようか。少なくとも言えることは、「こうすれば平和になる」という処方箋は存在せず、コミュニティの中で「これが平和だ」といえるものを考案していかなければならない、ということだろう。
この章の始めにも、次の言葉がある。
民衆に平和を取り戻させるには、経済開発にたいして草の根からの民衆の手で制限を加えることが重要なことと考える。(p19)
「草の根から」の平和運動、それも「経済開発にたいして」「制限を加える」運動が必要となってくる。この文章の後、イリッチは国連の創設以来、「平和は徐々に『発展=開発』と結び付けられてきた」(p26)ことを主張する。この意見は非常に開明的だ。私も無意識的に「途上国が開発を行うことで、人々は平和になる」と考えていた。けれど経済開発により、人々に本当の平和がもたらされるかというと、そうではない。文化やアイデンティティ・言語の喪失、環境破壊など平和とは逆行してしまうことも多い。そもそも、「発展」や「開発」が他からもたらされるものであるなら、そこに住んでいた人々に「これが平和だ」と理想の平和像を押し付けることになってしまう。
イリッチは意識していないと思うが、このような「多様な平和」という概念は多文化社会やグローバル社会においてこそ必要となるであろう。現在は価値観が多様な時代である。何をもって「平和だ」と意識するかも人それぞれ・コミュニティそれぞれに違ってくる。コミュニティ外の人々は、「これが平和だ」と押し付けることがあってはならない。
「これが平和だ」と同じ構造を持つのは「あれは平和ではない」「あれは暴力国家だ」という言説である(と思う)。私が不思議に思うのは、北朝鮮の内情を見たわけではないにも関わらず「北朝鮮は反社会的国家だ」と糾弾してよしとする人々の姿勢についてである。案外、北朝鮮の人々は平穏に暮らしているかもしれない。北朝鮮の対外政策では拉致被害者やミサイルが話題になるが、ソ連時代にも似たような事件はあった(少なくとも、発生可能性はあった)。けれどソ連の人々が皆悲惨な生活をしていたとはいえないはずであろう。平和を満喫できた人々も結構いたはずだ。勝手な決め付けは真実を見えなくさせることがある。北朝鮮問題の真実を私が知っているわけではないが…。