教育の本質的な「ジレンマ」

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教育の本質的な「ジレンマ」

教育の本質的な「ジレンマ」は、理想の教育社会を築くことが生徒の自己学習力を下げてしまうという点にある。

自分たちで工夫して、いろいろやっていく余地のあるとき、学習は進む。適切な「負荷」がかかるためだ。
Webは検索するといろんな知識を得させてくれる。
そのため、もはや知識を知る必要性が低下する。
「学習」における意味が軽減するわけである。
教育系の起業。これは使命・目的が達成される(終わる)ならば解散していい仕事である。
時代や社会が必要としなくなれば、いつでも組織は解散すべきである。
しかし教育関係機関は惰性で続く。
もはや不必要とされる教育の仕方を延々と続ける「自己再帰的」な「システム」となってしまう。
(意味のない教育をするという意味では、いまの学校は大体そうだ)
教育系の起業の「理想」は、「ゆりかごから墓場まで」というスタンスである。
児童教育から老人向けのリハビリ教育までを一手に引き受けることだ。
「ベネッセ」的なもの、と言えるだろう。
ある会社の「トータル養育セット」もこれである。
しかし、こうやって企業がすべての教育サービスを提供しようとすると、「自己学習力」や自分たちでの「工夫する力」が下がってしまう。
理想の教育は、「理想の教育」が達成された瞬間、「自己学習力」が下がるという弊害を持っている。
これを防ぐには、他者に応じてやり方を変え、けっして完成形のない「ホスピタリティ教育」をすることしか存在しないであろう。
教育における他者も「歓待」すべき対象である。
相手への「歓待」をその場その場でやり続けていく教育こそ、「教育」のジレンマを減らす方途なのかも知れない。

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