自由が苦手な/悲しい人間

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いままでずっとイリイチの脱学校論について考えてきた。そのイリイチは本来的な学びの復権を訴えている。

 けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものである。まったくやる気のない生徒でも、何かしらかを学ばせ、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得できる場所である。また、黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。
イリイチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。
けれども。私は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。イリイチなどの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、私は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。
カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる、と。学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリイチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば私など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
 私は自分で自分のことを決めるのがしんどくて仕方ない。進学するかどうか、就職先をどこにするか…。いずれも、中世のように「始めから決まっている」方が悩まなくていいから楽である。

 ラーメンズのネタに「プーチンとマーチン」というものがある。You tubeにもアップされている。これは小林と片桐が腕人形をもって掛け合い漫才や歌を演じるコントである。「♫命令されたい/決められたい/自由が苦手な/切ない人間〜」。軽快に2人が歌う。私はこの歌詞を全面的に肯定する。

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コメント

  1. 小中春人 より:

    みんな自由が苦手だと思いますよ。
    僕だって自由は苦手です。
    たとえば、今日の昼ごはん何食べようか迷いましたし・・・笑

    でも、悩んだ分だけ、得る物も大きいと思いますよ。
    今日の昼ごはん、結局うどんを食べましたが、次はそばにしようと思います。
    仮に今日失敗しても、そこから次に生かせばいいんですからね。
    「まず、うどんを喰わねば、そばを喰えず」
    なんてね。

  2. コメントありがとうございます。失敗から学ぶ、という姿勢は本当に重要だと思いました。

    いま新自由主義がはやりですね。自己決定が重要、という発想です。

    奇妙なことに、フリースクールは新自由主義的ではないはずなのに、「子どもの自由」がものすごく重視されます。「子ども中心主義の教育」という言い方にも現れてますね。

    子どもの自由、とはある意味で子どもの自己決定ということにつながります。この際の疑問としては、子どもは自己決定できる権利主体であるのか、という点が上げられます。

    大人ですら「自分は何を学ぶべきか」決めるのは苦痛です。僕は今年もマイルストーンという早稲田の科目登録応援雑誌を買いましたし。フリースクールには自由が重要ですが、そこにいる子が自己決定を迫られるような「自由」のあり方であってはならないと思います。

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