2012年 6月 の投稿一覧

ヒルティ名言集③

苦しみのときにあっても、少なくとも心の奥底では、つねにできるだけ自信をもち、またいかなる場合にもつねに、大いに勇敢であり給え。そうすれば、経験に照らしても、いつも神の助け給う日がやってくる。しかし、万一、神の助けがまったく現われず、われわれを圧迫し不安にする悪条件がとり除かれなかったとしても(とりわけ苦しい時にはしばしば、ほとんど怪しいばかりの説得力をもってそう思わせられやすいが)、それでもなおわれわれは「気晴らし」の享楽や厭世観や、怒りや無気力におちいるよりも、自分自身の勇気と善良さをもって戦うほうが立派に凌いでゆくことができるであろう。なぜなら、われわれは結局、絶えまなくーーそしておそらく永遠にーー唯自分自身でもって生きなければならないし、他人ではなく、まさしくわれわれ自身がどのような人間であるかというその在り方が、つまるところ、何よりもわれわれの幸福を決定するからである。

ヒルティ『幸福論』第三部156頁。

 

ヒルティ名言集②

ただ苦しみのみが真の意味においてひとを謙遜にする。

 

ヒルティ『幸福論』第三部148頁。

学校現場における「スティグマ」と「ラベリング」

最近とみに「スティグマ」理論や「ラベリング理論」を思い返すことが多い。

 

それは、日常的にLDやADHD、高機能自閉症などという診断のついた生徒と関わる機会が多いことに由来している。

 

生徒の行動がゆっくりだったり、間違いが多いものだったりした場合、

「やっぱりADHDだからね」と教員は言ってしまう。

教員の「慣習行動」になっているのである。

 

しかし、教員のそういった「決め付け」は事実だろうか?

普通の高校生にとっても、難しい内容ではないのか?

こちらの説明が不足しているだけではないか?

そして自分の側を正当化しているだけではないのか?

 

教員のみる「日常」は、常日頃の「習慣」(ブルデューの言う「ハビトゥス」)的な行動の積み重ねで形成される。

 

特別支援教育的な実践を行う学校ほど、実は自己の「学習障害」観を強化するにとどまってしまっていることが多いのではないか。

こう思うことが最近多くなった。

 

懸命に特別支援のもとづく教育を行おうとすればするほど、逆にその生徒の「スティグマ」を強めたり、「学習障害」というラベルを強化するにとどまってしまう側面がある。

 

そのことに自覚的になっていくことが必要であろう。

第1回BUIE映画祭

本日、BUIE学園前(札幌市豊平区)のリビングをお借りして、

「第1回BUIE映画祭」

を実施しました。

観た映画は

いのちの食べ方

おいしいコーヒーの真実

の2本です。

私達が日常的に食べている食事やコーヒーが

どのように生産されているか。

それを私達は結構知っていないんですね。

牛を電気ショックで殺し、

足をチェーンでつないで吊るし、

内蔵をかきだすシーン(『いのちの食べ方』)。

コーヒー1杯のうち数円分しか生産者にお金が回らず、

なおかつ世界の4社がコーヒー市場を独占しているという事実(『おいしいコーヒーの真実』)。

何度見てもショックです。

知ったからといって何か出来るわけではありませんが、

世界の見方が変わってきます。

そこからどう行動を変えていくかはそのひと次第です。

ドキュメンタリー映画を観るということは、

世界の見方を直接的に変えることになります。

だからこそ、皆で議論しながらドキュメンタリー映画を観る機会を

大切にしたいと思います。

皆で観ると、より映画の理解も深まります。

観て眠ってしまうことも減ります(ドキュメンタリーってけっこう単調で寝てしまいやすいです)。

みなで話しながら観るという映画経験は、

映画館では出来ません。

こういう気軽に映画を見る機会を積極的に行なって行きたいですね。

参加して下さった7名の皆さま、

ありがとうございました。

次回の第2回BUIE映画祭は、参加者の要望により、

『フード・インク』

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』

『闇の子供たち』

…のどれかにする予定です。

お楽しみに!

モエレ沼公園と「参加」

モエレ沼公園に一人でいった。

イサムノグチが最後の仕事として手がけた公園。

登れる山を沼に作ってしまうという発想など、純粋に作品としても優れた公園だった。

いずれも何もないゴミの埋立地の再活用として作られたもの。

「地球そのものが彫刻である」

それを実現したのが、「彫刻」としてのモエレ沼公園である。

モエレ沼公園の模型をつくった昭和63年に死没。84歳。

モエレ沼公園は平成10年にオープン。

作品の構想を「引き継ぐ」人がいる点が素晴らしい。

モエレ沼公園内をうろつくと、「冒険」心が湧いてきた。

こういう感覚は久々である。

山に登りたくなり、

芝生を走り回りたくなり、

作品に触れてみたくなる。

このように、登る場所や潜りこむところ、自分で発見するところが多く存在する。

単なる公園ではなく、来る人の主体的行動を要請している点が興味深い。

出来合いに済まし、ただ見せるだけではなく、

見る側・歩く側の主体性を求める公園。

この主体性とは空間への「参加」participationと言い表すことが出来る。

これは公共事業や教育にも成立することだ。

エンターテインメントEntertainmentの動詞entertainは「楽しませる」。

エンターテインメントやショーは単に見せて「楽しませる」だけである。

重要なのは「参加」particiapationだ。

「楽しませ」られる客体から、

「参加して楽しむ」主体への転換が必要である。

参加による教育には「学びの共同体」はじめ、「状況学習」論からの一連の流れが存在する。

言うのは簡単だが、教育実践の場で「参加」を設計するのはなかなか難しい。

だからこそ、やりがいはある。

欲しい物を明確にするということ。

学校の生徒にも言っているのは、

「自分は何をしたいのか」

「自分は何を欲しいのか」

これを明確にすることの大切さ、です。

 

「幸せになりたい」

「もっと成長したい」

こう言う人は多くいます。

 

でも、この願いには具体性がありません。

何をどうしてほしいのか。

何がほしいのか。

はっきりしないことには、力を貸そうにも貸しようがありません。

 

私がこういうことを書くのには、次のような経験があるからです。

それはiPod Touchを欲しくてたまらない時、

出会う人ごとに「私、iPod Touch欲しいんですよ」と言い回った時の経験です。

 

実際、私は出会う人ごとに言い回った結果、

なんとタダでiPod Touchを手に入れることができました。

 

さて、何人目で私は入手できたでしょうか?

なんと

2人目

です!

 

ほしいものが明確であればあるほど、

入手できる確率が上がったことを実感した機会となったわけです。

 

ほとんどの人は何がほしいかをはっきりさせず、

「なんでもいいからなにか欲しい」

と思っているように感じられます。

 

そうではなく、人になにか聞かれるたびに

「私はこれがほしいです」と瞬間的に言えるようになると、

案外すぐに欲しい物が手に入るはずです。

 

ほとんどの人は自分が何を欲しいのかわかっていません。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

追伸

フリースクールで時々、

「何か本フリースクールに差し入れをしてくださると幸いです」

と書いてあるところがあります。

私がちょっと「いいな」と思う団体は、

「以下のものが必要です。キーボード、PC(Officeが入っているもの)」

などと、具体的に書いている団体です。

アルキメデスのもう一つの「法則」

昔から、露天風呂に入るといいアイデアを思いつく傾向がある。

特に「イベント」の企画を思いつくことが多い。

 

これはアルキメデス以来の人類の普遍的「法則」なのかもしれない、と思っている。

 

ツライ時に温泉に行くほうがいいのは、

おそらく発想がクリアーになるからだろう。

 

露天風呂という「非日常」こそが人々に知恵をもたらす。

 

なんだかんだ、「非日常」性こそが人間にとって必要な要素なのだろうと思う。

【イベント企画】「フリースクールと通信教育と定時制高校を語る夕べ」

よく考えると、私にもお盆休みがあります。

せっかくなので「古巣」の東京に戻って、

知り合いの研究関係・実践関係者に声を掛けまくって、

シンポジウムをやりたいなあ、と思っております。

 

目標は8/17(金)18:00。

「フリースクールと通信教育と定時制高校を語る夕べ」とでも題そうかと考えております。

せっかくの私の夏休み、何かしないともったいないなあ、と感じているわけです。

 

これを読んでいる研究者の方、あるいは実践者の方。

なおかつこの日に東京にいる方。

「参加してもいいよ」というお声をいただけますと大変嬉しいです。

 

しがない一私立高校の教員でも、日本の教育について考えていないわけではありません。

イベントを自分でやることで、ささやかながらでも私自身が学ばせていただきたい、と考えているわけです。

安月給ゆえ、講師料を(それほどは)出せるわけではありませんが、

ご検討くだされば幸いです。

藤本研一による、脱学校論を知るための7冊

私が学生時代からずっと興味関心を抱いていたのは、

「脱学校論」というジャンルの学問です。

 

学校がないほうが、人はよっぽど学べる。

学校がないほうが、人は自由になれる。

 

そんなテーマをもったジャンルです。

 

さっそくリストアップしてみましょう。

 

①イバン・イリイチ『脱学校の社会』

言わずと知れた、ザ・脱学校論の本。
山本哲士先生的には〈翻訳は誤訳が多すぎる〉そうですので、
そんな場合は原著をどうぞ。

②江川達也『東京大学に「ダマ」されるな!』

この本、シビレますね。
著者の江川は元数学教員。

…私も縁あって数学教員をやっているため、シンパシーを感じます。

③山本哲士『学校の幻想 幻想の学校』

『脱学校の社会』をもとに、校内暴力や不登校を読み解く内容。
ブルデューを読みたくなる本です。

④イバン・イリイチ『シャドウ・ワーク』

私の修士論文はこの本の「シャドウ・ワーク」概念を生かしてまとめました。
そんなつながりもある、大好きな本。

私達って、資本主義社会を「支える」シャドウ・ワークをしてるんです。
それが携帯やPCを1年毎に買え替えたりするところに現れています。

⑤奥地圭子『不登校という生き方』

東京シューレフリースクール全国ネットワークに関わっていたので、
奥地先生には非常にお世話になっています。

不登校を「選択」の物語にしたという点で、画期的な本です。

⑥上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』

①が硬くて読めない人にオススメ。

「ああ、私って「学校化」されてるのね」という「黄昏」感あふれる本です。

…文庫版もありますが、個人的には太郎次郎社版の「ゆるキャラ」上野先生のイラストが好きです。

⑦吉本隆明・山本哲士『教育 学校 思想』

とってもシブい本。
「吉本隆明」が巨人であるのは、駆け出し時代の山本哲士とこういう対談を行える点にもあるのだなあ、と思います。

 

なかなか、どれも「アツい」本ばかり。

私の教育論の「原点」ともいうべき本ばかりです。

 

…ただ、実践するようになって、「勝手なことばっかり書いてるなあ」とわかるようになった点も多くあります。

そんな意味で、この7冊は私にとっての「レクイエム」でもあります。

新ブログのお知らせ。

本ブログを拝見下さり、大変にありがとうございます。 実はしばらく前より、新ブログの方に中心的に投稿を行なっております。 Ishida Hajime’s blogは、大学2年の時からはじめております。 大変思い入れの深いサイトです。 かれこれ4年間、更新し続けました。 おかげ様で記事数も1100をはるかに超えております。 ひとえにご覧くださっている皆さまのおかげです。 ですが、今年4月から社会人となったこともあり、 いよいよ「本番」として気持ちを切り替えようと思っております。 そのため、(しばらくは)本ブログではなく、 次のサイトに投稿をしていきます。 日本ノマド・エジュケーション協会 https://nomad-edu.net 今後も、継続して私のブログを読んでくだされば、 作者としてこれほどうれしいことはございません。 これからが「本番」。 変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。