久々に弟とメールした。その際のやりとりが興味深かったので、少しここに書こうと思う。
・・・・・・・
まずは引用から。
> あれからバスの中で考察したところ、自分は、人間が他の物質や生物とは異なる特別な存在だとする理論が嫌いなのだという結論に至りました。
> 霊魂や前世来世、インテリジェントデザイン、性善説、観測宇宙論といった理論は、人間を特別な存在だと設定する必要があるので、人間もあくまで動物であり自然現象の一部だとする自分の考え方と合わなかったのだと思います。
ここは私も同意見。全ては相対化のまなざしで見るべきであります。
> それと、「観測者が存在しないと宇宙は存在しないも同然」という考え方は、マクロな世界で適用すると哲学的な話になり、反証不可な上に、そこから何も産み出せないという悪質なものだと思います。そもそもの発想の起点が異なるので、物理学とは比較しようがないです。
> こうしてみると、人間を主体として見るかどうかに文系と理系の違いがあるように思います。
> まあ、これはあくまで今の自分が思うことであり、今後に変化することがあります。
> 支離滅裂ですみません、ただ、誰かに言いたかったので…
>
>
実は文系も50年代あたりは理系的だったんですよ。サルトルとかの実存主義がそれですね。知識人の存在意義(レゾンでーテル)は一体何かを考え、今やるべきことを見過ごすやつは「自己反省すべき!」だ、などと言う(今から見ると)「青い」考え方でした。
自分の実存(ここでは「自分という存在があること」とでも考えてください)の絶対性を見るあり方です。これがレヴィ=ストロースらの「構造主義」で完膚なきまでに否定されるわけです。だって、人間ってそんなにすごい存在じゃないですもん。
ところで、実存主義の側からの構造主義批判として「構造はデモに行かない」と黒板に書いてデモに行った高等学校生(フランスではエリートにあたります)の話が時々持ち出されます。「構造主義者は人間を超えた〈構造〉が人間を動かすとか言うけど、〈構造〉は何かアクションできるのかい?
俺は自由意志に基づいてデモに参加できるんだぜ? 俺のどこが構造に従っていると言えるんだよ」ということを示す板書であったわけです。
…これ、よくよく考えると「戦争反対のデモに行くべき」という「構造」にまぎれもなくこの高校生が突き動かされてるだけ、とも言えるんじゃないでしょうか(桜井哲夫のフーコー論の受け売り)。
人間の自由意思や、人間の主観によって物理的世界を観測しようとする場合、とりあえず自分の「主観」の正しさを信じることになるわけです。ですが、その主観は「構造」を離れることも、あるいは「感情」を離れることもできません(実験室で「ああ、腹減った。もういいじゃん、これで観測結果にしとこうよ」という場合、客観性は担保されるのでしょうか?)。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの有名な「客観性」論文では(岩波文庫で読めます)、自分の認識(主観のことです)が自分の属性や「構造」に影響を受けているのを認識したうえで、それらの影響が表れない程度まで徹底して現象を記述することで、客観性を担保することを訴えました。実際、私のいる社会学の領域では、学者自身が「社会」のまぎれもない一員ですから、「社会」の「構造」の影響をモロにうけつつ、にもかかわらず「社会」を記述しようというかなりムチャなことをしています。これも、ウェーバーの客観性の基準(厳密にはマンハイムのいう「存在の被拘束性」の基準でもあります)を守ることで「それって、君が思うだけで客観的でないんじゃないの」という批判に答えようとしているのであります。
理系はこの人間の「主観」の問題をあんまり考えてないみたいですね。前に話したクリプキのグル―みたいな概念が実際に存在すると仮定すると、原子やなんかの厳密な認識なんて、出来ないですね。でも、このことは物理学が客観性を満たしていない、ということではないのです。「近代」科学のやり方で十分にメリットはあったからです。ですが、学者の主観性を想定したうえで学問を進めると、さらに物理学が発展すると思います(し、すでにそうなっているのかもしれません)。
メールの返信になっていれば幸いです。












