『脱学校の社会』

「学校じゃ教えてくれないこと」批判

 よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。

 「学校じゃ教えてくれないこと」という言葉には、「もっと役立つことを学校では学びたかった」という思いが込められている。そんな思いを哲学的にはルサンチマンという。学校に対する「恨み」ということだ。この「恨み」はしかし、学校それ自体への批判ではない。「学校制度でこんなことを教えてほしかった」「もっと役立つことを教えてほしかった」との、ムシのいい思いが感じられる。学校で「教える」ということ自体には何も批判をしていない。また「教えられる」ことを無条件に「善」としている点も気になる。
 問題なのは「教えてもらいたい」「教えられたい」という受身の感情、「奴隷根性」が見え見えである点だ。自分で学ぶ、という自発性・能動性が感じられない。思想家・イリッチは『シャドウ・ワーク』などの著作を通して、「自分でやること」「自分で作り出すこと」「自分で学ぶこと」の大事さを訴えた。他者を頼りにする姿勢(ここでは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」の様子)は本当の人間のあり方ではない。
 「学校じゃ教えてくれないこと」。この言葉、脱学校論者からみれば「当たり前じゃないか」と感じる。学校は何も役立つことを教えてくれはしない。そんな期待をしてもいけない。来年には私は「教員免許」を入手できるが、「先生」といわれるほど人格は高くない。「人生において大事なこと」を教えられる自信は全くない。
 人生で大事なことなんて、学校が教えてくれるわけないのだ。自分で学ぶしかない。そんな当たり前のことを、なぜ今さらキャッチ・コピーに使うのだろう。
 私は高校までは「優等生」であった。早稲田という場所は「優等生」を崩してくれる場所である。だいぶ不真面目になったなあ、とつくづく思う。
 こんな話を、非常勤講師をしたとき、中学・高校でしたいものだ。
追記
 イリッチの話を敷衍するなら、学校の「部活動」というものにも再考が必要だ。
 部活動は「勝利主義」的。勝つこと・プロになることを子ども達に押し付ける。「勝てなくてもいいから楽しくやろうぜ」とは決して言わない。「どうせ甲子園に出れるわけないんだから、紅白戦を毎日やって、楽しくゲームしようよ」という野球部のキャプテンは、おそらく吊るし上げられる。
 日本で健康のためのスポーツが根付かないのは、「部活」による「勝利主義」の存在が大きいのではないか。ゲームそれ自体を楽しむのではなく、「大会に出る」「根性をつける」「努力の大切さを学ぶ」という、汗臭い目標の達成が「部活」の目標になっているからだ。
 イリッチは「レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭で取れたものの方が価値があるとされる」(『シャドウ・ワーク』52頁)社会の誕生を待ち望んだ。スポーツも同じだ。勝利することなど「結果」として得られるものよりも、過程を大事にする姿勢(「楽しむ」ということ)の重要性をイリッチは教えてくれる。

イリッチが『シャドウ・ワーク』で言いたかったこと

『シャドウ・ワーク』においてイリッチは〈制度に縛られない〉生き方の大事さを何度も主張している。少なくとも、一章と二章を見る限り、そうである。

 「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはず。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行して、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

 『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである、と。近代成熟期には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

 追加すると、イリッチは「理想の社会」と一つのことばで表される社会を嫌っているように思える。コミュニティごとに、「理想の社会」は異なるはずだ。文化環境も、思想・信条も、自然環境も違っているのだから。山本哲士は『教育の政治 子どもの国家』において「社会」と「場所」とを対比的に語る。一元的な「社会」ではなく、その場その場の(ヴァナキュラーの)「場所」を重視すべきだと主張している。
 経済を基にしていると、経済はすべてを一元化してしまう。『シャドウ・ワーク』の「公的選択の三つの次元」のZ軸の定義として、上限が「経済成長につかえる社会」であると示している。その反対側の下限が「生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」というものであった。「経済に基づくコミュニティも多様な選択肢の一つではないか」という意見が聞こえてくることを見越した上での、主張であろう。経済を基にすると、コミュニティの独自性が失われてしまうことをイリッチは嘆いているのだろう。XYZ軸をすべて説明した後に、「当今の政治の概念作用となると、すべてを一次元化してやまない」といっているのは、そのためではないだろうか。

※余談だが、昔読んだリンカーン大統領の伝記を思い出す。サブタイトルは「丸太小屋からホワイトハウスへ」であった。当時の私は丸太小屋、つまりログハウスに住んでいる人は「別荘を持った金持ち」というイメージをもっていた。本来、19世紀初頭における丸太小屋は「貧しさ」の象徴であったのだが、誤解していたのだ。

フリースクールに大事なもの、ミーティング

フリースクールにおいて重要なものは何か。あまり知られていないが、それは「ミーティング」である。

フリースクールの運営について、子どもとスタッフが話し合う場。次のイベントの企画や、フリースクール内でのルールについて等。実際の所、「フリースクールの命」とも言えるものであるのだ。

平等な立場で議論をする。いわば「平等」権をもとにした制度だ。フリースクールというと「フリー」の語に引っ張られ、「自由」のみが重視されるきらいがある。けれど、そうではない。フリースクールの「フリー」とは無条件の自由を意味するのではなく、設備や他者との折り合いの上での「自由」である。利用可能な資源の中で、有効な使い方を考える上での「自由」なのである。

ミーティングの存在は、フリースクールを語る上で欠かせないものである。フリースクールの子どもたちはこれを通じ、コミュニケーションスキルを向上させていく。

イリッチは「脱学校化」した後のフリースクール的なものに対し「学び」を求める。イリッチは、たとえば語学などの教材を学ぶという「実質陶冶」の学びを主張する。教材に頼るイリッチよりもミーティングを行うフリースクールの方がより「形式陶冶」を行っていると思われる。

※『教育学用語辞典 第四版』には、次のようにある。「形式陶冶は、(中略)知識それ自体よりもこれらを習得するのに必要な推理力や想像力などの訓練を重視する立場である。これに対して実質陶冶は、心理的ないし精神的諸能力よりも児童生徒が教材内容を習得することで客観的な知識や技能を獲得することを教育の目的とする立場である」(186頁「陶冶」貝塚茂樹の文章)

…今回は、書いてて自分自身よく分からなくなりました。忘れてください。

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)
●ギリシャ神話の「パンドラの箱」。パンドラとは「すべてを与えるもの」。
●「はびこっている諸悪の一つ一つを閉じこめようとして、そのための制度づくりに努力するプロメテウス的人間の歴史なのである。それは、希望が衰退し、期待が増大してくる歴史である」。
●希望と期待の区別の再発見の必要性。
希望:「自然の善を信頼すること」「われわれに贈り物をしてくれる相手に望みをかけること」
期待:「人間によって計画され統制される結果に頼ること」「自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むこと」
●「プロメテウス的エートスは、今日希望を侵害している」「人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている」
●原始時代、人類は希望の世界に生きていた。古代ギリシャ時代から、希望を期待に置き換えることをはじめた。
●プロメテウスとエピメテウスの二人の兄弟。
●ギリシア人は「合理的で、権威主義的な社会を築いた。人々は、はびこる悪に対処するつもりで制度をつくり上げた」
●「彼らは、自分自身の要求や将来における子供たちの要求が、人為的につくられたものによって形成されることを望んだ」
●原始時代:個人を儀礼に神話にしたがって参加させることを通し、社会の慣わしや知識を個人に教えていった。
古代ギリシア人:教育によって、前の世代の人々がつくりあげた制度に自らを適応させる市民だけを真の人間として認めた。
→夢が「解釈」される世界から、神託が「創ら」れる世界への移行を反映している。
●「人々は、彼らの生活を規定する法律をつくることや、環境をおのれのイメージに合わせてつくることに責任をとった」。「神話的生活への原始的な導入の儀礼は、市民の教育に変えられていった」(p194)
●「運命、事実、および必然性によって支配」されていた原始の人々。
   ↓
プロメテウスは神から火を盗む。「事実とされていたものを問題とし、必然性とされていたものに疑いをさしはさみ、運命に戦いを挑んだのである」
   ↓
「運命として与えられた自然環境に挑むことはできるが、そのためには自分自身に危険のふりかかることを覚悟していなければならないことを知っていた」
   ↓
「自分のイメージにあわせて世界をつくり、全面的に人工でつくられた環境を築き上げようとする」「しかし(中略)それはむしろ環境に自分自身を適合させるよう、たえず自分を作り変えるという条件のもとでのみ可能であることに気づく」
   ↓
結果として「今、われわれは、人間というもの自体が危機に瀕している事実を直視しなければならない」
→要はどういうことか。自然を作り変える・手を加えることで現在の文明が成立した。しかしそれに伴い、人間自体も変化させられることとなった。人間も自然の一部であるゆえ、自然に手を加えるならば何らかの形で自分自身にも手を加える結果となるからだ。それが環境破壊や環境ホルモンの問題として現れてきている。だからこそ「人間というもの自体が危機に瀕している」といえるのではないか。
→「自然に手を加えよう」とする思いが、プロメテウス的人間の行動だといえるのではないか。「ありのままに任せていこう」という思いがエピメテウス的人間といえるのではないか。
●現在は「欲望と恐怖までもが、制度によってつくり出される」。価値の制度化が進んでいるのだ。(p195)「学習自体が、教科内容を消費することと定義される」
●「望ましいのものはすべて計画されたものなので、都市の子供はやがて、人間は人間のどんな欲求を満足させるためにも、そのための制度を作れると考えるようになる」(195頁)
→本当に必要なものではなく、社会が私に「この商品が欲しい!」と思わせるのではないか。つまり、社会が高度になるほど、社会が人々の需要を作り出す。社会のことをイリッチは「制度」と言い換えていると考えるのであれば、制度が価値を定める、価値の制度化がいたるところで成立することになる。その例が「月への乗り物が考案されれば、月に行くという需要もまた作りだされるということになる」(196頁)ということである。
 その結果、「たえず需要の増大する世界は、単に不幸というだけでは言い尽くせない。―それは、まさに地獄にほかならないのである」(196頁)。
●「人は、制度が自分のためになしえないことがあるなどとは考えることができないので、何でも求めるという欲求不満の原因になる力を発達させてきた」(197頁)。悪文。要は、人々の欲求不満が増大してきたということだ。プロメテウスが火を神から盗んでくるまで、自然というものに対し、人間には「あきらめ」があったはずだ。動物が捕れないならばあきらめて死ぬしかない。どんなに上手くない魚を釣ったとしても、空腹ゆえに諦めて食べるしかない。その世界は諦めで満ちている反面、幸福を感じることもまた容易だったのではないか。ほかにモノがないのだから、きちんと食事ができ、元気に一日を過ごすことができれば、それだけで幸福だったはずだ。
 現代は衣食住すべて揃い、体調も良好であったとしても「欲求不満」が増大するゆえに人々が不幸になる社会である。
●冷戦の影響を受けてか、『「原爆発射のスイッチ」は、今や「地球」の生死を制することができる』という書き方をしている。
●「われわれの制度は、それ自体の目的を作り出すばかりでなく、それ自身、およびわれわれの生存にも終わりをもたらす力をもっているということである」
→この例として、イリッチは軍隊を出す。「軍事用語における安全は、地球をなくしてしまうほどの破壊力をもつことを意味する」。
●「学校は、計画化された世界へと人間を導きいれるために人間を加工する、計画的に作り出された過程となった。学校は、一人一人の人間を、この世界的ゲームの中での役割を演じるのに適するレベルにまで形成するものだとされている。われわれは容赦なく耕作をし、さまざまの措置を講じ、生産活動をし、学校教育をするが、そうすることによって世界を消滅させていくのである」(199頁)
→地球が限界を迎えるのを加速する働き。教育にはそんな側面もある。
●「制度の目標は、制度のつくり出すものとは絶えず矛盾する」(201頁)。「貧乏胎児の計画は、ますます多くの貧乏人を生み出し(中略)学校は、より多くの脱落者を生み出す」
→学校がある限り、「学校が合わない」人間は必ず存在することになる。社会的受け皿がない限り、そのひとたちは不幸に陥ってしまう。この「制度の目標」と「制度の作り出すもの」の両方に目を向けていくべきである。
●「最後に、教師、医者、および社会事業家は、彼らの専門職的仕事が少なくとも一つの共通する側面をもっていることに気づいている。その共通点は、彼らが制度的世話を提供すると、それに対する需要が一層高まっていくということである。しかも、その需要の高まりは、彼らがサービスのための制度を拡充できる速さよりも一層速いのである」(203頁)
→本書の最終結論部分であろう。学校のスリム化・「小さな学校化」は私の考える理想社会であるが、その理論を支える言説となるであろう。「学校化」とは「教えられるのを待つようになる」「教えられたことだけに価値がある」と考える思考形態のことをいう。学校がある限り、人々は自分から学ぼうとはあまりしない。学校というものの持つパラドクスである。
●「人々にその生産物が必要だと思い込ませるために使われた教育費は、その生産物の価格に含まれる。学校は、人々に現状のままの社会が必要だと信じ込ませるための宣伝機関である」(204頁)
→この「教育費」とは広告費のことであろう。
●「われわれは、期待よりも希望のほうが価値があると考える人々につける名前を必要としている。われわれは、製品よりも、人間を愛する人々、また次のように信じる人々につける名前を必要としている。
 まるでつまらないなどという人はいない。
 人の運命は、星野めぐりのようだ。
 人々それぞれに独特である。
 星それぞれが異なっているように。
と信じるのである。(207~208頁)
→この「名前」とはイリッチがラストでいう「エピメテウス的人間」のことである。
→「期待」とは人間が作った需要による欲求のことではないか。制度がもたらす欲求不満には際限がない。それよりもごく自然に存在する「希望」を求める生き方のほうが人間にとって住みやすい社会となるのではないか。
●「われわれは、次のような人々につける名前を必要としている。彼らは、プロメテウスの弟と協力して火をともし、鉄を鍛えるが、その目的は、他人のそばにつきそってその人の世話をしてやる自分たちの能力を高めることである。
 誰にも自分ひとりの世界がある。
 その世界でのすばらしいひととき。
 その世界での悲しいひととき。
 どれも自分ひとりのもの。
という認識を持ちながら。
 私は、これら希望に満ちた兄弟姉妹たちをエピメテウス的人間と呼ぶことを提案する」(209頁)
→理想の人間社会像。
おわりに
●この章は、「脱学校」にほとんど関係がない章であると思う。けれど、読んでいて感動すらする章である。

『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

キーワード:教育的事物

 6 学習のためのネットワーク

教師と学生のどちらも、「欲求不満」。「予算、時間、建築などの教育のための資源が不十分なせいだ」(135)と述べる。
   ↓
「知識や大切に考えていることをいかにして身につけたかを明確に述べるように求められると、彼らは、学校の中でよりも学校外でより多くそれを習得したことをすぐに認めるであろう」(同)
   ↓
「学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。この新しい様式を育てるためには成長に対する態度、学習に有効な道具、および日常生活の質と構造とが同時に変革されなければならないであろう」(136)
→学校以外で「教育的関係」を新たに作っていく。社会での学び、ということか。宮台風に言えば社会システム内で人々が幸福を感じる生き方が出来るような教育プログラムを提供していく、ということになる。
   ↓
「成長に対する態度はすでに変化しつつある。学校に依存することに誇りを感じることはなくなっている」(同)
   ↓
「本章で、私は学校についての考え方をひっくり返すことが可能であることを示すつもりである」
「第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである」
   
一つの意義、どこにも到達しない橋は一体誰に役立つのだろうか

「私がこれから提案しようとしている教育制度は、今日まだ存在していない社会のためのものである」
   ↓
政府や市場のイデオロギーとは違い、「学校制度はどの国でも同じ構造をもち、また、学校の潜在的カリキュラムはどこででも同じ効果をもっている。つまりどこででも、学校制度は近所の非職業的奉仕活動よりも、専門の制度によって生み出されるもののほうが価値があると思うような消費者をつくり出すのである」
→自律的に生きる人間ではなく、他者のサービスに頼る「消費者」を教育は作ることになる。
●「どこででも、潜在的カリキュラムは、(中略)助長する」
「助長する」内容は、
・「自分でやる能力を台無しにしてしまうほど他人からのサービスを受ける(消費する)ことを人々に習慣づける」:学校が「教えられるのを待つようになる」機能を持っている点をイリイチは批判していた。学校のこの機能のように、潜在的カリキュラムは人々の考える力・自分でやる力を奪ってしまう。
・「人間疎外を引き起こす生産」:チャップリンの『モダンタイムス』が描いた工場。しかし、いまはだいぶ改善されたはずだ。流れ作業だけでなく、チームで車体を組み立てる自動車工場がいまはある。
・「安易に制度に頼る」「制度の序列化を認める」:何かあると「社会が悪い」と我々はよくいう。たとえば「もっと社会保障を!」「弱者救済を!」。けれどこれらの主張は本当に自助努力を精一杯やった上で語られているのだろうか? どうも安易に頼るようになってくる。この「安易に制度に頼る」ような態度をイリッチは社会の「学校化」であると批判しているのであろう。

●国の制度に関わらず、「すべての国において学校は基本的には似たようなものになっているのである」(139頁)
●学校は「社会変革上の従属変数」ではない。「社会的経済的変革の結果として学校制度の根本的変革をなしとげようと希望することもまた幻想である」
●中国の科挙制度への高い評価。「三千年間にわたって、中国はどこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしないで、官吏登用試験に合格しさえすれば特権を与えることにより、比較的高度の学習がなされることを保障してきた」。
→フリースクールも同様に、「高検」を目指すならば結果的に「どこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしない」ことを実現できる。
●「脱学校化の必要性をはっきり認めない政治改革の計画は革命的ではない」
→学校がある限り、どの社会も「学校化」されてしまう。故に、ラディカルな社会変革のためには「脱学校化」実現により社会の「学校化」を阻止していく必要があるのだ。ただ、イリッチの先の言葉とこの言葉を見ると「脱学校化は不可能」と言っている気がする。どんなに政治改革をしても学校がある限り、社会は「学校化」する。ならば「学校化」をなるべく小さくする方向にしか政治改革のやりようがないのではないだろうか。
「1970年代における主要な政治改革の計画は、すべて次のような尺度によって評価されるべきである。すなわち、それはどれだけ明確に脱学校化の必要性を述べているか―また、それはその計画が実現しようとしている社会における教育の質をどうすべきかについてどれだけはっきり述べているかということである」(140頁)
→イリッチのいう通りである。日本の教育改革は「もっと学校でやることを増やそう」としている。だからうまくいかない。職業教育も、シチズンシップ教育も、知らぬ間に学校の中に入り込んできた。
 私の持論は学校の規模縮小(ダウンサイジング)である。学校でやることは知育のみにし、あとは学校外での学びの場・生活の場を増やしていくべきだ。これは社会システムの流れもくんでいる。これから、大人も一つの会社のみに通う時代は終わるだろう。ワークシェアリングにより、半日で会社がおわることもざらになってくる。そのとき、有り余る時間を地域のサークル活動や勉強会、スポーツクラブで大人が過ごすこととなる。大人がその社会に生きているときに、子どもが一日中学校に縛り付けられていることに違和感が持たれるようになるだろう。子どもも学校で短い時間を過ごし、なるべく多様なコミュニティーやサークルで生活していくほうが将来のためになる。「有り余る時間を何に使うか」という教育になるわけだ。けれど、これを学校が行うと本末転倒である。学校外の時間は個人の責任と自由によって使い方を決めていくべきだからだ。大人のコミュニティー活動に子どもも参加していく。そうすると、学校外での「社会での学び」が成立するようになる。
 つまり、学校でやること・学校で過ごす時間を減らしまくっていくことが、将来の子どものためになるのだと思う。

新しい正式な教育制度の一般的特徴(140頁〜144頁)

●「すぐれた教育制度は3つの目的を持つべきである」
⑴「誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること」
⑵「自分の知っていることを他の人と分ちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること」
⑶「公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやること」
→⑶は政治活動の自由につながっているのだろう。
●「学習者は、特定のカリキュラムに従って学習することを義務づけられるべきでない」
●この結果、「すぐれた教育制度の下では、本当に誰もが自由に論じ、自由に集会を持ち、自由に報道ができるようにし、またそれゆえにそれらのすべてが十分に教育に役立つものとなるように近代的科学技術が用いられる」状態を目指していくことになる。

●「学校は、次のような仮定に基づいてつくられている」
⑴「人生の何ごとにも秘訣があるということ」
⑵「人生の質はその秘訣を知っているかどうかによって決まるということ」
⑶「その秘訣とは秩序のある過程を連続的にたどることによってのみ知りうるということ」
⑷「教師だけが適切にこれらの秘訣を明かすことができる」
●「新しい制度は、身元などの証明書や家柄や門閥にかかわりなく学習者が利用できる学習経路、すなわち―彼のすぐ近くにいない仲間や目上の人々をも利用できるようになる公共の広場―であるべきである」
→生まれによる文化資本やハビトゥスを排除するという構想が含まれているようだ。
●「『学習経路』、すなわち学習したことを伝授しあう機会があれば、それだけで真の学習に必要なあらゆる資源を含むことができると思う」
→「伝授しあう機会」とは、現代ではブログ空間をさすことができるのではないかと考える。イリッチの主張を実現するには生身の人間同士が会うよりも、ブログによる学習のほうが問題が少なくなるとすら考えられる。生身の相手と会うとき、相手の年齢・性別や身分という外見に引きずられ、本来の目的である自由な学びがなおざりになってしまう危険性がある。子どもと大人が出会い学ぶときにも、この危険性や誘拐・暴行の危険がある。けれどブログ空間では見た目の差別はなくなる。誰とでも対等に学ぶことができるのだ。
●4つの資源を利用可能にする特別な方法:「機会の網状組織」。
「必要なのは、公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークである」
例:ラテンアメリカにおけるテープレコーダーのネットワーク構想。「字の読める者にも読めない者にも同様に彼らの意見を録音し、保存し、広め」ることできる点が構想の理由である。このネットワーク構想にはフレイレの影響があるように思われる。フレイレの学校によらない識字教育は、政治闘争の側面も持っていたからだ。衆愚政治を出し、よりよき民主政治を実現するための方法として、このネットワーク構想が挙げられているように思う。
●「科学技術自体は、人々の自主性を伸ばし、学習を発展させる目的のためにも、あるいは官僚主義と他人に教えることを発展させる目的のためにも、利用できるのである」
→何のために科学技術を使うかが重要である。

四つのネットワーク(144〜146頁)

●「『何を学ぶべきか』という問いからではなく、『学習者は、学習をするためにどのような種類の事物や人々に接することを望むのか』という問いから始めなければならない」。
→制度として個々人の学習を考える(「何を学ぶべきか」という「べき論」)のではなく、学習者主体の学習観が必要である。ちょうど、近代公教育が「国民育成」(「べき論」)から始まったことと軌を一にしている。
●「学習をしたいと思う人は、自分にとって情報と、その情報の使い方に対する他人からの批判的反応との両方が必要であることを知っている」
→あんまりいい訳じゃない。「学習をしたいと思う人」がここでいったことを「知っている」ことなんてそんなにあるわけじゃない。
→集団による学びをイリッチは意図しているようである。正統的周辺参加、と教育心理学でいわれている。参加による学び、である。学びにおける同僚性の重要性は「従来、教育のための資源とは考えられなかった」(145頁)。あまり意識されてはいないが、イリッチは「集団による学び」の重要性も指摘しているのである。
→ソーンダイクらのティーチング・マシンの欠点は、学習を単独での営みだと捉えた点である。正統的周辺参加を意識した学びでなければ、よほど意志力のある学生でないと学ぶことができない。大学の通信教育課程での卒業者が2割以下に留まるのはそのためである。通学していれば、たとえ友人がいなくとも「自分以外にもこんな人たちが同じ授業を受けているのだな」と実感し、学習にいそしむことができる(通学課程のほうが圧倒的に単位がとりやすい、という側面ももちろんあるが)。
●「われわれは、新しい関連構造について考えなければならない。それは、教育のための資源を求めようとする誰もがその資源を便利に利用できるように意図的につくり上げられる関連構造である」
→ブログ空間は知らぬ間にこれを作り上げてしまった。ブログ空間が学習に使える、ということを多くの人は知らないだけであるのだ。
●「どんな教育のための資源も利用できるようにしてくれる様々なアプローチを、4つに分類して示そうと思う」
⑴教育的事物のための参考業務:「正式の学習に用いられる事物や、過程の利用を容易にする」
→工場内に自由に使える機械を置いておくなど、人々が自由に学べる機会を保障する働きがある。
⑵技能交換(160頁から)
⑶仲間選び
⑷広い意味での教育者のための参考業務

教育的事物のための参考業務(147〜159頁)

●「ある人の環境の質と彼がその環境に対してどのような関係にあるかは、彼がどれだけ多くを偶然に学ぶかを決定するであろう」
→文化資本やハビトゥスにつながる話である。通常、経済的に貧しい家に生まれることは、文化資本の貧しい家に生まれるということと同義である。
●以下の部分で、機械や道具・書物などを自由に使えるよう環境整備することによって「偶然による学び」が起こるようにしている。イリッチはそれにより、文化資本やハビトゥスの不公平さを是正しようとしている。
→いま公立の無料の博物館や郷土資料館が多く街には存在する。けれど、十分に活用されていると言えるのだろうか? 子どものまわりに「偶然による学び」が起こるようにいろんなものを配置したとしても、それが活用されるかどうかはまた別問題なのではないだろうか。
●機械それ自体への、イリッチの批判。専門家しか時計をいじれなくなったこと等を通じ、彼はこういう。
「専門家がその専門的な知識をわかりにくくし、他人の値ぶみをますます不可能にして、人々の発明心を抑制する社会となることを促進する傾向がある」
→近代文明はブラックボックス化をもたらした。たとえば、今私はマック・ブックでこの論考を書いている。この白いPCの内部がどうなっているか、私は知らない。カラフルなコードが複雑に絡み合っているのかもしれないし、一枚の小さなLSDが全てを制御しているのかもしれない。ひょっとすると小さな妖精が入っているのかも…。内部構造を知らなくても、パソコンは使えてしまうのだ。これぞブラックボックスである。
「教育上の材料は学校に独占されてしまっている。簡単な教育用の事物が知識産業によって高価に包装されている」。知のブラックボックス化・知のパッケージか。文明のあり方への再考が必要だ。
●本来、教育の役に立つはずの「事物」が日常から切り離される。学校や社会のしわざだ。
●「物をカリキュラムの一部分としてのみ利用することは、それらを一般的な環境から取り去るだけのことよりも一層悪い影響を与える。それは、生徒の態度を堕落させるのである」
●「教育用のゲーム」を積極的に活用していくべきだ。そうすれば数学の集合論や言語学などが「ほとんど骨を折らずに理解できる」。
→ニンテンドーDSでは英単語『ターゲット1900』や数学の問題集、歴史用語学習に役立つソフトが多く出ている。宅建用のソフトも出ている。「教育用のゲーム」を活用するイリッチのアイデアは、かなりの程度実現している。授業の中で「じゃ、この時間はDSを使って自由に学習してください」という時間はまだないが…。
→イリッチは続けて、「教育用のゲーム」が競争を刺激することがないようにすべきだ、と指摘する。問題児とされる子どもなどには「教育用のゲーム」は「人間性を解放する教育の特殊な形態」となる。
●ここまでのイリッチの指摘は学校の「外」に教育用の事物を多数配置していくべきだ、というものであった。イリッチはこれらの事物が学校に置かれていると、管理や保管をするのに多くのコストがかかるという論を展開し、先の「学校外に教育用の事物を配置していくべきだ」との主張を別の視点から説明している。
●トランジスタラジオや小型運搬車の例。ここから皆が必要に応じて活用できる「相互親和的」な設備を社会に設けていく必要性が語られる(「制度スペクトル」の欄を参照)。
●「人工的に作られたものを教育のために脱学校化するためには、その加工物や製造過程を誰にでも利用可能なものとし、―それらの教育的価値を認めること―が必要となるであろう」
●イリッチは「もしも学習の目標 」と語る。そのあとに社会の至る所に学習を気軽にできる施設(図書館やジュークボックスなど)が多く作られることの重要性を語る。けれど、ここでいったものをわざわざ街の中に作るとき、田舎では難しいものとなる。現代ではそこまでしなくても、ネットで音楽も調べられれば写真を持ってくることも出来る。
 ただ内田樹は大学や学校にいろんな人がいて、知らぬ間に学びに引き込まれることの重要性を語る。人との出会いが少なくなる現代、あえて社会の中にネット同様の多様な教育的事物との出会いの場を設けることが大事なのだと思う。
●「学習用事物」のネットワークの財源をまかなう2つの方法。
学校の「儀礼的」側面に使われている費用を、市民の教育のための事物購入費用に充てる。
●子どもを少しの時間雇う者に税制上の優遇を行うべき、との主張。「12歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任を持つ人間であると認めることである」
。そうすることで「彼らは、知識や事実を発見する彼らの能力を民主政治上の仕事に活用できるようになろう」。徒弟制度の意義を再確認する必要がある。
●ある思想家は「社会における教育の意義を考えるのではなく、教育のために社会が何をできるかを考えるべきだ」というパラダイム転換を主張した。いわゆる「教育のための社会」の主張である。イリッチの本を読んでいると、この「教育のための社会」という構想を実現しようという志が感じられてくる。
●「科学の多くは市民の手の届かないものになってしまった」現状への批判。教育的事物を社会に配置することでこれを解決しようとしている。
●「教育の目的で人々が共有できるそれらの事物をどんどん利用していけば、われわれは十分に啓発され、これらの究極的な政治的障壁を突き破るのを大いに助けられるかもしれない」。
→いまリナックスなどのオープンソースのソフトウェアが多くある。ネット空間では、データを一人で独占するのでなく、多くの人が触れることのできる「共有」化する時代に入った。
●「学校を制度的に逆転させれば、個人は教育のためにそれらを用いる権利を取り戻すことができるようになろう」。

追記
●シャノアールでこのレジュメを作成している。店員が走ること、走ること。少ない人員でがんばっている店なのだと同情心が起こる。奥でガラスの割れる音が頻繁にあるのには閉口する。

宮台と卒論。

イリッチの著作をもとに脱学校化を考えるのが私の卒論のテーマである。その中に、フリースクールの実践も「脱学校」の一つとして描きたい。

「脱学校」した学びの姿について、いろんな学者が意見を言っている。

⑴上野千鶴子:知育限定の小さな学校。社会での学びを中心とする。(『サヨナラ、学校化社会』)

⑵宮台真司ほか:教育チケットを用いた教育制度。子どもは塾で教育サービスを受けても学校でサービスを受けても、はたまたフリースクールに行っても「教育を受けた」ことになる。(『学校が自由になる日』から「学校リベラリスト宣言」)

これらを整理してみるのも大切だろう。

ちなみに、卒論を書く中で「宮台を読まないとな〜」と実感してきた。いま、いろいろ読んでいる。リストは下の通り。ずいぶん、食わず嫌いをしていたが、なかなかに面白い社会学者である。

●『終わりなき日常を生きろ』読了。これで宮台にハマった。
●『学校が自由になる日』読了。「学校リベラリスト宣言」が秀逸(宮台の文ではないけど。ちなみに内藤朝雄の文章)。佐藤学の「学びの共同体」をボロクソに言う。
●『野獣系でいこう!!』読了。宮台の私生活、こんなに公開してもいいのか?
●『幸福論』未読。
●『日本の難点』読書中。
●『サイファ 覚醒せよ!』読了。
●『14歳からの社会学』未読。

イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』に見る、「価値の制度化」・「脱学校」という言葉の意味合いについての一考察。

*本稿は、大学のゼミで2009年5月21日(つまり今日)に私が発表する予定の原稿です。このブログで書いてきたことを踏まえ、イリッチの「脱学校」や「価値の制度化」を整理しました。

1、はじめに。

 私は2年生の頃からフリースクールについて専門的に研究してきた。卒論もフリースクールを社会学的に考察することで書き上げたい、と考えている。その際、イヴァン・イリッチら脱学校論者の文章を基に、フリースクールなどのオルタナティブスクールの展望をしていきたい。
 それにあたって、フリースクールにつながる発想である「脱学校」について、一度整理しておく必要を感じている。整理することで、新たな視点からフリースクールについて見ていくことが可能であると考えているからだ。そのため今回はイリッチの著作『脱学校の社会』を基に、「脱学校」とはどのようなものかを押さえていきたい。
 そのために本稿では「脱学校」を理解する上で必要な「価値の制度化」という概念を見たあと、改めて「脱学校」について見ていく。

2、「価値の制度化」とは何か。

(1)「価値の制度化」についての自分の考え。

 イリッチの文章をまず見てみる。

多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。(中略)「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。(13頁)

 ここで語っているのは、「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
 これは何を意味するのであろうか。
 本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった!」と大歓喜している。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。価値Aを普通自動車運転免許取得、価値Bが自動車教習学校卒業であるとき、少年は不幸である(ときどきいますけどね)。
 これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。そして学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値B)。けれど現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえば自宅での学習を行うとか、フリースクールにいくとかする選択肢も存在するべきだ。けれど制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが重視されるようになる。この価値の転倒をイリッチは「価値の制度化」と呼んだのであろう。

(2)「価値の制度化」からイリッチが言おうとしたことは何か。

 再び、『脱学校の社会』の文章を見てみる。

私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである。(14頁)

 この文章は(1)で説明した、価値の制度化についてのイリッチの考察である。このなかでイリッチは「物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化」という例を挙げて現代文明に警鐘を鳴らしている。つまり、イリッチは現代の「価値の制度化」という問題を訴えたいのであって、学校は一つの例にすぎない。価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしているのだ。

 再び本文に戻る。

必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである。(14頁)

私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ。(15頁)

 つまり、イリッチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではないのである。「脱学校」は、あくまで2次的な目標である。イリッチ自身が「書きやすい!」と感じた好例だったため、学校をテーマにしているのだろう。先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」であるといえる。
 「価値の制度化」を行うべき物の例として、イリッチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」を挙げている。

私は学校の潜在的カリキュラムの分析を通して、社会の脱学校化は公教育にとって
プラスになるということ、そしてそれと同様に、家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーションも、同じような過程を経ることから利益を得るであろうことを明らかにしようと思う。(15頁)

 この文が示している通り、価値の制度化を排す手法は「脱学校化」と同じプロセスなのである。
 イリッチは続ける。

その分析(価値の制度化を排すことで利益を得られる、ということの分析)のために、この最初の論文では、学校化されてしまった社会を脱学校化するということはどういうことかを説明しておこう。(15頁)
*(  )は藤本。

 ここから、「学校化」された社会の特徴の記述が始まる。「学校化」の現代的事例は上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。
 なお上野はこの本の中で次のように「学校化社会」を説明している。

もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50 頁)

 イリッチの定義と宮台・上野の定義とは若干ニュアンスが異なっている。けれど、「学校化」の現代的意義を説明していることにかわりはないであろう。

 本章のまとめを行う。イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎないのである。

3、「脱学校」とは何か。

 教育学者は『脱学校の社会』を意図的にか知らぬが誤解している。佐藤学でさえも『脱学校の社会』が〈学校の廃止〉を訴えた本である、と解説しているほどだ(聞き書きなので、出典を探します)。けれど実際にはイリッチは〈全員が学校に行かなければならない〉ことを批判しているのだ。
「解説」の欄を見よう。

イリッチが「脱学校」という場合、すべての学校を廃止したり、あるいは学習のための制度のない社会をめざしているのではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を求めているのである。そこでは学校以外に選択の余地がなかったり、全員が就学を義務づけられることがなくなるのである。しかしそれは単に学校をめぐる形式のみの変化にとどまるものではない。もっと深く社会のエートスの変革にかかわることなのである。(221頁)

 脱学校とは、単に学校を廃止することを意図したものではないのである。そもそもイリッチは「学校」の定義として、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と書いている。この定義に当てはまる「学校」の批判をイリッチは訴えたのである。『脱学校の社会』でも、大学や技術修得の学校は存続させることが必要であると書かれている。
 イリッチは価値の制度化により〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と考える姿勢をこそ批判したのである。

学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
 ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである―両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。(32〜33頁)

 先に「価値の制度化」について見てきた。「脱学校」とは〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉とみる「価値の制度化」の状況を乗り越え、本来的な学びの復権を図ろうとすることをさすのである。
 
4、「脱学校」の現代的意味について。

 〈イリッチがいうほどまで制度を変えなくとも、脱学校は可能だ〉、というのが『脱学校化社会の教育学』のテーマである。本書は2009年の発行。脱学校化というものの現代的意味についてまとめられている。
 タイトルである『脱学校化社会の教育学』は「脱「近代教育」社会の教育学」と理解するほうが、誤解が少ない。つまり、『脱学校化社会の教育学』の著者たちは近代公教育制度批判と「脱学校」を同じものと見ているのだ。

 先に見てきた通り、イリッチは制度による教育ではなく、教育的関係による教育を訴えたのであった。

学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。(136頁)

 この文章のあと、イリッチは「新しい様式の教育的関係」として「学習のためのネットワーク(ラーニングウェッブ)」を示している。けれど、ラーニングウェッブ導入をすることだけが、「教育的関係」を創り出すことにはならないと考える。イリッチは「学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)といっている通りだ。
 PISAショック以来、フィンランドの教育が着目されるようになっている。フィンランドでは少人数による学びが導入されている。また佐藤学は90年代後半から(つまり浜之郷小学校開学から)「学びの共同体」を実践している。両者は子どもの協同な学びによる授業を行っている(『脱学校化社会の教育学』)。
 イリッチは近代社会を支えるために開発された「近代公教育制度」を批判したのであって、学校それ自体の廃止を訴えたわけではない。日本的意味では、文科省支配下にある「学校」(学校教育法でいう1条校)による教育を批判しているのである。イリッチは一方的な教員による教え込みを批判している。であれば、そうでない学校、つまり近代学校らしくない学校の導入をこそ展望していたと言える。
 無論、学びの共同体やフィンランドメソッドでイリッチの主張をすべて実現できるわけではない。けれどイリッチの主張に近いのは確かである。
 まとめを行う。『脱学校化社会の教育学』の中において、近代公教育制度批判と「脱学校」は同義である。これは現代の教育学においてもそうであると言えるのではないだろうか。


「4、脱学校の現代的意義について」の追記。
このあと、友人のOと話し、重要な点に気づいた。

Oは『脱学校の社会』に学校改革を期待することを〈インドカレー屋でカレーうどんの話をすること〉という絶妙な比喩で批判した。

もともと、「脱学校」とは脱構築主義に基づく概念である。脱学校論は「まず学校の解体ありき」の話のため、脱学校論に「学校を解体しないとき、どう改良できるか」を要求するのはお門違いなのだ。

その点『脱学校化時代の教育学』は、根本的に「脱学校」を理解し損ねていることがいえる。「脱学校」とは、イリイチのいう定義(「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」『脱学校の社会』59頁)に当てはまる「学校」を廃止することを訴えている。そのため、現状の学校内での「教育改革」や「近代公教育批判」をおこなうことは、「脱学校」では語ってはならない事柄なのだ。私もすっかり誤解していた。「近代公教育批判」と「脱学校」は同じではない。本文もそう修正すべきだが、私が騙されたという経験を忘れないためにもそのまま残しておくことにした。

 あれ、でもイリイチのいう「学校」にあてはまらない実践をする学校教育なら、「脱学校論」で語れるんじゃないだろうか? 残念ながら『脱学校化時代の教育学』はフィンランドメソッドや「学びの共同体」など、イリイチのいう「学校」に当てはまる実践くらいしか取り上げていない。もっと言ってしまうと、この本は幼児教育の本なので、そもそも「学校」を語るのは本題ではない。にもかかわらず、イリイチの「脱学校」をタイトルに謡うのは反則ではないか(幼児教育は「幼稚園」でおこなうものであり、「学校」でおこなうものではないからです)。そのため、『脱学校化時代の教育学』はイリイチの「学校」定義を超えた学校の実践を取り上げるべきであったのだ

イリイチの「学校」の定義をこえる教育活動として、一番簡単にイメージできるのは大学であろう。私のいる早稲田大学でも、定年後に入学してきた60歳の学生がちらほらいる(イリイチの学校の定義「特定の年齢層」に当てはまらない)。大学は出席しなくても単位が取れる(イリイチの定義「履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求」に当てはまらない)。イリイチの「学校」に当てはまらないからこそ、彼が〈脱学校化をおこなっても、大学や技術学校は残すべきだ〉と主張しても矛盾は生じないのである。
昨日、偶然に都立新宿山吹高校の存在を本で知った。この学校は無学年・単位制の高校である。宮台真司らの『学校が自由になる日』でも絶賛している学校だ。異年齢集団が通学でも通信でも学ぶことのできる高校。これもイリイチの「学校」定義から外れた学校である。
『脱学校化時代の教育学』とのタイトルを使うなら、イリイチの「学校」から外れた学校をこそ、取り上げるべきであったのだ。

この、脱学校論の「誤解」を改めるだけでも、卒論になりそうだ。

5、イリッチの脱学校に対する私の批判。
 
 いままでずっとイリッチの脱学校論について考えてきた。そのイリッチは「脱学校」を訴えることで本来的な学びの復権を訴えている。
 けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものであるといえる。まったくやる気のない生徒でも、何かしらかを学ばせ、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得できる場所である。また、黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。

たとえ教科の内容はまったく理解できなくても、生徒は学校で勉強することで知らず知らずのうちに、時間の厳守、おとなしく着席している忍耐力、あたえられたノルマをはたそうとする動機づけ、規則や上位者の命令に服する秩序感覚、他人と協調してゆく能力といった、総合的「道徳」能力を学んでいるわけである。(森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000、184頁)

 イリッチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。けれども、私は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき(ちょうどイリッチ主張する、ラーニングウェッブの世界だ)、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。イリッチなどの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、私は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。
 カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる(『自殺論』)。これを、学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリッチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば私など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
 イリッチのいうように、一概に「学校」の廃止を主張は出来ないのではないだろうか。

「5、イリッチの脱学校に対する私の批判」の追記。
発表後、「デュルケームと脱学校は何の関係もないから、例としてはあげないほうがいい」とのアドバイスを頂いた。おっしゃるとおりです。次はもっと適切な比喩を使おうと思う。

6、参考文献

青木久子・磯辺裕子『脱学校化社会の教育学』萌文書林、2009
イヴァン=イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』東京創元社、1970
上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002
エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985
奥地圭子『不登校という生き方』NHKブックス、2005
田中智志『教育学がわかる事典』日本実業出版社、2003
森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000

*以下のサイトも参考にした。
小春日ダイアリー https://nak-koharubi.blogspot.com/

『脱学校の社会』解説より

「脱学校の社会」というのも単に社会から「学校」を無くすことを指しているのではなく、「社会の脱学校化をはかること」を意味しているのである。それは「脱学校化された社会」(deschooled society)というのが「学校化された社会」(schooled society)に対応させられていることからもわかる。(220頁)

『脱学校化社会の教育学』

『脱学校化社会の教育学』が言おうとしていることは、「学校のパラダイム転換」としての「脱学校」ということである。

小手先の改革ではなく、パラダイムの転換である。そのためには、教育という営為そのものを問うというアプローチが必要であることを、著者らは繰り返し述べてきた。(272頁)

追記
 のちに小中さんとの話し合いの結果、『脱学校化社会の教育学』の内容は「脱学校」を正確に捉えていない、ということになった。「脱学校」は「まず学校の廃止ありき」の発想である。学校という制度内の変革を少しも説いていない(インドカレー屋でカレーうどんを注文するくらい、無理な話だと小中氏は語った)。けれど『脱学校化社会の教育学』は近代の「学校」ではなく、これからの時代に適合した新しい「学校」のしくみを作ろう、と語っているのである。「脱学校」は学校廃止・学校外での教育制度を語った概念である分、『脱学校化社会の教育学』的認識の仕方は端的に間違っているのである。

『サヨナラ、学校化社会』にみる、「学校化」

 上位者を上位へ、下位者を下位へ再生産するカラクリのなかで、学校はなにをやってきたかというと、学校的価値を再生産してきました。
 学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。だから学校はつまらないところです。いまを楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、すべてを偏差値一本で評価することを学習するのが学校なのですから。
 その学校的価値が学校空間からあふれ出し、にじみ出し、それ以外の社会にも浸透していった。これを「学校化社会」といいます。学校化社会という用語はもともとはイヴァン・イリイチの言葉ですが、最近は別な文脈で流通しています。それというもの、宮台真司さんが学校化社会という用語を使っているからですが、私はこれを卓抜なネーミングだと思います。(50頁)

 上野千鶴子は「学校化社会」をこう説明している。
 追加説明として脚注に「学校化社会」として、さらに説明を加える。

学校化社会
もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50頁)

 ただ、田中の『教育学がわかる事典』では「学校化」の意味は宮台の『終わりなき日常を生きろ』に書かれている、と示されているのだが、私が『終わりなき』を読んでも結局最後までそういった記述を見つけられなかった。何故だろう。
 引用した2章「学校に浸食される社会」の終わりには、上野が学校化社会を総括した次の言葉が書かれている。

学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります。(57頁)