『脱学校の社会』

『シャドウ・ワーク』3章より。

学生たちは、自分が学校へいくのは学ぶためであるか、それとも協同しておのれ自身の愚鈍化につとめるためか、を問うている。消費のために苦労がふえ、消費が約束する心の安らぎはますます減っている。(86頁)

イリッチの鋭い指摘。大学にいっても、自主性を持たない限りは学びは発動せず、教授のいう課題をひたすらこなすだけ。「愚鈍化につとめる」だけだ。

「学びの共同体」は制度化された「学び」か?

 卒論に「学校化」論を書いている。

 「学校化」を通して主張すべきなのは、本来的な「学び」の復権である。
 「学び」概念を提唱したのは佐藤学だ。「学びの共同体」という実践を行い、着実に結果を出しているという(『現代思想』)。
 イリッチの主張する「学び」は、佐藤の「学び」とイコールであるのか、どうか。この考察が必要になってきた。
「学校リベラリズム宣言」の内藤朝雄も筆を取った『学校が自由になる日』の後半には、「学びの共同体」批判がなされている。共同体的な学びでなく、もっと学びを個人の営みだと考えていくべきだ、と主張している。もっとも、作者の一人である宮台真司は『日本の難点』など直近の本の中で、学びの共同体的な教育実践を評価するようにはなってきている(〈できる子もできない子もいるほうが、学びがすすむ〉などと書いている)。
 佐藤の実践は制度化された「学び」であるような気がしてならないように感じられる。「学びの共同体」は、確かに旧来の「学校」よりは「学び」が「学校化」されずに済んでいるだろう。けれど、より巧妙にプログラムされた「学校化」された「学び」になってしまってはいないだろうか。結局、〈学んだことは教えられたことの結果だ〉と考える「学校化」・「価値の制度化」が起こっているだけのように感じられる。
 

イリッチとフレイレ。

山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』は面白い。今まで書いていた卒論に、書き直しを迫る内容である。ある意味「もっと早く読んでたら、無駄足をしなくて済んだのに」と思ってしまい、悔しい本だ。けれど、あえて『脱学校の社会』のみを自分(とO君)で読み解く挑戦をしてきたからこそ、山本の指摘が響いてくる。ムダ歩きは無駄にあらずである。


 イリッチとフレイレの思想は本来違うにも関わらず、どちらも「脱学校論者」といわれる。山本はいう。両者は「脱学校論者」ですらなく、2人の思想もかなり違っている、と。

 少しまとめてみよう(『学校の幻想 教育の幻想』193頁より)。

フレイレは‘教育はいかなる時代にも普遍的にあった。現在、それが抑圧の教育となっている歴史的・イデオロギー的性格を把握する’といいます。しかし、イリイチは‘教育そのものが近代の構造的な産物であって、その本性からして商品である’とみなすのです。


 言ってしまえば、教育を「人類普遍の営み」とみなすフレイレに対し、「いや近代になってつくられたものだ」とイリッチは主張する。他の思想家で言うと、フレイレの立場は「人間は教育によって人間になる」と書いたカント、イリッチの立場は「教育は近代が要求する国民育成のために創られた装置」というアリエスに似ている。

Don’t feel. Think!

 試験会場で、試験官が「どうせ皆読まないだろうから」と試験の規定を棒読みする。それが公平な試験にとって必要なことだと思われている。受験生はボーっと話を聞く。これ、「学校化」された典型的な学校と同じだと思う。

 「どうせ自分では学ばないから、俺が教えてやるしかない」と教員が一方的に話をする。生徒は教科書に載っているような話まで、黙って聞かなければならない。少なくとも、聞いているフリをしないと評価が下がる。
 これでは知識を学んでも、知識にだまされる「考えない」人間になってしまう。
 ブルース・リーは映画で言った。「Don’n think. Feel!」と(『燃えよドラゴン』)。
 いま、学校の中では教員や生徒の出す空気を感じ取ることを重視し、自分の頭で考えることが少なくなっている(O先生の言う「他人の頭に頼る」「自分の頭で考えることに自信を持てない」)。
 いまの時代、ブルース・リーの逆が必要だ。「Don’t feel. Think!」と。

欲しないと水は飲めない。

 イリッチは『脱学校の社会』(山本哲士によれば『学校のない社会』)のなかで、子ども自身/人間個人の「学び」が、「学校」によって失われるということを批判していた。学校により、人々は「学んだことは教えられたことの結果だ」という大いなる勘違いを行ってしまう。「学校化」されてしまうのだ。
 宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』という本がある。その中に、次の話が出てくる。

やる気のない人を放っておこう。
 やる気のない部下を許そう。
 これが本書の“本質”です。
 喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
 水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
 乾きこそ、モチベーションの源泉です。
 他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
 生きていれば、必ず渇くときがあります。
 他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(6~7頁)


 学校の教育は、いわば水を欲しない馬(子ども)にむりやり水を飲ませよう(学ばせようとすること)とするものである。需要がない所に、無理やり供給をもたらそうとしている。ムダである。これが学校化社会の特徴でもある。
 引用文ではモチベーションを謳っているが、学校においては「学ぶモチベーション」と考えることができるだろう。学校は、無理して子どもに「学ぼうよ」「勉強しようよ」と呼びかける。あるいは恫喝的に「勉強しろ!」「宿題忘れるな!」を叫ぶ。
  これだけで済めばいいのだが、子どもたちは次第に「学校化」される。自分の「学ぶ意欲/モチベーション」を他者に上げてもらおうと考えるようになる。小中 高と、他人から「学べ!」と強制され、結果的に自分から学ぼうとしなくなる。「誰かに言われるから」という自主性のない学びのみとなる。
 現在の大学もそうなっている。高校の延長でやってきているため「自分の研究をしなさい」と言われても「何をすればいいんですか?」「やる気が起きません」とシラッと返す。完全に「学校化」された姿だ。自主性をもった「学び」が起きない。

 私は、学問と言うものは「禁止されても、ついついやってしまう」麻薬みたいなものだと思う。「本を読むな!」と仮に言われても、こっそり陰で呼んでしまうだろう。学問に志すと言うことは、ある意味麻薬を始めることに似ている。学ばずにはいられなくなる。
 本来の学びは、これくらい中毒性の強いものなのだ。真に自発的に「学ぶ」意欲が湧いたとき、人間は果てしなく学んでいくものなのだろう。それを無理やり学ばせようとするから、「学べ!」と強制されない限り自分から学ばない「学校化」された個人が誕生してしまう。

『脱学校化の可能性』「解説」より。

『脱学校化の可能性』「解説」より。

「近代文明と人間に対するラディカルな問いかけ」をする人々が1960年代後半から1970年代初頭に現れてくる。
  ↓
「この時期にはまた『脱学校化』を唱える人々と共に,様々な学校批判と改革を主張する一群の人々があらわれた」(197頁)

「このようなラディカルズと呼ばれる人々をデイヴィッド・ハーグリーブズは脱学校論者(Deschooler)と新ロマン主義者(New Romantics)とに分類している」(197頁)
脱学校論者:「教育制度と社会を根本的に批判し、ラディカルな代案の構想を提案している人々」「彼らの主な仕事は、社会の構造の中における教育の構造についてであり、学校の廃止を主張し、教育は特定の教育制度の仕事であることをやめ、かわりに社会の様々な部門に拡散される」
「イヴァン・イリッチ、エヴァレット・ライマー、パウロ・フレイレ、等」
「長期的で幅広い展望」「学校ばかりではなく社会の変革」(分析の焦点)

新ロマン主義者:「現在の教育の実践には非常に批判的ではあるが、学校にかわるラディカルな代案よりも改革を主張する。彼らの主な関心は、カリキュラム内容の再構成や教育の性格の再規定であり、その分析は、ほとんどミクロな社会学的レベルあるいは社会心理学的レベルである」「脱学校論者の学校診断を受け容れているが、教師や学校そのものを攻撃しているのではなく、教育制度内改革を目ざしている」
「ハーバート・コール、ニール・ポーストマン、初期のジョン・ホールト、カール・ロジャース、オンタリオ教育研究所の人々や、さかのぼれば、サマーヒルのニール、フリーデンバーグ、コゾル等」(198頁)
「短期的(展望)」「焦点は教室の中」(分析の焦点)

*ポール・グッドマンは、脱学校論者、新ロマン主義者「双方のグループの父と言われている」(199頁)

いろんな「学校化」。

いろんな「学校化schooling」論。

まず山本哲士から。

学習や教育が学校に独占され、学校を通じて学習・教育が生産され価値あるものとなる「産業的生産様式」の典型。「学校」という形態とは区別されるべき、生産様式が「学校化」であり、学校の視えない働きとなっている。教育が制度化されて学校化が構成される。学校化に対抗するものが「非学校化deschooling」で、聖なる学校から教育を世俗化することを意味する。(『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、17頁)

 山本はイリッチの脱学校化を「非学校化」と呼んでいる点に注意したい。

次は、『新教育事典』(勉誠出版、2002)の「学校化する社会」(楠本恭之)から。

イリイチが問題とする「学校化」とは、こうした「学校」への、子どもをはじめとして、社会までもの、いわゆる「囲い込み」を意味する。彼は、『脱学校の社会』のなかで、「学校は教育に利用できる資金、人および善意を専有するだけでなく、学校以外の他の社会制度に対しては教育の仕事に手を出すことを思いとどまらせてしまう。労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校に任せてしまう」ことを問題とするのである。(187頁)

 前半に注目。宮台真司のいう「学校化」は、〈学校的価値が社会に吹き出す〉ことであった。イリッチの定義は反対に、学校への「囲い込み」を意味している。まあ、結果的にはよく似たことを言ってるような気もするが…。

 続ける。

イリイチの『脱学校の社会』という指摘は、こうした意識のもとに、社会の「脱」学校化を進め、自発的な「学びのための網の目」を、社会のいたるところに張りめぐらすことを考えたものであった。彼が意図したのは、単なる「学校廃止論」ではなく、人間と環境との間に新たに教育的関係をつくりだすことであった。したがって、われわれが「学校化する社会」において留意しなければならないのは、「ポスト『脱学校の社会』」として、あらためてイリイチを見直すことである。(189頁)

 
 最後は『教育思想事典』(教育思想研究会編)の「学校化」(森重雄)から。

ちなみに、イリイチ自身はのちに、学校化概念は、(中略)学校や教育による人間精神の去勢の指摘にもとづく人間精神の全面的疲弊・汚染に対する警告であったと述べている。(88頁)

真の教育は学校というレイアウトではけっして行うことができず、イリイチのいう、脱学校型の「学習のためのネットワーク」のもとにはじめて可能になる、と考えられていた。この学習のためのネットワークとは、ある知識を必要とする人とその知識を提供できる人をアドホックに結合することであり、それはコンピュータ・ネットワークにもとづくデータベース構築というテクノインフラによって可能となる。ここでは固定的な教師―生徒関係は生まれないし、出来合いの知識パッケージを必要な知識であると思いこまされることもない(石田注 要はこれは「価値の制度化」ということ)。これによって真の意味での教育が可能になるとイリイチは考え、これが真の教育を可能にする脱学校化の具体的な姿であるとして提唱したのである。(89頁)

 ずーっと打ち込みをしていると、手が疲れるし、眠くなる。
 先輩のOさんによれば、学者とは論文の「職人」であるという。
 ひょっとすると、テニス選手が素振りをするように、大工さんが鉋を磨くように、学者が空き時間に資料をキーボードで打つのも、一種の「職人ステータス」といえるのかもしれない。
 キーボードを叩くことを、「学問してる!」と誤解すること。学問的価値の制度化、といえるかもね。

余談
●通信教育の大学では夏場、「スクーリング」が行われる。直訳すると、「学校化」。いままでは家で学んでいたために学校へ取り込まれなくて済んだものを「学校化」させるイベント。うーん、恐ろしい。

ジョン・ホルトを探れ!

 卒論を書き始める。このブログに書いた内容を継ぎはぎするだけで、もう2万字になった。あと1万2000字。8月中に終りそうな気がしてきた。

 まとめるにあたって、イリッチ以外の脱学校論者を知る必要が出てきた。
 というわけで、今日はジョン・ホルトについてを書いておきたい。

 タネ本は金子茂・三笠乙彦編『教育名著の愉しみ』(時事通信社、1991)の「子ども その権利と責任」(佐藤郡衛、222頁〜)より。

1970年代にはイリイッチやライマーらの強い影響を受け脱学校論に深い共感を示すようになり、脱学校論という視点から次々に論文を発表していく。(223頁)

ホルトは他の脱学校論者と異なり、学校の存続を認めており、子どもが学校へ行くにせよ、行かないにせよ、その選択を子ども自身がすることを提唱している。彼の主張の根底には、子ども中心の思想が流れている。(222頁)

 お、出ました「子ども中心」との言葉。良さげな学者ではないか。

ホルトの子ども観はきわめて明確である。子どもを一人の人間として大人と変わらないように認めてやること、大人よりもあらゆる面で劣っているという見方を改めることである。(223頁)

子どもは大人からすべて与えられたり、押し付けられたりして、自ら決定できる範囲がきわめて少ない。このため、子どもが自分の行動に対して、自ら選択できる範囲を広げてやることが必要である。つまり、大人のいっさいの「管理」を拒否し、自由の回復をはかることをめざしているのである。(225頁)

子どもに対する「教育」から子ども自身による「学習」へと、言葉を変えれば「管理」から「自由」の教育へという発想の転換をはかろうとするものである。(224頁)

 神戸フリースクールの設立者が面白いことを言っていた。
「ボクは普通の学校の子って、ブロイワーやと思うんやね。そやけどフリースクールの子は地鶏や」。
 ブロイワーは与えられたエサだけを食べる。他に興味も何もない。というか、よそ見をしないことが求められる。
 地鶏は自分の力でエサを探す。与えられるエサだけでなく、土を掘って虫やミミズも食す。どちらがたくましく育つか、言うまでもない。

「学校化」された私。

 何故だろうか。

 どんなに努力をしても、どんなに「考え方を変えよう」と意識しても、自分の学歴主義を打ち消すことができない。

 今日も、本屋で『東大式 絶対情報学』との本を無意識で購入していた。「東大」という言葉に、まだ体が反応してしまう。

 早稲田大学生は、「東大を諦めた」組が多い。「負け組」認識をもっている側面もある。だから無意識のうちに、「東大」の名に反応してしまう。

 フリースクールやオルタナティブスクールに心惹かれながらも、「東大」というブランド・学歴信仰から逃れられていないのが私である。

 社会学者・宮台真司の「学校化」定義。《家や地域までもが学校的価値で一元化されることを私は「学校化」と呼びます》(『これが答えだ!新世紀を生きるための108問108答』281頁)。私の頭の中も、「学校化」されてしまっている。

 卒業論文を書く段になって、自分がいかに「学校化」された存在であるか、実感するようになった。
 
 中学では、私は「優等生」であった。優等生特有の「優等生シンドローム」も発症していた。教員の質問に、真っ先に答える能力。言われたことを、疑わずに実行する力。
 高校に入って、状況が変わる。周りは自分以上の優等生ばかり。中学と同じやり方では太刀打ちできない。私は、中学のとき以上に「優等生」になろうと決意した。
 わが母校では勉強ができること以上に、高校の創立の精神を求めていることが重要視されていた。今の時代、珍しい学校である。校歌を歌い、「真の学園生とはどのような生徒か」真剣に語り合う。無理をしてでも、学問と「精神面」を鍛えようと決意した。「俺はすごいんだ!」と言いたくて、生徒会にも入った。翌年には生徒会長に。けれど、母校では生徒会長の権限は行事の実行委員会よりも小さく、意気消沈。「何のために生徒会はあるのだッ!」と、埃っぽい生徒会室で泣き叫んだ日々もあった。 
 生徒会での自己実現を諦め、受験勉強で「俺は勝った!」と言おうと思い立つ。ちょうどその頃、クラスから見放される事件が起こり、ますます受験に専念した。休み時間は耳栓を付けた。昼食は一人で菓子パンをかじった。他者と折り合わないために。けれど、受験は第五志望にしか受からなかった。
 結局、私は「優等生」になることが出来なかった。中学以来の「優等生気質」はありながら、「優等生」にはなれない。悔しさと、惨めさ。高校の卒業文集に映った顔写真。私だけが笑っていない。
 結果的に悟ったのは、人と比べてもどうにもならないということ。けれど、「人と比べる」ことを私の身体に刻み込んだのは、学校ではなかったか。学校のシステム自体が、人と比べることを要求している。私はそのシステムに、すっかり「学校化」されてしまった。今もこの傾向は残っている。「東大」という言葉への、無意識的反応がそれである。

 ひょっとすると、私がフリースクールや脱学校論に関心を持つのも、「学校化」の成せる技ではないだろうか? つまり、東大に行けなかったという私のルサンチマン(恨み)が、学歴主義に反するフリースクールに心惹かれるきっかけとなっているのではないか、と思うのである。

 ただ、自分がいかに「学校化」された存在であるか、気づけたことだけでも、大学に行った意味があったように思う。早稲田の教育学部に行かなければ(もっといえば、脱学校論についてをK先生の授業で聴かなければ)、このことを自己認識することはなかったであろう。
 人生は、誠に奇妙なことである。第一志望に行くことだけが、幸福なのではない。私にとって、早稲田の教育学部は第五志望。夏に諦めた東大を入れるなら、実に第六志望となる。

 …自称「三流エリート」、石田一のモノローグでした。
 

*宮台真司『これが答えだ!新世紀を生きるための108問108答』朝日文庫、2002年。

『オートポイエーシスの教育』、または卒論の概要。

 山下和也『オートポイエーシスの教育』を読んでいる。ルーマンの社会システム論のキー概念である「オートポイエーシス」理論をもとに、教育を再考するという本である。

 山下は、2通りの教育コミュニケーションが存在していることを説明する。ひとつは、「全体としての社会システムの期待される人格一般としての人格の担い手の育成を期待する」普通教育コミュニケーションである。もうひとつは「特定の社会システムの特定の人格の担い手育成を期待する」専門教育コミュニケーションを意味する(117頁)。
 現在では、普通教育コミュニケーションは最低限必要な基準であると考えられている。いわゆる義務教育である。社会の一員となるに当たり、「ないと困る」レベルの内容である。一方、専門教育コミュニケーションは、個人に応じ要求されるものが異なってくる。山下の言葉を使うと、将来になう人格に応じて専門教育コミュニケーションの中身は変わっていくのである。
 この言葉を説明した後、山下は次のように語る。これはイリッチの「学習のためのネットワーク」(ラーニング・ウェッブ)の欠点をしたものだ。
 将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。技能教育のネットワーク化を唱えて学校を否定するイリッチが見落としているのがこの点で、何を学ぶべきかが個人個人にわかっていないからこそ、学校による普通教育が必要なのです。独学の困難は学ぶべきことの選別にこそ存するのですから。(pp123~124)
 重要な指摘だ。けれど、見当違いもいくつかある。イリッチは確かに『脱学校の社会』のなかで、「技能教育」についても書いていた。けれど、山下の文脈にある意味ではなく、「学校的な機能が役立つのは、技能教育についてだけだ」といっているように私は解釈している。「技能教育」と「ネットワーク化」をつなげてはいなかったはずだが・・・。小中さんに聞いてみようかしら。
 個人は「何を学ぶべきか」「わかっていない」という点が印象的だ。若干、内田樹の語り口を思い出す。内田ならば〈学びとは、何を学ぶべきかわからない状態の中からはじまる。「自分はこれを学びたい」、と学びを商品のように扱うことはできない。学びは、何をどこまで学ぶかわからない中、それでも学び始めることから始まるのだ〉という感じで書くだろう(『街場の教育論』にあったはず)。ある程度学びが進まない限り、「これを学びたい!」という感情が起こることはないようだ。
 この点についてだが、フリースクールの理念を思い出すと、いささか疑問も感じられる。
 フリースクールの「自由な教育」は、「勉強しない自由」も認めている。奥地圭子のいう「ヒロベン」(広い意味の勉強)が行われているから、いまは遊んでいてもいいのだ、という態度である。『超・学校』に紹介されたサドベリー・バレースクールの実践も、「ヒロベン」である。生徒達は何をしてもいい。一日中、釣りを続けてもいいし、学校に来なくてもいい。「これを学べ」とは決して教師が言わず、「これを授業して下さい」と子どもがいうまで、教師はものを教えない。「教育とは待つということだ」という言葉があるが、サドベリー・バレーはそれを地でいく学校(語弊があるなら「学び場」か?)であるのだ。
 サドベリー・バレーのようなフリースクール(あるいはデモクラティック・スクール)において、「普通教育」を行っているといえるのか? 「ヒロベン」という便利な言葉を使うなら、「ヒロベン」を「普通教育」と考えられるのだろうか? 山下は学校内での、制度としての授業を「普通教育」と考えてるようだが、制度によらない「ヒロベン」を「普通教育」ととらえてもよいのであろうか。
 フリースクールなどの「自由な教育」の中で、「最低限必要な学習」が行われることを説明できるなら、いま以上にフリースクールが教育界で重視される存在となると考えるられる。
 けれど自分で書いといて何だが、この結論はフリースクールの命取りともなるような気がしてならない。イリッチは「価値の制度化」という状況への批判を『脱学校の社会』で行ってきた。イリッチのいうラーニングウェッブやフリースクールに、「普通教育を行いなさい」と伝えることは、フリースクールの「フリー」さを損ねる結果となるのではないか。「教えられたことを学んだことの結果だと考える」のが価値の制度化、「学校化」現象である。自由さがウリのフリースクールに、「これを行いなさい」ということは「価値の制度化」といえなくもない。
 方向性としては、いまフリースクールで繰り広げられている学びを、山下の言う「普通教育」ととらえていくという姿勢が必要となるのだろう。東京シューレなど「フリースクール全国ネットワーク」加盟団体であればこの考え方でいい。
 ただし、これは団体に入っているからOK、というわけではない(それでは「価値の制度化」である)。団体加盟の際に加盟条件に適った団体かをチェックする機能が働いているからOKとみなすのである(無理に子どもに教育を与えようとする組織は、外される)。このチェック機能にも残念ながら穴がある。加盟後に不適切な行動をしはじめる団体へのチェックを行えない点だ。実際、フリースクール全国ネットワークの活動を見てみると、「総会」に参加しない団体へのチェック機能がないように思う。また「総会」やその他活動にフリースクールの代表者が参加していても、適切なフリースクール運営をしているかを、「全国ネットワーク」メンバーが確認することはほとんどない。加盟数が100に満たない間は、それでも善意でなんとか運営されるかもしれない。けれど、数が増えて加盟数が300を超えてくると誰も実体を知らない組織が存在することになる可能性がある。絶えず加盟団体の行動をチェックする機構が「全国ネットワーク」に存在するのか否か。それがキーになる気がする。
 話が脱線したので戻すと、フリースクールだから「普通教育が」が「ヒロベン」の名で行われているのだろう、と思うことに危険が伴うのだと私は考えてるということだ。下手に「フリースクールには『普通教育』を制度としては取りいれない」とした場合、「フリースクール」という名称が名ばかりとなっているような学びの場(昨年の丹波ナチュラルスクールなど)に対し、「もっと~~な教育を行いなさい」といえないことになってしまう。
 この問題も、自称「フリースクール」と、「フリースクールの理念に合致した真のフリースクール」が明確に区別され、第三者機関によって評価される時代が来たら、解決するような気がする。現段階では「フリースクール全国ネットワーク」加盟のフリースクールを、典型的な「フリースクール」であると考えておくのが無難なようだ。
 
追記
 卒論では、イリッチのラーニングウェッブに対しての批判を行う内容を行いたいと思う。『学校が自由になる日』内の「学校リベラリスト宣言」の内容を踏まえ、「最低限必要な学習」と「発展的な内容」に教育内容を分けて行うなら、イリッチの主張は実現可能であるということを示したい。
再記

 再び確認してみると、イリッチの本文に、技能教育のネットワークを示唆するものがありました。ただ、山下さんの記述にあるような「技能教育のネットワーク」だけをイリッチが説いたわけではありません。
 …。おかしいな。イリッチは技能教育を学校で行うことに肯定的だったはずなのに…(というか、学校が役立つのは技能教育と大学だけだ、といっていた)。