供儀としての「間引き」

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 中世(および近代初期)、密やかに「間引き」・「口減らし」は行われてきた。これは、ある種の「供儀」(=捧げ物)として行われたのではないか。
 「7歳までは神の内」の裏側である、神への返還可能性が「間引き」である。この「返還」の「危うさ」・「うしろめたさ」を「供儀」として「聖化」した営みだった。
 あまり言及されることはないが、障害をもつ子ども達の多くも、こうして「供儀」として「間引」かれてきた。それを「聖化」して誤魔化すのが人間の文明である。

 「ハンデ」のある子どもへの「特別」な「支援」といえば聞こえはいい。しかしこれは無理に「聖化」し「キレイに」見せようとする発想から抜け出ていない態度である。「間引き」を「聖化」してきた歴史から全く抜け出てはいない。現在の特別支援教育の課題は、無理にきれいに見せている点にある。。

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