筆記用具による、学習の効率化

小学生は、よくおもちゃのような文房具を使う。キャラクター系のものだ。むろん、勉強が楽しくなるというメリットはある。しかし、いかんせん使い勝手が悪い。消しゴムは字を消せず、シャーペンはよく詰まる。

この傾向、中学飛び越え高校、大学、一般企業でも残る。使い勝手で文房具を選ばない。

文房具は、いわば仕事道具、戦争で言うなら武器である。手入れや選択を誤ること、これイコール死を意味する。時間を殺すことになっているのだ。

だから、勉強しよう、学ぼう、もっと仕事しようというなら、まず文房具を変えるべきである。

自分は、昔から文房具フェチであった。今でも、フラッと文具店に行ってしまう。そして何かしらいい文房具がないか探している。

自分のいま使っている「武器」は、
①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
である。

①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
→3年前から使用。あらゆる4色ペンのなかで、(まだラミー2000を買える境涯でないので、いまのところ)NO.1の完成度であると考える。4色ペンは、齋藤孝教授の『3色ボールペンで読む日本語』以来、使うようになった。4色色分けできると、もう筆箱は不要になる。
 このクリップ・オンには、シャープペンもついている。あらゆるシーンで活用できる。ポケットに1本、これがあるだけで、いつでも学べる。これは大きい。筆箱から色ペンを探す時間も節約できる。
 おまけに、このペンはクリップもこだわっている。金属性クリップだから、どこにも挟め、おまけに強い!
 一度使ってみて欲しい。もう、他のペンを持つ必要がなくなる。
 詳細は↓

クリップオンマルチ
https://www.zebra.co.jp/pro/clipon_multi/index.html

②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
→書き味が、超滑らか。一度使うと、病み付きになる。①とどう併用するか、考察中である。
 ちなみに、字の太さ1ミリタイプがお勧め。太いと引っ掛かりがほとんどなく、ジェットストリームらしさが存分に出ている。
 詳細は↓

ジェットストリーム
https://www.mpuni.co.jp/product/category/ball_pen/jetstream/index.html

 長くなってしまった。要は自分にあった文房具を探し出し、使ってみよということだ。
 文房具はいつも使うものだ。自分に合うものを使うほうが、ストレスなく使える。

ヤンキー先生は議員先生になるか

昨日、高田馬場駅前でヤンキー先生こと義家氏が演説していた。

普通の議員と違い、「とにかく動くぞ」との勢い・情熱を感じた。

「ヤンキー、母校に生きる」も「母校北西余市を去るまで」も、自分は読んだ経験がある。なかなか、いいこと言うなー、と感心したのを覚えている。

しかし、教職と政治は違う。仮に議員になったとき、義家氏はどれだけ働けるのだろう。

義家氏は、周りがいうほど、無責任な人間ではないと思う。

だから結果を残すだろう、とは思う。

「私は教育に救われた人間です」
「子ども達が安心して失敗できる社会に」
「教育再生を」
この3つしか連呼していなかったのは気掛かりではある。設計図をもってるのかな?

握手してもらった義家氏の手は、当たり前だが他の人間の手と同じく、温かくもなく、やわらかくもなかった。

夏目漱石の言

「学問は綱渡りや皿廻しとは違ふ。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。」
→学問は、人間形成のためだ!

「何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは10年20年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。」
→自分にもっと適した仕事があるのではないか、と迷うことがある。そのためにあちこちうろうろする。結局、何も掘り当てることなく貴重な人生を費やしてしまう事が多い。だからこそ目の前の課題から逃げず、前進することが必要だ。

電車

電車内では異様に本が読める。逆に自由時間が沢山あっても本はあまり読めない学習も出来ない。

「自由からの逃走」との本がある。自由すぎると逆に不自由をもとめる内容だ。暇過ぎると学問は出来ないのかも知れない。

朝に勝つと気持ちがいい。陰山英夫氏が

早寝・早起き・朝ご飯

を提唱するわけも、単に気持ちいいから、なのかも知れない。早く寝て、早く起き、朝を食べると頭が良くなることには、単に「きちんとした生活習慣のある家庭かどうか」くらいしか意味がない、ときいたことがある。また「朝食をやめて健康になる」との本もある。

陰山氏の活動も、単に気分でやっている、ということはないだろうか?

対話

今日一日、誰とも話さなかった。

何と言うか、ひたすら虚しい。これが1週間続けば気が狂ってしまう。

人のことを人間と書く。もとは「じんかん」とよんだらしい。文字通り、人が社会的存在であることを示す文字であると言えよう。人の間、と書くのだから。

その社会を成立させているのは、人と人との会話・対話である。

今日が虚しい理由は、対話不在にある。

現在、社会のあらゆるところに対話の不在を感じる。対話が不在のとき、空虚さを感じるわけがわかった気がする。

ここにいたのか、寺脇氏。「ゆとり教育」の顔。

「ゆとり教育」と教育改革の行方:1(寺脇教授)https://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200707210220.html

 寺脇氏。文科省でゆとり教育を進めた人物。そして失権した人物。いま、大学教授をしていたとは思わなかった。
 
 彼は「単純に学力が低下したといってはいけない」というような発言をする。私も、確かにPICAの点数が下がったくらいでびくついていては、確固たる人間形成を教育でおこなえないと思う。また、確かに教育はそんなすぐに結果の出るものではないとは思う。
 しかし、寺脇氏の見方も、浅はかである。氏は、「ゆとり教育で、全員に百点を取らせて見せます。そうできなければ先生方の教え方がまずいといえます」などと発言していた。が、やがて前言を撤回している。
 単純に、教える量を減らせば子どもは学ぶようになる、という驕りが、寺脇氏に感じられてならない。子どもはそんなに単純な頭脳構造をしているわけではない。また学びの習慣化は、そんな簡単に発生するわけではない。佐藤学氏のいうように、子ども一人では理解の及ばない教材でも、他者とのふれあいの中で急速に学力が向上することもある。教師の言を聴けば、もっと手っ取り早く、「教える量の削減≠学びの習慣化」であると分かるはずである。
 寺脇氏には、ずるさを感じる。自分は正しい、という姿勢を崩すべきである。教育行政の実験台にされた子どもたち(いま大学2年の私もそうだ)がかわいそうではないか。一国の教育行政を背負っていた人物であるなら、もっと自分の行動に責任を持つべきだ。
 結論。教育行政は、早急に方向性を決めていいわけではない。また、この行政がきちんと子どものためになっているのか、考えていくべきである。失敗から学ぶ、とはきれいごとである。子どもの子ども時代は、二度と帰ってこない。新たな教育政策をするなら、「本当に子どもたちのためになるのか」よく考えてから行っていくべきである。

河合氏、死去と兵庫県の反応

教育で先駆的取り組み 博学、ユーモアたっぷり
https://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000471677.shtml

 河合隼雄さんが、19日に死去。自分は兵庫出身ながら、河合氏が兵庫出身だと知らなかった。自分が中学時代に経験したトライやるウィーク(中学校での体験学習。地域の商店や企業に行き、職場体験を行う学習形態。兵庫県から実施)についても、かかわりがあったとは。

トライやるウィークって知ってますか?https://www.wmstyle.jp/archives/2004/11/29_102343.php

 人間、死んでから初めて「あ、あの人こんなことしてたんだ」と気づかれることがあると実感。

 教育界にも業績のあった、河合氏。しかし、何も知らない人に「ハヤオさんが亡くなった」といえば、宮崎駿を意味してしまう。…不謹慎ながら。

重複・大量、1人で73人分の合格実績。

73人分合格、実は1人が受験・大阪の私立校、優秀な生徒に依頼 https://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070720STXKF052720072007.html

 確かに高校の受験実績の「~人」って、案外一部の生徒の実績だったりしますもんね。これを学校側が組織的に行っているのは、面白いことです。
 開成高校とかでやると、全校生以上合格者が出て、もっと面白いことになるかもしれません。すでに開成だとこうなっているのかもしれませんが。

院のあと

 大学院に行ったあと、どうするか。道は、3つ考えた。

 1、教師になる。
 2、教授になる。
 3、国家1種をとり、文科省に入る。

 1以外の2と3は、かなり難しい。教師になれる数と、教授や文科役人になる定員は限られているからだ。他に家庭裁判所調査官というものもある。僕は一体何をすべきなのか。