『脱学校の社会』

岡庭昇『戦後青春』三五館、2008年

 文芸評論家・岡庭昇の労作。今日の授業中に読了。オビの「難解ではあるけれど、じつに面白い本!」に偽りはない。
 言及すべきポイントも多い本だが、ここではブログの内容も考慮した上で、イリッチに関する所のみを扱うことにしよう。

われわれはすでに客観的な社会の構造批判としては、ちょうどスチューデント・パワーによって教育が根底から懐疑にさらされた七〇年代の思想としての、イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』(一九七一年)を持っている。それは優れた個別教育論であるが、この時代の論考らしく教育を論じることが、人と人との関係の本質を衝くという広がりと本質性を持っている。(209頁)

→イリッチを「70年代思想」として見ることも大切だ。

いま日本のもっとも駄目な側面を反省するなら、その一つはさきに検討した「学校化社会」の徹底だろう。それはいまや、日本国民全体のルーティンを形成している。物事に「等級」を付ければ事足れりというような感性は近くは絶対主義的な江戸社会の特徴でもある。だがそれは現在ますます認識の前提になり、政治や行政のすべてである。それどころか「等級」こそが事物の本質であると看做されるような社会にまで、逆行しつつあるのではないか。勲三等といった軍人風の「栄誉」を与えられても、馬鹿にするなと怒る芸術家の例を近ごろは絶えて聞かない。(217頁)

イリッチは教育という美名で民衆が刷り込まれる、奴隷制というカラクリを問うた。教育とは抽象的な原理ではなく、どのように、誰のために、何を教えるかにおいて、民衆にとって啓発と隷属という正反対の位相になることを説いた。価値判断を持たない限り、教育こそが帝国主義を再生産する道に他ならないことを。(225頁)

最後に、印象深かった所をもう一カ所のみ引用する。

自分が変わることが肝心だと心得る行為は、同時に世間を変える使命にすでに取り組んでいるのだ。(116頁)

価値の制度化について。

次回、私がゼミの発表をする。前期2回目。まさかの無茶振り。ネタを捜すため自分のブログを読み直す。たいてい、使えるネタが落ちているものだ。読んでいて「ああ、この文章、自分の感性にあうなあ〜」と思ってしまう(当たり前)。

ざーっと読んでみた結果、《イリッチ『脱学校の社会』に見る、「価値の制度化」の持つ意味合いとは》というテーマが頭に浮かんできた。小中さんとの勉強会が役に立つ。

追記
●何気なく〈価値の制度化〉とgoogleで検索すると、本ブログがトップでヒットした。驚きである。自分がよくわからないから検索しているのに、自分のサイトが出てくるなんて…。困っちゃいますね。
 ただ、日本語の分かる人間のうち、何人がこの言葉を検索するのだろうか。心もとなくなる。

『脱学校の社会』を読む⑤ 第四章103〜123

『脱学校の社会』第4章 制度スペクトル

キーワード:操作的制度、「相互親和的」制度(convivial institution)、偽りの公益事業

●操作的制度と「相互親和的」制度(convivial institution)とは?

操作的制度:「現代をまさに特徴づけるものであって、ほとんど現代を定義してしまう」(104頁)「圧倒的に有力なタイプ」(同)
→具体例:「法律を執行する制度(…)制度スペクトルの右のほうに移ってきた」(105頁)、「現代の戦争」(106頁)
「顧客の操作を専門とする社会制度」(106):「軍隊と同じように、それらはその作戦範囲が広がるにつれて、その意図とは反対に影響を拡大する傾向がある」(同)
→顧客に対し、意図的にサービスを買わせる仕組みである。
「高度に複雑で経費のかかる生産過程となる傾向がある。そしてその過程の中では、その制度の努力と支出の大部分は消費者に、その制度が彼らに提供する製品または世話なしには彼らは生きていけないと信じ込ませることに向けられる」(108〜109)
「人々がそれを利用すると、その利用に関して社会的または心理的に「中毒」に陥らせる性質をもつ。社会的中毒というのは、換言すれば規模拡大(エスカレーション)であり、少量の使用が目的とした結果を生じない場合、その処置量の増量を処方する傾向にほかならない。心理的中毒ということは、換言すれば習慣化することであり、それは消費者が生産過程や生産物をもっともっと必要とするようにさせられたことの結果なのである」(109)
「公衆の趣味の操作」(111)「操作する(プロデュース)」(113)

「相互親和的」制度:「比較的控え目」(105頁)、「前のタイプよりも人目をひくことのないもの」(同)、「私はこれらをより望ましい将来のためのモデルとする」(同)、「制度スペクトルの一番左におくことにした」(同)
「利用者が自発的に使用することが特徴となる制度、すなわち『相互親和的』制度」(107)
「電話交換所、地下鉄網、郵便事業、公営市場や取引所は、顧客にそれらを使用するように勧誘するための売り込みを全然必要としない。下水道や上水道施設、公園および歩道は、それを利用することが自分の利益になるのだと制度的に説得される必要なしに人々が使用する制度である」(同)
「使用されるための制度を運営する規則は、その制度が誰にでも利用しやすくなっていることの裏をかくような濫用をさけることを主たる目的としている」(108)
「現在、われわれにはコンピュータによって電話が濫用されることを禁止する法律や、広告業者による郵便の濫用と工業廃水による下水道施設の汚染を防止する法律が必要である」(同)
「相互親和的制度の規則は、その制度の利用をある程度制限するものである」(同)
「顧客のイニシアティヴで行われるコミュニケーションや努力を便利にするネットワークとなる傾向がある」(109)
「左側の自己活動的制度は、同時に自己限定的でもある。これらのネットワークは、単に消費の行為を満足と同一視する生産過程とは異なり、それを反復して利用すること以上の目的に役立つのである」(109)

→各種の制度を考える際、この二つの制度をそれぞれの右端・左端におくと、対象の制度がどのような特徴を持つのかつかみやすくなる(本文より)。
→なお、スペクトルについてwikipediaでは次のように説明している。
【 その他のスペクトル
政治学では、イデオロギー分布に基づいて諸政治勢力(政党が中心だが、議会外野党や反体制組織まで範囲を拡大する場合もある)を配置した模式図、ないし配列そのものを政治的スペクトル(political spectrum)として、分析ツールの一つとして用いている。一般には、左に左翼勢力を持ってくる。対象は、一般的な政党や各国の具体的な政党など、自由に設定でき、特定の政党内部での派閥の配置を表現することも可能である】
→「一般に左から右へ移動するこのようなスペクトルは、今までに人々やそのイデオロギーの特徴を示すためには用いられてきたが、社会全体やその様式の特徴を説明するために用いられることはなかった」(105頁)
→「制度スペクトルの相互親和的な端から操作的な端に移動するにつれて、そこでの規則は、しだいに、人々の意に反した消費または意思に反した参加を要求するものとなってくる」(108)
→「十代の若者を除けば、受話器に向かって話すことの喜びのために電話を使用することはないであろう。もしも他人に連絡をとるのに電話が最善の方法でなければ、人々は手紙を書くなり、出向くなりするであろう。これに対して右側にある制度は、学校の場合にはっきりするように、強迫観念的に繰り返し用いることをさせるとともに、同じ目的を達成するためのほかの方法を阻害するのである」(109)

「スペクトルの真中」(110):「繊維やたいていの破損しやすい消費材の生産者」(同)

偽りの公共事業

●高速道路は「右側の制度に直接通じるものがある」(112)。「われわれは高速道路の性質と真の公益事業の性質とを明確に区別しなければならない」(同)
→「高速道路は私的な分野でありながら、そのコストの一部分がひそかに公共部門から支出されているものなのである」(同)
「高速道路網は主として自家用車のアクセサリーとして役立つのである」(113)

●「貧しい国に移植された「近代的」な科学技術は、三つの大きなカテゴリーに分けられる。それらは、製品、製品をつくる工場、およびサービスを提供する制度である。サービスを提供する制度ーその制度の中の主要なものは学校であるーによって人々は近代的な生産者と消費者に変えられてしまう」(115)
「すべての「偽りの公益事業」の中で、学校は最も陰険である」「学校はスペクトルの右端に群がる一群の近代的制度全体を創り出すのである」(116)

偽りの公益事業としての学校

●「偽りの公益事業」高速道路を基にし、さらにタチのわるい「偽りの公益事業」学校を批判する。
●「高速道路と同じように、学校は初め見たときにはすべての人に対して平等に開放されているような印象を与える。実際は、学校はたえず信任状を更新する者に対してのみ開放されているのである。学校は近代的な科学技術を使用する社会において、必要な能力を身につけるために不可欠なものと考えられている」(116)
●「学校もまた同様に、学習はカリキュラムを教えられることの結果だとする見せかけの仮定に基づいている」(同)
「学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するのである。他人によって成長させてもらおうとすることは、製造された商品を求めることよりももっとよけいに自発的活動の意欲を放棄させる」(117)
「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである」(同)
→ある意味、イリイチの主張はスローライフ運動に近い。
「学校は、完全な逆新税のシステムであり、そこでは特権を与えられた卒業生が、税金を納める全公衆の背に乗っている」(同)
高速道路との違いについて。「誰も自動車を運転することを法律で強制されないが、学校に通うことはすべての人が法律で義務づけられているのである」(同)
→本来の公益事業は相互親和的制度であるべきだ、というのがイリイチの主張である。イリイチは「偽りの公益事業」として高速道路を批判する。高速道路を作るのには国民の税金が使われている。けれどここを利用できるのは車を持っていて、ある程度お金のある人だけである。車を持っていない人は、自分のお金で作られた道路であるにもかかわらず利用できないのである(友人は「スーパーで新鮮な野菜や魚が食べられるのは高速道路を使いトラックを走らせているからなのだから、恩恵を受けていると言えるのではないか」といっていた)。
 高速道路同様、学校も人々の税金で作られている。けれど学校に入って勉強するのにはお金がかかる。ただでさえ税金で給料がひかれるだけでなく、自分の金で作られた学校でありながら、貧しいと行くことができない。

●「人々は学校による教育だけを教育と誤解し、医療サービスを健康と、予定表を忠実に実行することをもてなしと、およびスピードのあることを効果的な移動と混同するようになる」(121)
●「制度によって与えられるサービスを増やすことではなく、むしろ人々に活動すること、参加すること、および自分の力でやることを絶えず教育する制度的枠組みなのである」(122)
「われわれはサービスを提供する制度ーなかでも教育を提供する制度ーを若返らせることから始めなければならない」(同)

まとめ
●「操作的制度」とは人々を受け身にさせる制度のことである。対して「相互親和的制度」とは人々の自発性を重視した制度である。別に不必要なら使わなくてもいい。けれど、万人に開かれているという制度である。

雑感
●イリイチは同じことを何度も形を変えて説明する。学校によって本来の学びが無くなってしまうということを、「価値の制度化」や「制度スペクトル」などの概念を用いて説明し直しているだけなのだ。改めて『脱学校の社会』を読み直して気づいた。
●イリイチのいうように(義務制の)学校を廃止するとどうなるだろうか? 一気になくすと、様々な混乱が起こることは確かだ。教員の生活は? 塾産業は? 教科書会社はどうする? 子どもはどうやって学ぶのか?えとせとらetc。脱学校に対する批判はこの「急激になくした」ときに発せられるものが多い気がする。けれど、漸進的に学校をなくしていくならどうであろうか。学校のダウンサイジングから始めていき、塾産業や民間の学び舎が育っていくのを待つ。人々の教育への意識や共同体意識の熟成を待つ。徐々に学校を減らすならばそれほど混乱もなく移行できるであろう。イリイチの主張をすこしアレンジして、現在のフリースクールのように「行きたい人は学校へいってもいいし、フリースクールに来てもいい」スタンスにしておくとなお良いだろう。大事なのは脱学校を行うことがいくら正しかったとしても、移行期間中に子どもにデメリットを生じさせないよう考慮していくことである。

自由が苦手な/悲しい人間

いままでずっとイリイチの脱学校論について考えてきた。そのイリイチは本来的な学びの復権を訴えている。

 けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものである。まったくやる気のない生徒でも、何かしらかを学ばせ、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得できる場所である。また、黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。
イリイチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。
けれども。私は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。イリイチなどの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、私は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。
カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる、と。学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリイチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば私など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
 私は自分で自分のことを決めるのがしんどくて仕方ない。進学するかどうか、就職先をどこにするか…。いずれも、中世のように「始めから決まっている」方が悩まなくていいから楽である。

 ラーメンズのネタに「プーチンとマーチン」というものがある。You tubeにもアップされている。これは小林と片桐が腕人形をもって掛け合い漫才や歌を演じるコントである。「♫命令されたい/決められたい/自由が苦手な/切ない人間〜」。軽快に2人が歌う。私はこの歌詞を全面的に肯定する。

文献カード 脱学校論、あるいは学校化社会

『教育思想辞典』の「学校化」(87頁)の参考文献(森重雄)より。

●イリイチ『脱学校の社会』所有。
●イリイチ『脱学校化の可能性』
●イリイチ/フレイレ『対話』(野草社、1980)
●イリイチ『シャドウ・ワーク』所有。
●イリイチ『オルターナティヴズ』(新評論、1985)
●ホルト『なんで学校へやるの』(一光社、1984)
●ライマー『学校は死んでいる』
●森重雄「『学校は死んでいる』ライマー」/金子茂ほか編『教育名著の愉しみ』(時事通信社、1991)
●森重雄「近代・人間・教育」/田中智志編『〈教育〉の解読』(世織書房、1999)
●山本哲士『教育の分水嶺』(せんだん社・三交社、1984)

遠藤克弥監修『新教育事典』(勉誠出版、2002)の「学校化する社会」(190頁)より。
●イリイチ『脱学校の社会』
●門眞一郎ほか『不登校を解く』ミネルヴァ書房、1998年
●桜井哲夫『「近代」の意味』日本放送出版協会、1984年
●山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、ちくま書房、1996年
●刈谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年

追記
●私のような一人暮らしの学生にとって、ゴールデンウィークは「時間との闘い」。つまり、いかにして有り余る時間と戦うか、ということである。
 上野千鶴子のいわく、「学問は愉しみのための消費材」(『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002年、109頁)である、と。私が教育学、なかんずく脱学校やフリースクールについて研究(ブログを書いたり、本を読んだり)するとき、ものすごく大量の時間を費やすことができる。暇もつぶれるし、知らぬ間に長時間勉強することができる。こんなにいいことはない。
 学生の皆さん、暇なときは好きな学問をしましょうよ。

『脱学校の社会』を読む④ 58〜70

第二章(58〜70頁)

〈教育において学校に代わるものを捜すためには、われわれが「学校」という場合、それはどういう意味であるかをわれわれの間で一致させることから始めなければならない〉(58頁)
→「やり方」の提示。
→「公立学校の現象学」によって、論を進めることを示す。

1、年齢

●「学校は人々を年齢に応じて、集団に分類する」(59頁)。その分類の〈前提とは、子供は学校に所属する、子供は学校で学習する、子供は学校でのみ教えられることができるというものである。私は、この未検討の前提をまじめに疑ってみる必要があると思う〉(59頁)
●我々は子どもが、「自分の分を知り、子供らしく行動することを期待する」(60頁)
●けれどそもそもは「子供時代」の概念は近代になってから登場したものであり、普遍性はない(アリエスの著作より)。
●「学校制度は、それがつくり出す子供時代と同じように、近代に出現した現象なのである」(61頁)
●子供時代:「重荷」「やむをえずその時代を通過」「子供の役割を果たすことが全然楽しくない」(62頁)ものである。

2、教師と生徒

●「学校は、学習は教授の結果であるという公理に基づいて設けられた制度である」(64頁)
●「われわれが知っていることの大部分は、われわれが学校の外で学習したものである。生徒は、教師がいなくても、否、しばしば教師がいるときでさえも、大部分の学習を独力で行うのである」(同)
●「誰もが、学校の外で、いかに生きるべきかを学習する。われわれは、教師の介入なしに、話すこと、考えること、愛すること、感じること、遊ぶこと、呪うこと、政治にかかわること、および働くことを学習するのである」(同)
●「大人は、自分が受けた学校教育をロマン化して回想する傾向がある」(66頁)
●「生徒が教師から何を学習しようとも、学校は教師のために仕事をつくり出してくれるのである」(同)

3、フルタイムの通学

●〈学校はまさにその性質から、参加者の時間とエネルギーに対して、全面的な要求をする傾向がある。こうして次に、教師は保護者、道徳家、および治療者となるのである〉(67頁)
「保護者としての教師」:「いくつかの基礎的な日常的仕事の訓練をさせる」(67頁)
「道徳家としての教師」:「学校のなかだけでなく、社会全体の中で、何が正しいか、何が誤っているかについて、生徒を教化する」(同)
「治療者としての教師」:「生徒の個人的な生活にまで立ち入って穿鑿(せんさく)する権威を与えられていると感じるのである」(68頁)
→この「治療者」は原典ではセラピストと書かれている。therapyとは「薬や外科手術を用いない治療」(『ジーニアス英和辞典』)を意味する。「治療者」といっても、医者と言うよりはカウンセラーなどのイメージ。
※穿鑿:ほじくりかえすこと。原典ではdelve(ほりさげること)。
●「三つの権限をあわせもつ教師は、法律よりもはるかによけい子供を自由でなくしてしまうのである」

●「学校の教師と教会の牧師は、逃げ出す心配のない聴衆に説教するだけでなく、彼らに相談をしにきた人々の私事にまで立ち入って穿鑿する資格があると考える唯一の専門職業者なのである」(68頁)

●「子供をフルタイムの生徒と定義することにより、教師は学校以外の社会的に隔離された他の制度の監督者が持っている権力よりもはるかに憲法上および慣例上の制限を受けない権力を、生徒に対して行使することを許される」(69頁)
学校へ行くことは、人権の保護のない空間に入れられることである。
→「フルタイム」がポイントか?
●潜在的カリキュラム:「学校教育の儀礼的または儀礼的なものそれ自体」。差別と偏見をもたらす。

『脱学校の社会』を読む③ 第一章後半(P31~)

この部分は小中さんの担当なのだが、自分で印象的だったところをまとめてみようと思う。

●学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
 ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである(…)(pp32~33)
●脱学校化された社会(deschooled society)は、偶発的な教育あるいは被形式的な教育への新しいアプローチでもある。(p49)

→子どもたちは偶然によって学ぶ。イリイチはそれを元にした上で脱学校論を述べている。

●学校は現在この種の反復練習による教授方法(drill teaching)をほとんど用いず、また評判の悪いものとしてしまっている。しかし普通の適性と学習意欲をもっている学生なら、もしもこの伝統的な方法で教えられれば、二、三ヶ月で修得できる技能がたくさんあるのである。(pp33~34)
●現在、学校は教育のための資金の大部分を独占している。学校教育よりも費用のかからない反復練習による教授(drill teaching)は、今では裕福なために学校に通わないですませることのできる者や、軍隊や大企業に勤める者で現職教育を受けに出された者たちだけの特権となっている。(p35)
●ほとんどの技能は、反復的練習(drill)によって修得し向上させることができる。なぜならば技能というのは、定義をし、かつ予測することのできる行動を修得することを意味するからである。(p41)

→イリイチは学校の効率性が低いということを、この部分を元に伝える。たしかに分かりやすい説明ではあるが、いささか論が甘いのではないだろうか。

●免許状を持っている人でなければだめだというように免許状の価値が信頼されているために、技能を教える人が不足するのである。(…)工芸や職業科の教師の大部分は、最も優れた職人や熟練工に比べれば彼らほど熟練していないし、彼らほど発明の才もなく、また彼らほど話好きでもない。(p37)

→教師というシステムの効率の悪さ。

●学校は技能を教授すること(skill instruction)において効率が悪いが、その特別な理由は、学校がすべての教科をカリキュラムとして結びつけることにある。ほとんどの学校で、一つの技能を向上させようとする計画は、いつも関連のない他の課業と連鎖的に結びつけられている。たとえば数学をもっと先に進むためには歴史の勉強をしてからとか、校庭を使用する権利は出席の回数によって左右されるとかいうように。

→東京シューレなどのフリースクールが、学校を批判しているポイントである。
→このようなシステムだからこそ、学校ではイリイチが進める「反復練習」が行えないのだ。教育の効率が低下するゆえんだ。
 こう「効率」というと、教育関係者が「教育に効率を持ち込むのは間違っている」と批判することがあるだろう。この批判は子どもの成長と学校での学習を混同した意見である。私は人生の生き方/子どもの育ち方を「効率性」で判断することには無論反対である。子ども独自のリズムによって、子どもは「勝手に」育っていくからだ。けれど、勉強や学習に関してはなるべく早く・愉しく・簡単に進められる方がよい。勉強や学習が子どもの人生において本質的な部分ではないので、苦労して学ぶ必要性が存在しないからだ。忍耐力を付けるのは学習の場でなくとも構わない。苦労や忍耐力を学習の中で修得させようとすることは、勉強嫌いな子どもを生み出すことにつながってしまう。

●私は修得した技能の開放的かつ探求的使用を奨励するような環境の整備を「自由教育」(liberal education)と呼ぶことにする。学校はこの自由教育に関してはさらに効率が悪いのである。その主な理由は学校が義務制であり、学校教育のための学校教育となることである。(…)ちょうど技能を教授することがカリキュラムの束縛から解放されなければならないように、自由教育は学校に通う義務から解放されなければならない。

→イリイチは「自由教育」を目指している。

●最も根本的に学校にとって代わるものは、一人一人に、現在自分が関心をもっている事柄について、同じ関心からそれについての学習意欲をもっている他の人々と共同で考えるための機会を、平等に与えるようなサービス網といったものであろう。(p44)

→ブログがイリイチのいう「ラーニングウェッブ」になりうるのかを、前に私はブログに書いた。参照いただきたい。リンクはこちら

●すべての人に教育を与えるというのは、すべての人による教育をも意味するということである。人々を教育を専門とする制度に強制的に収容することではなく、すべての人を教育的に活動させることのみが国民文化の形成に通じることができる。学習能力だけでなく他人に教える能力をも行使すると言う各人に平等な権利は、現在では免状をもった教師に専有されている。(p49)
→江口達也の処女作『BE FREE!』。ラストに描かれたのは〈教えたい者が教え、学びたい者が学ぶ学校〉である。文化祭とカルチャーセンターが一体化したような学校。この時、卒業という資格に意味は無くなる。
 イリイチの文章を読んで、ふと思いだした。

●今日学校の中で消滅させられつつあるのは、教育そのものなのである。(p53)
→私が『教育名言辞典』(東京書籍)を新たに編纂できる立場にあるならば、絶対に入れたい名言である。ちなみに『教育名言辞典』にはイリイチの言葉は2つ収録されている。「学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果であるとすることである」(p45)と「言語は、そのすべてが教えられたものであるなら、まったく非人間的なものとなるだろう」(p455)。前者は本稿上部に示したものと同じだ。無論、『脱学校の社会』からの引用。後者は『シャドウ・ワーク』からの引用である。

●教育の脱学校化が成功するか否かは、学校の中で育てられた人々がそのためのリーダーシップを発揮するかどうかにかかっている。彼らが学校化されたカリキュラムでの教育を受けてきたということは、その仕事を逃れるための口実とはなりえない。われわれの一人一人は、たとえこの責任を引き受けるのが精一杯で、他人に対しての警告として役立つことしかできないとしても、自分を現在の自分にしたことに対しては依然として責任があるのである。(p53)
→私がフリースクールに関わることを正当化して頂いたようである。
→自身が「学校化された」と自覚している者が脱学校化に関わることが重要なのだ。

コメント
●O先生であればイリイチの本書からの抜粋をパワーポイントで映しつつ、コメントを入れながら授業をされることだろう。このやり方は、学生に『脱学校の社会』のダイジェストと現代的意味を総覧的に説明する際に適している。私も学者になったら、このようなやり方で授業をしていきたい。

シューレとは何ぞや?

 私は何の気なしに東京シューレの話を何度もしてきた。本ブログにおいて、典型的フリースクールとして「東京シューレ」を用いる。子どもの自由な学びをまったく保証していないのに「フリースクール」の語を使うところがたくさんあるので、区別のためにつかうのだ。

 ところで、東京シューレの「シューレ」とはどういう意味であるのか? 『大辞泉』によると、

  1. シューレ【(ドイツ)Schule】別ウィンドウで表示
    学校。 学派。流派。

とのこと。なるほど、ドイツ語では「学校」との意になる。そうか、学校的なところだから「シューレ」の語を使うのか。

 …と思ったら、違う可能性が見えてきた。東京シューレのwebサイトには次の説明がある(引用元はこちら)。

「シューレ」って、どんな意味ですか?

 ギリシャ語で「精神を自由に使う」という意味の言葉です。
 ドイツ語の「シューレ(学校)」から取った、というわけではありません。(ドイツ語のシューレや英語のスクールの語源になった言葉、といわれています)

 これを見る限り「シューレ」とは「精神を自由に使う」との意味である。だから《東京シューレ》の名には〈東京にある、精神を自由に使うところ〉との意義が込められていたようだ。確かにフリースクールでは子どもの自由が重視され、「精神を自由に使」っているようだ。うーん、ためになる定義だ。

 …でも、よーく見るとこの解説はトートロジーじゃないか? 「精神を自由に使うところ」とのギリシャ語名が「school」(英)や「shule」(独)の語源になったのなら、「シューレ」を使う限り結局は「学校」を意味するのと代わらなくなるのではないか。
 それでは、何故「トートロジーだ」との批判を受けることを重々承知の上で、東京シューレの人たちは「シューレ」の語を使おうと考えたのだろうか? 私なりの結論が次からの文章にまとめてある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 先ほどの解説内で「学校」と軽く使っていたが、「学校」とは元々「精神を自由に使うところ」との意味であった。これは、脱学校論を学ぶものとして、放っておくことができない。
 何故なら、学校が自由な学びを疎外しているという状況をこそ、イリイチやライマーは批判し続けたからだ。学校では「学ぶ」ということが「学校へ通うこと」の意味にすり替えられている。価値の制度化が起きている。
 整理するとこういうことになる。もともと、「学校」は「精神を自由に使う」ところであった。この輝かしい時代は近代学校制度とともに崩れ去り、自由な学 びや自由な発想が疎外される状況に陥った。だからこそ、脱学校化を成し遂げることで本来の「学校」が持っていた「精神を自由に使う」要素の復権を成し遂げるのだ、と。
 内田樹(本当に登場回数が多いなあ)の『街場の教育論』にはこうある。

教師が言うべきことは一つだけです。それは、孔子の場合と同じく、遠い目をして、「かつて学校というところが素晴らしく機能していた時代があった」という ことです。教師が深く敬され、子どもたちが目を輝かせて知的な興奮に身を震わせていた時代がかつてはあった、と。それが今は失われた。だから、それを再構築しなければならない。学校という制度が仮に今きちんと機能していなくても、そのことは教師の権威を少しも損なうものではありません。というより、今まさ に機能していないという当の事実が、「かつては学校が学ぶことの喜びに満ちていた『黄金時代』が存在したのだ」という言葉をいっそう切実なものとして響かせるのです。
 はっきり言いますけれど、実は、学校というのはどの時代であれ一度として正しく機能したことなんかないのです。(…)「嘘」とは言わぬまでも、半分がた「誇張」です。そんなわけないじゃありませんか。(…)
 必要なのは「あるべき社会」についての「正しい情報」ではありません(あるべき社会についてのほんとうに「正しい情報」というのは、「そんなものはかつて存在してことがないし、これからも存在しない」です)。そうではなくて、「あるべき社会」を構築「する気」に私たちがなるかどうか、です。「正しい情報」を提供することが、人間が世の中を少しでも住みよくする努力に「水を差す」ことになるならば、「正しい情報」なんか豚に食わせろ。少なくとも、私はそう考えます。(pp148~151)

 内田は、〈学校がうまく機能していた『黄金時代』が過去に存在した〉と説明することで、人々が〈過去の栄光よ、再び!〉と努力することを目指し、この文を書いた。
 フリースクール関係者も「かつて精神が自由に扱われた学びの場《シューレ》があった。だからそれを再構築しなければならない」との思いから、「シューレ」の名を使っているのじゃないか。これが私の結論である。
 
 …まあ、全て仮説ですよ。本当のところは奥地圭子さん(東京シューレ開設者)に聞くしかないですね。
 

小中さんのブログより。

小中さんの「小春日ダイアリー」の内容がすばらしかったので、今回はそれを貼らせていただいて、自分の考察を述べようと思う。アドレスはこちら

ライマーとイリッチの学校の定義

こんばんは、本日は以前ふれたエヴェレット・ライマーとイリッチ、二者の脱学校論者の学校観を彼らの著書からみていこうと思います。

ライマー
「段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関[1]
イリッチ
「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程[2]

二人の学校の定義から共通項を書き出すと以下のようになる。

  • フルタイムの出席、義務制
  • 特定の年齢群の生徒
  • 教師
  • カリキュラムの学習
  • こ の要素からわかることは、子どもは子ども時代を学校にささげなければならず、その多くの時間を同学年の者だけと共有し、国家のような権威のあるシステムが 定めたカリキュラムを教師を仲介し、学習するということだ。そしてその場は「学校」であるということだ。さすがにライマーとイリッチは二人で研究してきた こともあって、このような定義に差異はないだろう。
    またこのことからも導き出せるが、彼らの研究の主な対象はこの定義にもとづく「学校」であり、この定義に基づかないものは、議論から外れることになる。

    公教育の成立でポイントとなったのは①機会均等②義務制③宗教的中立であったが、脱学校論で彼らが指摘したのは、②義務制であった、というのが上記より見出せる。

    ま た、話は変わるが、近代から現代の流れ(第三の波の到来)をみるなかで、その新たな社会の創造がなされるなかで、近代(モダン)の制度象徴としての「学 校」が現代(ポストモダン)では適当な仕組みであるのか。そのことへの疑問から生まれた問題提起から新たな学校に変わる仕組みの提案、つまり、これが脱学 校論なのではないだろうか。

    何を話してるのかわからなくなった。眠い。

    また編集します。ではまた。。

    [1] エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985年、60頁。

    [2] イヴァン・イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』(現代社会科学叢書)、東京創元社、1977年、59頁。

    投稿者 小中春人 時刻: 23:59
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    1 コメント:

    いしだ・はじめ さんのコメント…

    おつかれさまです。

    「義務制」がポイントだったんですね。

    フリースクール(といってもいっぱいあるので、東京シューレ)は、

    ①来ても来なくてもいいし、いつ帰ってもいい(「フルタイムの出席」は当てはまらない)
    ②無理していくところでなく「もしあわないならホームエジュケーションなんてのもありますよ」という(「義務制」ではない)
    ③下は6歳、上は20歳まで異なる年齢層の人たちがいる(「特定の年齢群の生徒」はいない)
    ④何かを教えようとしない「大人」と過ごす場所である(教員免許を持つ者はいるが、教えようとする「教師」はいない)
    ⑤学ぶこと、過ごす内容が自由(「カリキュラムの学習」はない)

    こうしてみると、フリースクールはライマーやイリッチの言う「学校」定義から全て外れていることが分かる(「サポート校」や塾形式のフリースクールは無論外しますよ)。

    いやー、小中さんがまとめてくれたお陰でフリースクールの定義が分かりやすくなりました。ありがとう。

    『脱学校の社会』を読む②(はじめ〜30頁まで)、あるいは「価値の制度化」論。

    昨日に引き続き、ディスプレイに向かって独り酒。〈クリアアサヒ〉がセブンイレブンに無かったので、〈のどごし生〉を飲んでいる。まあ旨い。常にビールの飲める境涯になりたいものだ。

    閑話休題。

    イリイチの『脱学校の社会』を見ていく。なお、議論の定本は東京創元社発行、東洋・小沢周三訳のものである。

    1 なぜ学校を廃止しなければならないのか

    ●「多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである」(13頁)
       ↓
    「『学校化』されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる」(13頁)
    →いわゆる「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
     本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった!」と大歓喜している。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。価値Aを普通自動車運転免許取得、価値Bが自動車教習学校卒業であるとき、少年は不幸である(ときどきいますけどね)。
     これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。そして学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値B)。けれど現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえば自宅での学習を行うとか、フリースクールにいくとかする選択肢も存在するべきだ。けれど制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが重視されるようになる。この価値の転倒をイリイチは「価値の制度化」と呼んだのであろう。

    ●「私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである」(14頁)
    →先の話の通り、価値の制度化についての考察である。
    →イリッチは価値の制度化について言いたいのであって、学校は一つの例にすぎない。
       ↓
    価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしている。
       ↓
    「必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである」(14頁)
       ↓
    「私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ」(15頁)
    →つまり、イリイチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではない(あくまで2次的な目標であり、イリッチ自身が「書きやすいじゃん!」と感じた好例だったからだろう)。
    →先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」である。
    →例としてイリイチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」(15頁)も価値の制度化を排することで利益を得られると指摘する。価値の制度化を排す手法は「脱学校か」と同じプロセスなのである。
       ↓
    「その分析のために、この最初の論文では、学校化されてしまった社会を脱学校化するということはどういうことかを説明しておこう」(15頁)
    →ここから、「学校化」された社会の特徴の記述が始まる。
    →「学校化」の現代的事例は上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。最近文庫化して、読みやすくなった(イラストは単行本版のほうが面白かった)。
       ↓
    「教育ばかりでなく現実の社会全体が学校化されてしまっている」(同)
       ↓
    「学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行うのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、また行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的活動にほかならないとみなすのである」(pp15~16)
    →岡村先生の言う〈自分たちが賢くなる〉実践が「信用できない」といわれているのが近代社会だ。フリースクールは、いわば〈自分たちが(制度に頼らないで)賢くなる〉実践である。
       ↓
    「どこでも、教育だけでなく社会全体の「脱学校化」が必要になっている」(16頁)

    ●価値の制度化の福祉での事例が登場する。
       ↓
    「自分の家で人生を始め、かつ終るというのは、貧困かあるいは特別な特権かのどちらかのしるしである。臨終と死は、医師と葬儀屋の制度的な管理のもとに置かれるようになった」(同)
       ↓
    「貧困者はいつの時代にも社会的に無力だったのであるが、制度的な世話に依存する度合いがしだいに高まってくると、彼らの無力さに新しい要素が加わった。それは、心理的な不能とか、独力でなんとかやりぬく能力を欠くといかいうことである」(17頁)
    →制度ができるとそれに依存するようになる。そのため、制度に頼らない者はますます強く、制度に頼らざるを得ない者はますます弱くなる。
    →オリで飼われたライオンと、サバンナのライオンの違いである。オリの中で毎食上げ膳・据え膳(ライオンに対しこの言葉を使うのは適切かは分からない)されていると、補食能力を失いライオンとしての能力は弱くなる。人間社会でもそれは同じであろう。一人でなんとか食っていかねばならない戦災孤児(これも死後かな?)はちょっとやそっとじゃへこたれない。進駐軍相手の靴磨きから、窃盗・強盗までなんでもやって生き延びる。けれどひ弱な現代っ子(むろん、この定義に私も入っている)は保護されることになれているため、戦災孤児そのままの状況に追い込まれた時(楳図かずおの『漂流教室』の世界や大三次世界大戦が急に起こったときなど)、はたして生きていけるのだろうか。
       ↓
    種々の制度によって、貧しい者は制度に頼り切り、ますます弱い立場になる
       ↓
    そのため、次のような逆説がいえてしまう。
    「現在、健康、教育、および福祉を取り扱っている制度への財政支出を止めさえすれば、その制度のもつ副作用―人々を無能にする副作用―から生じる一層の貧困化をくいとめることができるのである」(pp18~19)
       ↓
    学校では次のような事例となって問題化する。
    「一般的に言って、より貧しい生徒は、進級や学習を学校に頼っている限り、より裕福な生徒よりも遅れてしまう。貧民に必要なのは、彼らの学習を可能にする資金であって、彼らに大いに不足していると称される制度的世話を受けるための証明をしてもらうことではない」(22頁)
    →制度に頼っていると、人間が弱くなる。制度自体を自らの資本や能力によって用意できる人間は、ますます強くなる。公費により黒人子弟に早期教育をしたことがあった。ヘッドスタート計画だ。けれど、金持ちは就学前児童を私塾に通わせることができてしまうのだ。
       ↓
    「古典的貧困」のために悩んでいる国はほとんど無くなった。近代の制度(生活保護など)が新たな貧困をもたらす。
       ↓
    「アメリカにおいても、就学を義務化することによって貧民が平等性を獲得することはない。それどころか、どちらの国においても、学校があるというだけで、貧民は彼ら自身の学習を自らコントロールする勇気をくじかれ、またそれを不能にさせる。というのは、学校は教育を専門に行なう制度と認められているので、学校が教育に失敗すれば、それは、教育が非常に費用のかかるもので、複雑であり、いつでも素人にはわからないもので、しばしば不可能に近い仕事であることの証拠だとたいていの人々に受けとられるのである。
     学校は教育に利用できる資金、人および善意を専有するだけでなく、学校以外の他の社会制度に対しては教育の仕事に手を出すことを思いとどまらせてしまう。労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう。そうして学校も学校に依存する他の制度も、ともに非常に費用のかかるものとなるのである」(25頁)
    →よく学校には理不尽な要求が突きつけられる。親がやると「モンスターペアレント」だが、地域が「お宅の生徒さんにはどんな教育をしているのか」と学校に苦情の電話を入れることもある。この地域の人は自分で「家の前でうるさくするな」と言わないで、わざわざ学校に電話をしてくるのだ。
     内田樹は〈制度が整備されすぎていると、個人の努力や善性がなくても済むようになる〉と主張する。たとえば警察のシステムが究極的に発展すると、目の前で人が暴行されているのを見ても「ああ、警察が完璧に対処してくれるから俺には関係ないや」と軽く見逃してしまう(ここでいう話は「価値の制度化」の話でもある)。 
     現在の学校は内田のいうような環境に近づきつつあるのではないか。とりあえず、教育のことは学校に任せよう、という思いが学校への理不尽なほど
    の要求へとつながる。イリイチのいう通りの社会に日本はなっているのだ。
       ↓
    「学校への支出を増やすことは一つの国においても世界的にみても、学校のもつ破壊性を強化する」(27頁)
    「学校の拡充は軍備の拡張と同じく破壊的であるが、軍備のそれほどには目立たないのである」(28頁)
    →高校のクラスの友人で東京医科歯科大学にいった者がいた。彼に「学費はいくらぐらい?」と聞くと、「年に63万くらい」と答えがかえってきた。私立大の医学部は1000万を軽く超す。早稲田の教育学部は年93万くらい。国立医学部は圧倒的に安いのだ。
     けれど、国立大学の医学部に入るのは長期の受験勉強に耐えられ(医学部は2浪がザラ)、幼少期からのエリート教育が必要であったりする。これを可能にするには自宅に相当な資産がなければならない(昔書いたブログを参照)。
     国立大医学部に入るのは、元から金のある人だ。国立大はそういう「元から金のある人」に公費を用いて安く教育する。医者は相当に儲かる。医療の充実という社会への貢献よりも、個人の利益になるところが大きい。「わざわざ公費を払ってまで、個人の利益につながるところ大である医者を育成することにいかほどの意味があるのか」という疑問がくることがある。
     医者ほどではないだろうが、教育へ費用を多くまわしすぎると、その費用は生徒/学生個人の利益にしかつながらなくなるのだ。
       ↓
    「教育機会を平等にすることは、たしかに望ましいことでもあり、実現可能な目標でもある。しかしこれを義務教育と同じことだと考えることは、魂の救済と教会とを混同することにも等しいのである」(29頁)
    →ここに、フリースクールの出番があるのだ。
    →イリッチは革新的なカトリックの司祭である。通常、下のような枠組みになる。
        カトリック プロテスタント
    価値A 魂の救済  魂の救済
    価値B 教会にいく 聖書
     カトリックの司祭が「魂の救済が大切なのであって、教会に行くことは2次的な意味しかない」というのは非常にプロテスタント的な発言になってしまう。
    →さきの価値の制度化の例では、最終目標の価値Aは「教育機会の平等」、価値Aのための手段である価値Bは「義務教育」にあたる。
       ↓
    「今日われわれは学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)
    「学習も正義も、学校教育によって増進されることはない。なぜならば教育者は、教える内容を一つの証明書の中に詰め込むことを主張するからである。
    →学校教育は知のパッケージ化を目指す。

    追記
    ●卒論で「価値の制度化」をテーマにしても面白いかもしれない、と思った。
    ●私の本稿での比喩は、適切なのかを誰かに教えていただきたいものだ。
    ●〈学校化と教育化を分離することが大切〉と山本哲士はいう。教育は学校以外でもできる方がいい。2つのありかたがあるだろう。
    ①塾やフリースクールで学ぶ。②社会の中での教育力を増やす。
     ②について、イリッチは本書でこう語っている。
    「労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう」(25頁)。
     本来は学校以外の場所に教育があった。それこそ「労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活」の中で教育はあった。その幅広い教育は、学校ができてから忘れ去られていった。特に共同体が消滅しかけている現代ではなおさらである。内田樹が〈完璧な警察があったら、誰も暴力を止めようとしない〉と語っていた、との話を本ブログに書いた。教育もしかりで、「学校があるから、教育は全て学校に任せよう」という思いが人々の中にある。
     再び、社会の中に教育力を取り戻していけば、脱学校化を成し遂げても教育が継続して行われるようになるだろう。
     それついて親友のOと話す中で、「高校のバイト禁止の意義」について話が及んだ。高校生がバイトをするとき、社会のなかで学ぶことになる。ろくに敬語を使えなかった高校生が、マニュアルがあるとはいえ敬語で話せるようになる。時間を守るというエートスも学ぶことができる。労働をする「喜び」を知れるので、ニート対策にもなるかもしれない。けれど、基本的にはバイトを禁止する高校は数多い。バイトを「社会での学び」とするならば、バイト禁止は「社会での学び」に制限をかけることを意味する。
     牧口常三郎という教育学者は半日学校制度を提唱した。学校での学びを効果的に進め、現在の半分の時間(つまり半日で)で学校教育を行い、残りの半日を「社会での学び」に使う、という発想である。単に「社会で学ぼう」「学校外で学ぼう」といっても実現可能性は低い。何故なら時間が考慮されていないからだ。牧口の慧眼は「時間を確保し、自然のうちに社会での学びがもたらされるようにした」という点にある(ちなみに学校のスリム化については上野千鶴子も語っている)。
     Oは感銘を受けていたようであった。

    まとめ
    ●イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎない。