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デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。 |
17世紀の普遍妥当的教授学「われわれの知性が完成していく自然の歩みは教授を通してであり、そしてこの教授は経験から抽象的な真理へ、生き生きとした言語からその規則へ、子どもの最も身近な環境から遠方にある物の定位へ、と進行していくのである」(23)
「教育はそれ自体目的なのではなく、手段として心的生の発展に資するものだからである」(30)
「われわれの本質の、全然言い表されない不調和はすべて、この根源的な多様性に拠るのである」(34)
「教育は、成人した者が時代を担う者の心的生を形成する計画的な活動を意味する。他の目的に向けられた活動であっても、副次的に結果として教育にいたるときには、より広い視点から、教育という表現が用いられる」(39)
「教育の使命は、意図的体系的手段によって、個人が自主的に自らの決定したことを遂行できる状態にまで、個人を発達させることである。それゆえ、人間の運命に関する一切の経験に応じて、個人がもっている情緒や意志や観念の世界を発達させることが、すべての教育の究極的目標なのである」(62)
「個人が自己の全心情力をもってこれらの世界に完全に入り込み、つまり適切なる場において、自己の能力に応じて、自己の満足と全体の利益のために、この文化および文化の使命に関与すること、これが教育の最高の使命である」(63)
「個人は社会のなかにあってのみ性格の統一へと形成される|し、個人においてこうした陶冶が可能であるがゆえにこそ、人類もまたその性格の統一を得ることができるのである」(151-152)
「教育学は目標を立てることによってのみ有りうるのである。目標は倫理学がこれを説くが、しかし倫理学は普遍妥当的ではない」(174)
「すべての国民および時代に対して教育問題を規定することを決定することを決定しうるような普遍妥当的な教育学は、ひとつも存在しないのである」(183)
「教育史の基礎的な研究のいずれもが教えるところだが、真の改革は教室での普段の骨の折れる教育活動を介してのみ成就されるという命題は、人々の騒々しくさわぎたてるなかでは聞きとられない」(193)
●解説
「スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットはデュルタイの主要な理念を明白に要約した。彼はいう、「デュルタイによれば、人間は何一つ本質というものをもたない。人間がもっているものは歴史だけである」と」(244)
「教育学は「教育という現象そのものを提示し、これをできるだけ明らかに心理学的に分析する」学問であり、とりわけ「教師と生徒の関係の叙述」を事とする学問である。そしてまさにこのことがデュルタイの教育学体系の中心課題であった」(254)