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恋愛メディア論

 インディ・ジョーンズの映画では、基本的に冒険の結果、ジョーンズはヒロインと恋に落ちることになる。これは冒険がメディアとして機能している。1対1のエロス的関係(=対幻想by吉本隆明)のみで、間に何のメディアも挟まない恋愛は長続きしないことを読み取ることができる。
 
 パウロ・フレイレは問題化型教育において〈教材〉をメディアとすることで他者(=学習者)相互を繋ぐ工夫をした。同様に、恋愛においても両者の間にメディアが必要である。

 かつて結婚は親が決めた。これも二人のエロス的関係では性愛関係を維持させるのが難しいゆえ、「親」や「家」というメディア(=物語)を使ったのだ。文化人類学的知恵の形態である。この「親」や「家」のような男女間の緩衝剤となるもの、つまり間にある物(=メディア)が必要なのである。

 だからカップルは海や遊園地に行き、物語を共有(=メディア)するのである。

映画『真夜中のカーボーイ』(1969)からみる、「死」の贈与論。

 文字通り、真夜中に本作を見て書いている。

 ストーリーなどはネットでいくらでもあがっているので、社会学的(ないし教育学的)考察点を中心に描くことにする。

 親には愛されないが、祖母には愛された主人公・ジョー。職場のレストランでも、ニューヨーク行きのバスでも、ジョーは誰とも会話(=対話)が成立しない。話を振るが、相手は会話に乗らず、モノローグに終ってしまう。他者からのすれ違いをさんざん示す本作は、会話の成立しない「孤独さ」を強烈に表現している。
 回想シーンには子ども時代と前の恋人のシーンばかり。ジョーは過去にすがって生きている。それが嫌で大都会へ行くのだが、やはり上手く行かない。そんなこんなでダスティン・ホフマン演じるリッツォと共同生活を送ることとなる。

 はじめ、誰とも会話が成立しないジョーであるが、リッツォと出会ってから会話が成立するようになる。リッツォはいわば潤滑剤である。本作では2回バスに乗ることで場面が転換するが、1回目とちがい、2回目ではリッツォとジョーは楽しげに談笑をするようになっている。しかし、フロリダ行きのバスから降りた後、ジョーは誰かと会話をすることは本当に可能なのか(後述する「贈与」が働いている、とみるならばジョーはバスに乗る前よりも成長できているため会話が成立する可能性が高い)?

 本作を見て疑問に思うのは、何故ジョーは自分を騙した(=男色の斡旋人のもとに送られる)リッツォに友情を覚えるのかという点だ。宿を提供してもらったとは言え、憎しみすら抱いた相手である(内面のシーンでは首を絞めている)。おそらくではあるが、都市の片隅で自分同様「孤独」を感じる点にシンパシーを覚え(人間は間共振的律動系である以上、波長が同調している、ということである)、リッツォの存在自体から救済を得ていたのではないか。「自分は1人じゃない」という認識を得るためにリッツォに友情を抱いていたのであろう。

 こうなると、リッツォの方が逆に「贈与」(マルセル・モース)を受け続けることになる。病人の自分の世話という「シャドウ・ワーク」の受け手に、ジョーが志願して行ってくれている。ジョーの献身(=文字通りの売血も含む)という「贈与」に対し、リッツォは何も「反対給付」することができない。ラストでのリッツォの死は、ジョーの「贈与」に対する「反対給付」としての「贈与」であったとは考えられないであろうか。

 『贈与と交換の教育学』において矢野智司は、時に人は他者から「死」を贈与され、それを背負って生きていくことを余儀なくされる、と述べている。本作がまさにそれである。リッツォの「死」を贈与されたジョーは、何らかの形でその贈与への反対給付の義務を負う。マルセル・モース『贈与論』以来の構図である。
 本作を通してみると、ジョーはこういった「死」の贈与を2回、精神病院に送られた「恋人」もカウントするなら3回、「贈与」を受けている。その度にジョーは生き方を変える決断をする(リッツォへの反対給付の仕方は本作では明らかではない)。「恋人」の別れ(=死に近い)がニューヨークでカウボーイ(=男娼)として生きる決断につながり、祖母との別れが子ども時代の甘い記憶からの「別れ」に繋がった。ジョーは生きるのが下手な人物ではあるが、「死」の贈与への反対給付を絶えず行いつづけている点では評価できるのである。

 月並みな表現を使えば、他者の死と向きあう分(「死ぬのはいつも他人ばかり」とは寺山修司の名言である)、人間は強くなるというテーゼにまとめられる。他者の「死」という「贈与」を受け止められるとき、人間は成長する。あるいは、受け止めようと努力することが自分を成長させる。この場合、他者の「死」という「贈与」に、個人が自分の一生をかけて「反対給付」する義務を負うためである。この「反対給付」が成長である。
 逆に、この「死」の「贈与」から逃避したとき、人間の成長は止まる。個人の成長という「反対給付」から逃れているためである。
 親しい人物からの「死」の「贈与」は重々しく個人の中にのしかかってくる。この「贈与」の重みから逃れず、「反対給付」としての成長を遂げることが、人間の人間たる所以なのである。
 

盆踊り

盆踊りについて、浄土寺という寺に貼られていたポスター。

盆踊りはもともと、時宗の念仏踊りに起源がある。それが時を経るうちに祖先供養的意味合いが付加されるようになった。

宗教にとって教義は最重要であるはずが、次第しだいに意味合いは変わっていく。

供儀としての「間引き」

 中世(および近代初期)、密やかに「間引き」・「口減らし」は行われてきた。これは、ある種の「供儀」(=捧げ物)として行われたのではないか。
 「7歳までは神の内」の裏側である、神への返還可能性が「間引き」である。この「返還」の「危うさ」・「うしろめたさ」を「供儀」として「聖化」した営みだった。
 あまり言及されることはないが、障害をもつ子ども達の多くも、こうして「供儀」として「間引」かれてきた。それを「聖化」して誤魔化すのが人間の文明である。

 「ハンデ」のある子どもへの「特別」な「支援」といえば聞こえはいい。しかしこれは無理に「聖化」し「キレイに」見せようとする発想から抜け出ていない態度である。「間引き」を「聖化」してきた歴史から全く抜け出てはいない。現在の特別支援教育の課題は、無理にきれいに見せている点にある。。

シルバーパワー

老人が「シルバーパワー」だという看板。

老人の力をもっと評価すべしとの言説のようだが、「役に立たないシルバー層」の存在価値を逆に認めない結果となる。

老人を人間存在として認めるのではなく、有益/無益で判断する危うさがこの看板にはあふれている。

例えば寝たきり老人は社会的に「無益」であると言えてしまうのが、この看板の言説の「危うさ」なのである。

24時間テレビと障害者論

 『五体不満足』、ずいぶん売れましたね。あれが逆に障害者に対するステレオタイプを強調した気がします。今年も、どうせ8月には24時間テレビなるものが放映されます。そこでは「頑張っている」障害者がたくさん出てきて、おそらく障害者とは仕事以外では決して関わらないであろう「アイドル」たちが、障害者と一緒に何かに「挑戦する」さまを見ることができるはずです。
 障害者って、「頑張」らないと、認めてはもらえないようです。「障害を持っているけど頑張っている、じゃあ僕らも!」というノリには「障害者=頑張るもの」という認識がへばりついています。
 僕はいつも、頑張って生きていません。きっと、どの人もそうでしょう。「頑張って」生きている姿を要求すると言うことは、要するに自分とおなじ人間として扱っていないということです。僕の周りで「頑張っている」人なんて、そんなにいないですよ。ただ障害者だけが「頑張る」ことを要求されるのです。そして障害者に理解があると思っている人に限って、「障害者の子の頑張っている姿から元気をもらいました」と平気で発しています。
障害者にはいろんな人がいます。ウソをつく人、人の悪口をいう人、犯罪を犯す人などなど。悪人もいれば嫌な人もたくさんいます。決して「頑張る」人だけではありません。それは健常者にとっても同じでしょう。健常者にも善人・悪人がいるように、障害者にもいろんな人がいます。その現実を忘れて、「障害者ってこんな人」と思ってしまうことは、コミュニケーション以前に偏見で障害者と接していることになります。

フロム『悪について』

フロムの著書『悪について』で提示された概念を整理する。

(1)サディズムの実態について
「サディズムの目標は人間を物体に、生物を無生物に変えることであると言えばよい。なぜなら完全絶対の統御によって、生物は生の本質である自由を失うからである」(Fromm 1964:31頁)。ここから考えると、フレイレの『被抑圧者の教育』に出てくる預金型教育は生徒を客体(つまり、モノ)として扱っているためサディズムに基づく行為といえる。生徒はあくまで知識を入れられる器なのだから。

(2)ネクロフィリアとバイオフィリア
ネクロフィリアとは「死を愛好する」という意味(同:40頁)。ネクロフィリアに基づく人間観について、フロムは次の例をあげる。「スポーツ・カー、テレビ、ラジオのセット、宇宙旅行のほうが、女や恋や自然や食物よりも興味があり、生よりも生のない機械的なものを取扱うことに刺激される男性が、実に多いことは明らかである」・「かれは車を見るような眼で女を見る」(68頁)。オタク系の恋愛ゲームやアダルトソフトを好む衝動は、まさにネクロフィリアな態度である。メイド喫茶や妹喫茶も、きまりきった関係を要求する意味でネクロフィリアな場である。
ネクロフィリアに対立する概念はバイオフィリアである。「生を愛好する」というのが元の意味である。「《バイオフィリアの倫理》は、それ自身善と悪の原理をもつ。善は生に寄与するものすべてであり、悪は死に寄与するものすべてである。善は生を尊ぶことであり、生、生長、展開を促進するすべてのものをいう。悪は生を窒息させ、矮小にし、寸断するすべてである。喜びは美徳であり、悲しみは罪である」(52頁)。イバン・イリイチが人間性の回復を訴えていたととらえているが、この「人間性の回復」という見方は「善」なのである。

(3)教育における、バイオフィリアの必要性
「子供の場合、生の愛好の発達に最も重要な条件は、その子供が生を愛好する人びとと共に在るということである。生を愛好することは、死を愛好することと同じように伝染しやすい」(58頁)
ここから、子どもの教育におけるバイオフィリアの必要性が読み取れる。いきいきとした人間的関係の中での教育こそ必要なのだ。教室が預金型教育の場になっているのであれば、それはネクロフィリアの環境になっている。「生を愛好する」バイオフィリアな環境(ちょうどイリイチのいうconvivialな場でもある)を、教育の中で増やしていく必要がある。
ニンテンドーDSから学習ソフトが出るなど、CAIをめぐる環境は発展を続けている。知識習得型の学びであればCAI機器やテキスト・問題集の自習で構わないという意見もあるが、この学習の仕方はネクロフィリアに基づく教育観である。学校という場は多様な他者と交流をする場であるとの考え方があるが(佐藤学の「学びの共同体」など)、この発想はバイオフィリアの場所としての学校再考の姿勢である。

(4)ネクロフィリア・バイオフィリア概念の意義
 よく教育者は「人間的関係」や「人間性」といった言葉で現状の公教育批判を行う。この場合、抽象度が高い議論となってしまう。「人間性」とは何か、イメージできないからだ。この「人間性」という言葉を、プラス面・マイナス面の二項対立図式から描いてくれるのが、フロムのいうネクロフィリア・バイオフィリアの図式である。この図式を用いれば、教育環境について「人間性」という言葉を使わずに議論をすることが可能になる。

(5)フロムへの疑問
 『悪について』において、悲しみは悪であるとフロムは語るが、人間にはある程度の「悪」が必要な側面がある。絶望や失望、悲しみ。なるべく経験したくはない感情であるが、これらを体験するからこそ人間性が深まるという働きも存在する。であるならば、一方的に「悪」といって済む問題ではなく、もう一歩考察を深め、人間には悪も必要なのだとの結論に持っていくべきであったと言える。

参考文献
Fromm, Erich(1964):鈴木重吉訳『悪について』、紀伊国屋書店、1965。

メディアの重要性

 第三者的メディアによって、人は一対一関係に耐えることが出来る。
 たとえば男女は「性」を媒介にしているからつながっていられるのであり、読書会も家族も、対象とする本や家を媒介にしてつながっているのである。吉本隆明のいう共同幻想である。吉本は一対一関係(特に男女間)は対幻想と説明しているのであるが。
 恋愛が「学校」によってはじまる学園ドラマも、学校空間・学校的時間を媒介(=メディア)としてつながっている。何のメディアもなく、一対一の実存的関わりを持つことは難しい。趣味の話や最近のスポーツをネタに(ワールドカップは格好の会話メディアになる)しなければ、人は一対一の関係に耐えることはできない。齊藤孝は偏愛マップなるものを用意し、各人の好きなものを明らかにしたうえで会話をすると話が盛り上がる、と語っているが(『友だちいないと不安だ症候群につける薬』など)これこそ一対一関係に耐える方法である。
 カー・ドライブを二人で行く時、会話なしで走ることは可能だが、わびしさや居心地の悪さを感じる(映画『レインマン』で、スザンナが恋人チャーリーに「何も話さないなんて、一人で旅行してるみたい」と訴えるシーンがある)。だからドライバーは「地図を読んでもらう」ことやカーステレオをつけて音楽メディアを媒介に助手席にいる人間と空間・時間を共有しようとする。