ishidahajime

理系と文系の対話

久々に弟とメールした。その際のやりとりが興味深かったので、少しここに書こうと思う。

・・・・・・・

まずは引用から。

> あれからバスの中で考察したところ、自分は、人間が他の物質や生物とは異なる特別な存在だとする理論が嫌いなのだという結論に至りました。
> 霊魂や前世来世、インテリジェントデザイン、性善説、観測宇宙論といった理論は、人間を特別な存在だと設定する必要があるので、人間もあくまで動物であり自然現象の一部だとする自分の考え方と合わなかったのだと思います。

ここは私も同意見。全ては相対化のまなざしで見るべきであります。

> それと、「観測者が存在しないと宇宙は存在しないも同然」という考え方は、マクロな世界で適用すると哲学的な話になり、反証不可な上に、そこから何も産み出せないという悪質なものだと思います。そもそもの発想の起点が異なるので、物理学とは比較しようがないです。
> こうしてみると、人間を主体として見るかどうかに文系と理系の違いがあるように思います。
> まあ、これはあくまで今の自分が思うことであり、今後に変化することがあります。
> 支離滅裂ですみません、ただ、誰かに言いたかったので…
>
>

実は文系も50年代あたりは理系的だったんですよ。サルトルとかの実存主義がそれですね。知識人の存在意義(レゾンでーテル)は一体何かを考え、今やるべきことを見過ごすやつは「自己反省すべき!」だ、などと言う(今から見ると)「青い」考え方でした。

自分の実存(ここでは「自分という存在があること」とでも考えてください)の絶対性を見るあり方です。これがレヴィ=ストロースらの「構造主義」で完膚なきまでに否定されるわけです。だって、人間ってそんなにすごい存在じゃないですもん。

ところで、実存主義の側からの構造主義批判として「構造はデモに行かない」と黒板に書いてデモに行った高等学校生(フランスではエリートにあたります)の話が時々持ち出されます。「構造主義者は人間を超えた〈構造〉が人間を動かすとか言うけど、〈構造〉は何かアクションできるのかい?
俺は自由意志に基づいてデモに参加できるんだぜ? 俺のどこが構造に従っていると言えるんだよ」ということを示す板書であったわけです。
…これ、よくよく考えると「戦争反対のデモに行くべき」という「構造」にまぎれもなくこの高校生が突き動かされてるだけ、とも言えるんじゃないでしょうか(桜井哲夫のフーコー論の受け売り)。

人間の自由意思や、人間の主観によって物理的世界を観測しようとする場合、とりあえず自分の「主観」の正しさを信じることになるわけです。ですが、その主観は「構造」を離れることも、あるいは「感情」を離れることもできません(実験室で「ああ、腹減った。もういいじゃん、これで観測結果にしとこうよ」という場合、客観性は担保されるのでしょうか?)。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの有名な「客観性」論文では(岩波文庫で読めます)、自分の認識(主観のことです)が自分の属性や「構造」に影響を受けているのを認識したうえで、それらの影響が表れない程度まで徹底して現象を記述することで、客観性を担保することを訴えました。実際、私のいる社会学の領域では、学者自身が「社会」のまぎれもない一員ですから、「社会」の「構造」の影響をモロにうけつつ、にもかかわらず「社会」を記述しようというかなりムチャなことをしています。これも、ウェーバーの客観性の基準(厳密にはマンハイムのいう「存在の被拘束性」の基準でもあります)を守ることで「それって、君が思うだけで客観的でないんじゃないの」という批判に答えようとしているのであります。

理系はこの人間の「主観」の問題をあんまり考えてないみたいですね。前に話したクリプキのグル―みたいな概念が実際に存在すると仮定すると、原子やなんかの厳密な認識なんて、出来ないですね。でも、このことは物理学が客観性を満たしていない、ということではないのです。「近代」科学のやり方で十分にメリットはあったからです。ですが、学者の主観性を想定したうえで学問を進めると、さらに物理学が発展すると思います(し、すでにそうなっているのかもしれません)。

メールの返信になっていれば幸いです。

Bourdieu, Pierre/Wacquant,Loïc.J.D(2007):水島和則訳『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』、藤原書店、2007。

 ブルデュー思想を、ロイック・ヴァカンが整理・編集した著作集。読書上のメモの抜粋集としてここに記す。

第Ⅰ部 社会的実践の理論に向けて(ロイック・ヴァカン) 

「ブルデューは方法論的一元論のあらゆる形態、構造もしくは行為主体、システムもしくは行為者、集団もしくは個人のいずれかに存在論的優先性を主張する考え方に反対し、関係というものの優先性を主張する。彼によれば、二項対立のどちらかを選ばせる考え方は社会的リアリティについての常識レベルの見方を反映しており、社会学はそうした見方を取り除かなければならない。」(34)

36頁より:「ハビトゥスと界がこれら諸関係の結び目を示す鍵概念である」

「ハビトゥスは構造を形成するメカニズムであり、行為者の内側から作用する。」(38)

「「実践感覚」はあらかじめ知っている。つまり、現在の状態のなかに、界がはらんでいる未来の状態を読み取る。過去、現在と未来はハビトゥスのなかでお互いに交叉し、相互浸透しているからである。」(43)

*「実践感覚」と書いた後、[勘]と記述されている箇所があった。実戦感覚、つまりハビトゥスは「勘」ということであるのかと気づいた。

「グラムシがすでに理解していたように、科学こそまさに、きわめて政治的な活動なのである。」(78)

「社会学の使命は、行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その「必然性を示す」ことであり、それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き離すことである。」(81)

「ブルデューにとって、真の知識人は時の権力、経済的ならびに政治的権力の介入から独立していることによって定義される。」(90)

*アメリカのダウンタウンのボクシングジムの事例を出すヴァカン。このあたりは、彼のエスノメソドロジー実践を示している。

「結論としていえば、それが示唆しているのはブルデューの社会学が彼がこの言葉に与えた意味でのひとつの政治として読まれるべきだということだ。つまり、われわれを構築したものの見方を変える企てとしてである。それゆえに社会学は、合理的に、そして人間的に、社会学を、社会を、そして究極的にはわれわれの自己を形づくることができるのだ。」(93)

第Ⅱ部 リフレキスヴ・ソシオロジーの目的(ヴァカンの質問にブルデューが答える)

「あらゆる社会学は歴史学的であり、あらゆる歴史学は社会学的であるべきなんです。事実、私の提案している界の理論の機能のひとつは、再生産と変動、静態と動態、あるいは構造と歴史の間の対立を消滅させることです。」(124)

「界という観点から考えるということは、関係論的に考えるということです。」(130)
「ヘーゲルの有名な言葉をもじって、実在するものは関係であるといってもいいでしょうね。社会学的世界の中に存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように「個人の意識や意志からは独立して」存在する客観的諸関係なのです。」(131)

「界の概念の主な利点は、それぞれの界について、境界は何か、他の界とどのように「接合」されているのか、といった点をつねに自問するよう強いることです。それは実証主義的経験主義の理論不在に陥ることではなりません。現実に対して立てられる、繰り返し立ち戻ってくる問いの体系を扱うということです。」(147)

「ハビトゥスとは知覚図式、評価図式、行為図式の体系、持続が可能で組み替えの可能な体系ですが、この体系は社会的なるものが身体(あるいは生物学的個体)のなかに成立した結果です。界は、さまざまな客観的関係からなる体系ですが、この体系は社会的なるものが、物のなかに、あるいは物理的対象とほぼ同じリアリティを有するメカニズムのなかに成立した産物です。さらにはいうまでもなく、社会科学の対象はこの[リアリティと界との]関係から生まれたものすべて、すなわち社会的実践や表象、あるいはそれらが知覚され評価されるリアリティの形態として現れたものである界をも含みます。」(168)

「ハビトゥスは特定の状況とのかかわりのなかでしか現れません。」(177)

「私の研究活動においては、もっとも重要だと私が考える理論的アイディアを見つけだしたのも、聞き取り調査を実施したり質問票の集計をしたりすることによってだったのです。」(208)

「保護されていた結婚制度から「自由交換」への移行は犠牲をつくり出します。」(214)
→現在の「婚活」の発想を、ブルデューは1989年の時点で指摘していた。

「社会学者とは、街頭に出かけていって誰にでもインタビューをし、人々の話に耳を傾け人々から学ぼうとする人たちです。これはソクラテスがいつもやっていたことです。」(256)

*第Ⅱ部ではブルデューのハビトゥスや界の概念がいかに安易に解釈され、誤解されてきたかを示している。そして、その誤解を訂正する内容のやり取りが多く行われている。

第Ⅲ部 リフレクシヴ・ソシオロジーの実践

「私がみなさんに教え込みたいと願っている姿勢のなかに、研究を合理的計画としてとらえる能力があります。研究を一種の神秘的な探究として大げさに語るのは、自分を安心させるためなのでしょうが、逆に恐れや不安を大きくするだけです。研究を合理的な企てとみる現実主義の姿勢は(…)はるかに深い失望を味わうことのないよう身を守るための、おそらくは最良の方法であり唯一の方法なのです。」(271-272)
→だからこそ「研究者が淡々と自分の仕事をこなしていく」ことを否定的にみないのが重要である。ウェーバーの『職業としての学問』にあった「日々の仕事(ザッヘ)へ帰れ」も、要するに淡々と研究することであろう。

「他のどんな思想家以上に社会学者にとっては、自分自身の思考を思考されざる状態に放置しておけば、自分が考えているつもりの当の対象に道具として使えてしまうことになるのです。」(293)
→これはマンハイムの「存在の被拘束性」ということとしても説明できる。また、ウェーバーの「客観性」論文も、同様の内容である。研究者自身の認識枠組みやハビトゥス・界に自覚的であることが必要だと名高い社会学者たちは語っているといえる。

訳者あとがき

「相手を対象化しようとうる動機(社会学に惹かれる人間につきまとう動機)それ自体が当人に自覚されない限り、人は相手について語っているつもりでつねに自分について、あるいはその相手と自分との関係について語ってしまう、という洞察に立脚するものだったのである。」(338)

「誤解を恐れずにいえばブルデューの学問的営為を「異文化体験の現象学」と形容できるのではないだろうか。ここで「現象学」という言葉は、本書で用いられる客観主義と対置されている主観主義という意味ではなく、志向性という概念を軸に「知る者―知られる者」のあいだにある「関係」を考察の焦点とするという本来の意味で用いている。」(339)

*本書冒頭ではヴァカンが「この本にはブルデューの著書のダイジェストでもなければ、ブルデューの社会学の体系的解説もふくまれていない」(10)と断わりを述べている。しかし、結果的に本書がブルデュー入門になっているのは興味深い点である。また、ブルデューの学問観や学者に求める姿勢が非常に参考になる。

*本書は竹内洋『社会学の名著30』のトリを飾るものである。

危ない栞

この栞の示す状況はなかなかにリスクがある。

シャドウ・ワークと冷却作用Cooling-Out(ゴフマン)の連結について。

 人びとが現在の体制を支える形で行う他律労働。それがシャドウ・ワーク(イリイチ)である。これが学歴社会と繋がった際、竹内洋がいう形の冷却作用が成立するのではないか。
 『臨床社会学のすすめ』で大村英昭がいうように、「鎮欲のエートス」(大村2000 :231)が冷却作用にはある。これはイリイチのいうシャドウ・ワークの一つの形ではないか。
 どちらも人を他律的に働きかけるという共通点がある。
 この構造を一体化させられればなかなか興味深い気がするが、さてどうしようか。

本を読むという、「主体」の行為

 本を読むとき、私は本の「装飾」をはぎ取る(=stripping)。本のカバー、帯(まさに裸にしているわけだ)、「愛読者カード」や新刊紹介文を投げ捨て・打ち破り・テープで本にとめている。
 いわば、食材たる本を消化可能な状態にまで下ごしらえをするわけだ。松岡正剛が本年(2010年)11月の「週刊読書人」インタビューで書いていたが、本を読むのはグルメや映画・演劇同様の行為である。後生大事に本を扱うのでなく、本をエンタテイメントとして享受可能な状態にまで変化(=メタモルフォーゼ)させる必要があるのである。
 私は本を「他者」の比喩で扱っている。他者を理解可能な形態にまで変形あるいは変化させるわけだ。これは通常、主体である「私」の変容モデルにおいて示すこともできるが、本においては「他者」自体の変容モデルでいうことができる。松岡がいうのは読書行為における「編集」作業の重要性である。本のカバーを捨てるのも、松岡のいう「編集」である。
 他者を理解可能な形態に変形させることは、「オリエンタリズム」(サイード)でもある。理解不可能な形態であったものを、「私」という主体が理解可能な状態にすることになるわけであるためだ。しかし、読書行為についてまでオリエンタリズムを敷衍させることは無理があるだろう。
 書籍はいわば「恋人」である。肝心な部分は装いに隠され、「主体」が少しずつ核心に近づいていくしかない。他者たる書物は「謎」めいた主体でもある。strippingする「楽しみ」は「恋人」にもあるし、「書籍」にもあると言えるであろう。このことを「まどろっこしい」と感じるか、「楽しい」と感じるかで、本を恋人にできるか否かが決まってくる。

PISAの調査結果報道から見えてくること  ~各紙社説の検討から~

0、目次

 本稿は以下のように構成されている。

1、はじめに
2、「社説」から見えてくること
2.1. PISA調査の重要度認識の違い
2.2. 内容の検討
3、調査結果の社説報道の問題点
3.1.教育問題の「格差」性への各社の認識
3.2.教育問題を煽る社説
3.3. 他のアジア諸国への言及
3.4. 社説の最終部分の記述
4、日本の義務教育の内容・方法について、今後改善すべき課題ないし改善策
4.1. 教育問題の「格差」性への検討
4.2. 教育目標の検討
4.3. 教員の自己教育力の養成
5、終わりに
6、参考文献

1、 はじめに

 PISAの調査結果をもとに日本の義務教育の内容・方法について考察を行うのが本稿のテーマである。そのために、まずはPISAを巡るマスメディアの言説を探る点から行っていく。
 本稿では各紙に掲載されたPISA2009年調査の結果を受けての「社説」の内容の検討を行う。対象となるのは全国紙5紙(読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日経新聞)に地方紙1紙(東京新聞)の朝刊である。なお、本稿では各紙を略称で扱うものとする。
 図表1に、検討する社説の掲載日とタイトルをまとめている。

図表1 検討する新聞社説と掲載日の一覧

新聞名 掲載日 社説タイトル
読売 12月9日 国際学力調査 応用力を鍛えて向上めざせ
朝日 12月8日 国際学力調査 根づいたか「未来型学力」
毎日 12月8日 国際学力テスト 向上の流れを確かに
産経 12月9日 国際学力調査 「8位」で手綱を緩めるな
日経 12月8日 「考える力」をどう育てるか
東京 12月9日 国際学力調査 順位に一喜一憂ではなく

2、「社説」から見えてくること 

2.1. PISA調査の重要度認識の違い

図表1をみると、PISA関連の社説の掲載日には2010年12月8日のグループ(朝日・毎日・日経)と9日のグループ(読売・産経・東京)の2つがあることが分かる。
12月9日にPISAに関する社説を掲載した読売・産経・東京も、8日の1面にはPISAの記事を掲載している 。1面に掲載するほど重要であると認識されたPISA調査について、社説で取り扱うのが9日になった理由は一体何であるか。それは、12月8日の社説においてPISAよりも重要だと認識される内容を、社説で取り扱う必要があったためであると考察できる。図表2に12月8日の各紙の社説をまとめている。

図表2 各紙の12/8の社説

新聞名 上段/下段
読売 日米韓外相会談 中国と連携し対北圧力強めよ/諫早湾開拓訴訟 「開門」命令が問う政治の責任
産経 民社「復縁」 数合わせで国益害するな/日米韓外相会談 連携して対中圧力強化を
東京 菅内閣半年 課題に挑む気迫感じぬ/日米韓外相会談 中国も北の暴走止めよ
朝日 朝鮮半島 外交で打開する以外ない/国際学力調査 根づいたか「未来型学力」
毎日 日米韓外相会談 中国は「北」説得に動け/国際学力テスト 向上の流れを確かに
日経 中国は北朝鮮の蛮行封じ込めへ行動を/「考える力」をどう育てるか
斜体はPISAに関する社説である。

 各紙社説に日米韓外相会談に関する社説が掲載されている点は6紙共通の特徴である。2枠ある社説欄のもう1欄において、読売・産経・東京はPISAではなく「諫早湾開拓訴訟」(読売)・「民社『復縁』」(産経)・「菅内閣半年」(東京)と、いずれも政治面、特に政府批判の内容を掲載している。朝日・毎日・日経のように8日にPISAの社説を掲載しなかったのは、読売・産経・東京が政府批判の文脈が強いためであると考察できる。つまり、PISA調査よりも政府批判の社説掲載のほうを優先したと考えられる。
 今回のPISA調査結果において、日本の子どもの学力が改善したと報道をされている。読売・産経・東京にとっては現政府の政策の取り組みを肯定する評価を下すことになる。そのためあえて社説発表を9日にずらした可能性を考察することができる。
 実際、読売・産経・東京のPISAに関する社説では、民主党政権への批判が取り上げられている。読売は全国学力テストが「PISAと同じ応用力を問う問題が出される」意味合いで有効と述べたのち、「民主党政権はコスト削減を理由に抽出方式に変えたが、全員参加方式に戻すべきだ」と記述している。産経は「民主党政権は学力テスト方式を全員参加から一部参加に変えた。『競争』から目をそらしている。教育の成果を適切に評価する取り組み姿勢に欠ける」と言及。東京は「国を挙げての〝受験対策″が軌道に乗り始めただけだ」と指摘する。いずれも現政府への批判となっている。一方、朝日・毎日・日経では政府批判の内容は掲載されていなかった。
 政治的色合いのもとで、各紙はPISA調査に関する内容を報道していることが見て取ることができる。
 なお、産経・読売については筆者の想定する「ストーリー」を述べたいと思う。一般的に保守的とされる産経・読売は、今回のPISA調査で日本の順位が上がったことを真っ先に報道したいと考える。いわば「国益」とも言えることだからだ。しかし、現状は「民主党政権」である。素直に日本の順位が上がったことを述べてしまうと、現政府に花を持たせることになる。そのためにあえて12月8日に現政府批判の社説を掲載し、翌日にPISA調査に関する社説を出したのではないか。その際も、「民主党政権」への批判を書くことを怠らずに行うことで自社のスタンスに反しないようにしているのである。

2.2. 内容の検討

 朝日の社説では「日本の子が苦手とされてきた「読解力」の分野で、国別順位が改善した」ことを述べたのち、「だが、21世紀を生き抜くための力が日本の子どもたちに備わってきたと、本当に喜んでよいのだろうか」と指摘する。「言葉という道具を駆使して他人と交わり、考えを深め、社会に役立ててゆくような力強さはまだまだ。そんな日本の子の姿が浮かぶ」とまとめた後、「朝読書」などの事例を述べている。しかし全体として何が言いたいのか不明瞭になっている。
 日本の新聞メディアにおいて、今回のPISAの調査結果を「改善」と見る動きが強い。しかし、「社説」では記者がいろいろ「本当に喜んでよいだろうか」(朝日)などと教育内容を煽る。その割に記者が提案するのは「朝読書」(朝日・東京が言及)のなかで「感想を話し合い、違う意見もとりいれて発表する」(朝日)など、教育学プロパーから見て低レベルな内容でしかない。
 新聞記者の視点にはリテラシー能力向上の「手法」は「朝読書」くらいしか入っていない点に注意をしたい。
 教育行政全体の変革を述べていたのは毎日と日経のみである。毎日は「状況を大きく前進させるには入試改革が不可欠だ。思考や表現を重視する授業を普及させるには高校、大学が手間をかけた試験を避けてはならない。暗記知識の多寡でコンピューター処理をするような試験は、PISA型学力からは最も遠い」とまとめている。ここで考えるべきは、毎日の社説が言うような「コンピューター処理」する入試を経ずに入学する生徒が現状では6割いるという点である。「暗記知識の多寡」で受験者を選別できる学校は、いまでは数少なくなっている。毎日の提案は現状とミスマッチなのである。
その点、日経は毎日同様に大学入試改革を述べてはいるものの、「教育課程の弾力化と、地域や学校現場の創意工夫を生かす教育行政の分権が欠かせない」と書いていた。提言として妥当なのは日経のこの提起のみである。
  
3、調査結果の社説報道の問題点

3.1.教育問題の「格差」性への各社の認識

 近年、教育における「格差」の存在が言及されることが多くなった。今回のPISA調査の結果を受けた社説をみると、「格差」について言及をしている社説と全く言及のない社説の2つにわかれた(図表3)。朝日・日経を除く4紙はいずれも「格差」について言及をしていることがわかる。

図表3 「格差」への言及の有無
新聞名 格差への言及
読売 「低学力層」
毎日 「学力格差」「経済格差」
産経 「格差も解消されていない」
東京 「所得格差」
朝日 ×
日経 ×

 「格差」についてもっとも多くの文字数を使って言及をしていたのは毎日であった。学力二極化の傾向への指摘にとどまらず、「経済格差」にも言及があった 。読売は毎日同様「低学力層」の存在の指摘を行った後、教員への要望を述べている 。東京は「成績の良い子と悪い子の二極化が依然目立つ」との指摘後、「背後には所得格差の問題が潜んでいる」と述べ、不明確な形ながら「格差」の存在を匂わせている。
 興味深いのは産経の記述である。参加国と比較し「日本は学力下位層が多く、格差も解消されていない」と言及した次の箇所で、「民主党政権は学力テスト方式を全員参加から一部参加に変えた。『競争』から目をそらしている。教育の成果を適切に評価する取り組み姿勢にかける」と述べている。「格差」解消を目指しつつも「競争」を重視する姿勢に矛盾を見て取ることができる。
 一方、教育問題が経済格差などとつながりを持っている点について、朝日・日経では指摘がされていない。教育問題の持つ「格差」性についての認識をマスメディア自身が持つことが必要であろう。

3.2.教育問題を煽る社説

 なぜ学力の向上を行う必要があるのか。その哲学性や理念についての言及が6紙の社説には現れていない。産経は「国力」やノーベル賞受賞という記述があるが、教育問題をなぜ社説で扱う問題であると考えるのか、その点の考察が必要である。現状ではただ教育の現状を嘆き、教育の改善を煽る紙面になってしまっている。

3.3. 他のアジア諸国への言及

 今回のPISA調査では初参加の上海が全領域でトップの結果を示していた。そのことについて言及しているのは読売・産経・東京・日経の4紙である。12月9日に社説を掲載したグループに日経を足したものである。一方、朝日・毎日は自国の調査結果に関する内容のみで終始した内容である。
 東アジア諸国への言及があった4紙でも、記事の扱い方は異なっている。読売・産経は「アジアのライバルの学力向上熱は高い」(産経)、「アジアの優秀な学生を日本の本社で採用する企業も現れ始めた。日本の若者が各国のライバルと就業を競う時代に入っている」(読売)と、明確に「各国のライバル」と日本の若者が競うことを言及した内容となっている。一方、東京・日経は上海を含めたアジア諸国のPISA結果が高かった、という事実の記述にとどまっている 。
 まとめると、PISAが国力を競うものとして騒がれる傾向が読売・産経では強く表れている。一方、東京・日経は調査結果として「アジア勢」の結果が上位に並んだことを掲載したのみであり、朝日・毎日は全く他国の結果を掲載していなかった。

3.4. 社説の最終部分の記述

 次に、新聞社説の最終部分について比較を行う。この部分を比べるのは、照らし合わせた際に各紙の主張や傾向が強く表れていたためである(図表4)。
 図表4をみると、朝日・東京は「腰を落ち着け、学びの質をかえてゆくときだろう」(朝日)・「一喜一憂する必要はない」(東京)と、教育政策の方向性を漸進的に変化させる方向性での記述がなされていることが分かる。また日経は朝日同様、「学びの質」を改善する内容を述べていることで共通している 。
 一方、読売・毎日は今後の教育政策を「自己表現力」などを高める方向性で変えていく必要性について述べている。産経は若者への呼びかけで終えている点が特徴的である。

図表4 各社説の最終部分の記述
新聞名 最終部分の記述
読売 「自己表現力や対話能力も問われる。見劣りしない能力をつけさせることは国の責務だろう」
朝日 「未来に向けて腰を落ち着け、学びの質を変えてゆくときだろう」
毎日 (入試改革の提言をした後に)「暗記知識の多寡でコンピュータ処理するような試験は、PISA型学力からは最も遠い」
産経 「将来の日本が世界と競い合うためにも、若い世代はひたすら学ぶしかない」
日経 「子どもにしっかりものを考えさせる、本来の意味での『ゆとり』が大切だ」
東京 「順位に一喜一憂する必要はない」

4、日本の義務教育の内容・方法について、今後改善すべき課題ないし改善策

 ここでは今まで検討してきた各紙のPISAをめぐる社説の記述から見えてきた点をもとに、日本の義務教育をめぐる改善すべき課題と、改善策に関する筆者の私見をまとめる。

4.1. 教育問題の「格差」性への検討

 先に図表3において各紙の「格差」報道を見てきた。「『社会生活を営む上で支障があるレベル』とされる低学力層の割合が、日本は三つの分野とも1割を超えていた。上位10か国・地域の中では目立って高い」(読売)。この「社会生活を営む上で支障があるレベル」の低学力層の割合が高い点は、読売・毎日の記述に述べられていた。安彦(1996)が述べる「基礎」と「基本」に義務教育の範囲をたてわけ、「基礎」だけは個別指導や特別授業を行ってでも底上げをするという改善策が考えられる。
 また、所得格差問題についても毎日において指摘があった。これを是正するためには、生活保護の受給を容易にする点や、北海道三笠市のように給食費無償化を実現する点などを方法として挙げることができる。

4.2. 教育目標の検討

 3.2.において、各紙の社説が教育問題を煽って終わりになっている点を述べた。
 教育方法を定めるには、目標goalが必要である。そうでなければPDCAサイクルをそもそも動かすことができない。「ゆとり教育」には学力低下などの批判がさらされたが、「生きる力」という目標が定められていた点に一つの意味があったと考えられる。目標や理念が曲がりなりにも定められていたため、「ゆとり教育」という目標の妥当性を議論できたのである。 
 PISA導入後、「リテラシー能力」や「基礎・基本の徹底」などが新たな目標として語られるようになったが、これらはあらゆる方向に向けられたものであり、結局のところ何を目指すのか不明確になっている。
 次の4.3.でも述べることではあるが、義務教育において何を求めるのか、議論が必要であろう。それは教育行政のみではなく、職員会議(現状では校長の方針を打ちだすのみの場になっている)や教育委員会内での真剣な議論が必要であると考える。

4.3. 教員の自己教育力の養成

 各社説には現場教員への提言も3紙に述べられていた。「先生が細かく目を配り、つまずきを克服するまで指導することが大切である」(読売)・「授業をどう工夫するか先生の力量がますます問われる」(東京)・「教科書の使い方や教科を横断するような形式の授業にも、工夫が必要だ」(朝日)。
 実際、現場教員自身の自己教育が今後の必要となるであろう。PISA型学力への転換、「考える力」重視の教育実践も、最終的には教員の創意工夫によって実現されることである。むろん、一方的押しつけにならないよう十分に議論して政策を行う必要はある。しかし、教員自身の取り組みが「良い教育」を支える根拠となることは確かであろう。
 アーレントは空間をprivate-public-socialの3つの側面から考察する(Arendt 1957)。画一的なsocialたる教育行政・教育政策のみでなく、その学校・その教室独自の公共性publicを作っていくことの重要性を、アーレントの概念枠組みから読み取ることができる。彼女は理想の公共空間として、他者との網の目の空間に「現れ」、議論・行為するなかで正義を実現することを述べている(同)。理想の教育空間(あるいは場)は教員-生徒間で作り上げていく必要がある。そのためにこそ、教員自身の自己教育が必要となる。これが教育行政に使役される形で行われるならば、イリイチのいうシャドウ・ワーク(賃金の支払われない他律的労働)になるが(Illich 1981)、国家の権力に対抗する形で行うこともできる。
 上から言われた通りに行うだけで「効果」が出るわけでないのが教育現場である。教育目標が「ゆとり」や「学力向上」の間を揺れ動く中、自分に関与する児童・生徒との間での教育実践をアーレントの言うpublicの図式に合う形で行うことで、国家の力を制限することができる。
 ちょうど向山洋一の教育技術法則化運動も、教員自身の自発性・能動性に支えられていることも思い起こす必要がある。向山は新任校での自己紹介を朝会で行う際、5分のあいさつのために何時間もかけて指導案の作成・検討・練習を繰り返したという(向山 1987)。教員自身が国家や行政とのバランスの中で「良い教育」を実践するためにも、教員自らの自己教育が必要であるということができる。

5、終わりに

 本稿では各紙社説の検討後、それを基にして今後日本の義務教育段階で行っていくべき提言を3点提示した。具体的な方法論についての検討はできなかったが、数ある方法の中から児童・生徒の現状を見て必要な方法を用いられるよう、教員の自己教育力の養成(4.3.)や教育目標をpublicな議論によって決定すること(4.2.)が養成されると考察できる。また、教育実践を行うための土台となる「格差」の是正を政治・行政のレベルで行うこと(4.1.)が必要であるといえる。
 本稿の課題点を述べる。今回はPISA調査を受けての社説記事の出る日付が12月8日と9日に各紙が分かれていた点を取り上げている(図表1)が、前回・前々回などのPISA調査結果報道の際は社説掲載日にずれがあったのか、検討することができなかった。その点について今後検討する必要があるだろう。

6、参考文献

安彦忠彦(1996):『新学力観と基礎学力』、明治図書出版。
Arendt, Hannah(1957):志水速雄訳『人間の条件』、ちくま学芸文庫、1994。
向山洋一(1987):『子供を動かす法則』、明治図書出版。
Illich, Ivan(1981):玉野井芳郎・栗林彬訳『シャドウ・ワーク』、岩波現代文庫、2005。

禁煙の文字

この写真の文字がすべて「禁煙」を意味するのだとすれば、ハングルとはなんと簡便かつ容易に意味を知らせる働きがあることだろう、と思う。