ishidahajime

Beck, Ulrich(2002):島村賢一訳『世界リスク社会論』2010、ちくま学芸文庫。

 チェルノブイリの事故の起きた1986年、「リスク社会」という名称のもとに社会学者ベックはデビューをした。その『危険社会』は学術書としては異常なほどよく売れた、という。そんなベックの入門書的なのが本書である。

「「サブ政治」という概念は、国民国家の政治システムである代議制度の彼方にある政治を志向しています。その概念は、社会におけるすべての分野を動かす傾向にいある政治の(最終的にグローバルな)自己組織化の兆しに注目します。サブ政治は、「直接的な」政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加することなのです。そこでは法的な保証がないことすら多々あります。サブ政治とは、別の言い方をするならば、下からの社会形成なのです。」(115-116)
「世界社会的なサブ政治の特徴は、イシューごとにその都度形成される(政党、国家、地方、宗教、政府、反乱、階級といったものの)「対立」の連合なのです。」(116)

→☆この「サブ政治」を担う「市民」が、常に多数にとって正義かどうかは限らない。ベックも石油会社シェルに対する反対運動をしても、アウトバーン建設を進めるドイツ首相への反対がないことを語っている。だからこそ、多様な「市民」の多様な「サブ政治」が必要、と言えるのではないか。

「危険とは、例えば天災のように人間の営み、事故の責任とは無関係に外からやってくるもの、外から襲うものである。それに対してリスクとは、例えば事故のように人間自身の営みによって起こる、まさに自らの責任に帰せられるものである。つまり、そうである以上、リスクは社会のあり方、発展に関係している。リスクとは、ベック自身が認めているように、自由の裏返しであり、人間の自由な意思決定や選択に重きをおく近代社会の成立によって初めて成立した概念である」(訳者解説:159-160)

→☆東日本大震災は「危険」であるが、福島原発は「リスク」である。

「「困窮は階級的であるが、スモッグは民主的である」」(『危険社会』51頁からの引用)「という言葉に象徴されるように、環境汚染や原発事故といったリスクが、階級とは基本的には無関係に人々にふりかかり、逆説的にある種の平等性、普遍性を持っていること、そしてチェルノブイリ原発事故に端的に示されているように、リスクの持つ普遍性が、国境を超え、世界的規模での共同性、いわゆる世界社会を生み出していることが挙げられる」(161)

寺山修司(1974):『さかさま世界史 英雄伝』、角川文庫。

・「二宮尊徳」について。
「少なくとも、薪を背負って本を読むよりは、薪を下ろして本を読む方が頭に入ります。それに、読書は人生のたのしみであって、義務ではない。そのために、山道の二往復が一往復になったり、サボったといって叱られても構わないのではありませんか? 山道を歩くときには、本ではなくて山道を”読む”べきです。自然は、何よりも偉大な書物だというのが、私の考えです」(77)

・「毛沢東」について。
「私の考えでは、政治の言語はつねに「標準語」であり、人生の不安や性の悩みについて語るときだけ「方言」が生きてくるのであった」(131)

・「聖徳太子」について。
「犯罪が国家なしでは存在せぬ概念であることを思うとき、国家は犯罪の母体なのだと教えてくれたのも、聖徳太子であった」(169)

・「セルバンテス」について。
「ドン・キホーテの滑稽さを、「時と所」の読みちがえ、歴史感覚の欠落だったと言ってしまえば事は簡単だが、しかし、しばしば「時と所」の読みちがえが大きな過誤をのこすことに注目しないわけにはいかない」(216-217)

・「孟子」について。
「しかし、教育というのは半ばお節介の仕事ではありませんか? 自分の子さえいい環境に引越しさせれば、他の子のことは構わないというのでは、教育の本質から外れていると言わざるをえません」(234-235)
☆教育が結果的にエゴイズムをもたらす、という側面。ランドル・コリンズ『社会学の歴史』において、デューイらプラグマティストが批判されている。それは教育の拡大ということを「学歴インフレ」を考慮せずして手放しで賞賛した点にあるからだ、と。教育の拡大という個々人のエゴイズムの反映の政策が、意図せざる結果をもたらす好例である。

・「キリスト」について。
「しかしユダヤ小市民を軽蔑し、革命児たらんとした大工の倅で、娼婦、漁師、兵隊、前科者を集めて、家族制度の破壊を説き、放浪とフーテンの日々をおくっていたキリストは、メガネをかけたオールドミスたちの心の中のキリストさまとはべつの、やくざな、性的魅力あふれた男っぽい男だったと思われる」(249)

●小中陽太郎による「解説」より。
「電気に感激するとは、未開人なみの発想だが、闇の中に電気がともると嬉しい、と思うことが、戦後民主主義の根本であると私は思っている」(280)
☆いまの日本を見て、この言葉が胸に響いた。

ファシズム化

宮台や佐藤優は「ファシズム」に日本の可能性を見たが、いまの地震報道や地震に関する政府対応を見ると、すでにファシズム化しつつあるように思われる。ちょうど、今週のサンデー毎日の特集は「福島原発大本営発表の罪」であった。
 宮台や佐藤優は楽観視しすぎていたのではないか、と思われる。

知識人とスティグマ

知識人は他者によってしか呼ばれない名前だ。丸山真男も吉本隆明も自身を知識人とは言わなかった。その意味で知識人も一種のスティグマである。

小熊英二(2002):『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』、新曜社。

小熊英二(2002):『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』、新曜社。
発表者:藤本研一
2011/03/30
範囲:第8章「国民的歴史学運動 石母田正・井上清・網野善彦ほか」(pp307-353)
☆は藤本のコメント。

概要
・結論:マルクス主義歴史学である「国民的歴史学運動」は大きな影響をもったが、間もなく限界を迎えることになる。この運動は「民衆」自身が歴史を綴ることを重視した運動であり、民衆を中心にした歴史へ読み替えやマルクス的イデオロギーを伝える学問にするなどの動きがあった。この運動は、想定された「民衆」と実際の民衆の間にズレがあることや、共産党の意向の変更により挫折を余儀なくされることになる。

・戦後歴史学:マルクス主義の影響が強い リーダーは石母田正(いしもだしょう)/戦前のナショナリズム批判の最大の勢力の一つ
→1950年代前半では「民族」がもっとも強調された領域。
・本章のテーマ:国民的歴史学運動とこの時期のマルクス主義歴史学
→戦後左派のナショナリズムの性格と限界

●孤立からの脱出(307-)
・「1930年代末には、数年前まで隆盛を誇ったマルクス主義歴史学は、ほぼ完全に圧殺されていた」(308)
→古代史・中世史で細々と研究が行われるようになる。戦後もマルクス主義歴史学は古代史と中世史の研究者が中核を担うことになる。
・戦後の石母田:著作『中世的世界の形成』の経験から、「民衆からの孤立を脱し、社会に働きかける学問として、戦後の歴史学を構想していった。そしてそうした志向は、やがて「民族」という言葉によって表現されてゆくことになるのである」(313)

●戦後歴史学の出発(313-)
・「敗戦後、言論統制と皇国史観の支配から解放された人びとは、歴史学へ熱い関心をよせた」(313)
・「1946年1月、戦中には孤立に追い込まれていた哲学・科学・歴史学などのマルクス主義系知識人が集まり、そこに非マルクス主義系知識人も加わって、民主主義科学者協会(民科)が創立された。その歴史部会の機関誌として、1946年10月に『歴史評論』が相関される。戦前いらい石母田たちが拠点にしてきた『歴史学研究』も1946年6月号から再刊され、この二つの雑誌が戦後のマルクス主義歴史学の中核になった」(313-314)
・「第6章でみたように、文学においては、政治的中立を装う「芸術至上主義」が批判されていたが、歴史学でそれに相当するのが「実証主義」だった。中立を装う「実証主義」は、最終的には帝国主義の側に加担する、ブルジョア思想にほかならないとされていたのである」(314)(☆いろんな動きは軌を一にしている。時代の空気は人を同じ方向に向かせる。)
・「マルクス主義歴史学者からすれば、歴史とは明確なメッセージ性をもち、児童に希望と誇りを与えるものでなければならなかった」(315)(☆しかし、これは本当に「歴史学」なのだろうか)
・石母田の民衆文化観(1948年):「身分制度のもとで下層民がつくった民謡は、能や法隆寺が支配階級の意識を反映しているように、卑屈な被支配者意識を反映しがちである」(317)
・「いかに民衆からの孤立を脱するかを課題」とする石母田は、「民衆にたいする啓蒙活動」(318)をはじめる。その際講師も人民から学ぶことを重視した。
・「歴史というものが、つねに政府や知識人といった権威から与えられるという「古い卑屈な伝統をこわす」ために、民衆自身が「自由な創意と興味」によって歴史を書くことを提案することにあった」(319)
→「労働運動の歴史」の記述を、労働者が出来るようにすること、など。「歴史の専門家がその仕事を助け」ることで。
→「「政治」と「研究」の二元的対立の使用を目指した思想であった」(321)/石母田が「悔恨を抱いていた「若い人たち」に対する責任を果たす行為でもあった」(321-322)
・しかし、石母田自身「農村をよく知らない」(232)や「図式的なステレオタイプ」(232)で農民像を語る等、精緻性に欠けていた。
・「民族」観:当時の石母田:「「民族」や「民族文化」は過去の伝統ではなく、未来にむかって創造されるものであった」(324)

●啓蒙から「民族」へ(324-)
・1950年のスターリンの言語学論文:「近代的な「民族」は資本主義以降に形成されるが(☆フーコーのいう「人間」は18世紀に成立した、との主張を思い出す)、その基盤として、近代以前の「民族体」が重視されるべきだということが説かれていたのである」(325)
→「民族文化」も「近代以前のものを含むべきだという転換を示すもの」(325)になった。
・石母田の「民族」観の変化:「大衆こそが民衆」(326)/スターリン論文への共感
→①民衆志向 ②アジアの再評価(とくに在日朝鮮人への注目)

●民族主義の高潮(331-)
・「支配者がつくったテキストや文化を再解釈し、それを革命の表現に転化してこそ、支配者が大衆に注ぎ込んだ愛国教育を逆手に取ることができる」(333)という藤間の主張/(☆現代ではとても共産党の言説とは思えない、)民族主義的な言説の横行
・民衆中心主義への読み替え:「武士道は支配者の思想ではなく、民衆を守り、民族全体を守る者の責任の倫理として、むしろ下から出て来たものである」」(334)
・倉橋文雄「歴史をほんとうに大衆のものにするためには、文学の場合と同じく歴史家の場合も資料操作以上の飛躍が必要ではないか」(334)(☆ここまでくると学問ではなくなっている。イデオロギー性や「闘争性」を学問がもってはいけない理由でもある)
・1955年頃「この時期、共産党系の歴史家でナショナリズムそのものを批判する者はほぼ皆無で、ただ肯定すべきナショナリズムを歴史上のどこに求めるかをめぐって論争していた」(336)
・まとめ:「もともと1948年の時点では、「民族」は近代の産物だという見解と、理想的な「民族」が形成されるまでは階級闘争が重視されるべきだという認識が、単純な「民族」礼賛への歯止めになっていた」(337-338)
「しかし、そうした歯止めが取り払われた1950年代以降は、旧来の「民族」観を批判していたはずのマルクス主義歴史学者たちさえもが、慎重な姿勢を失ってしまった。もともと彼らも、他の日本臣民と同様に、戦前の愛国教育を受けて育ってきた人びとだった。いわば彼らは、革命推進のかたちで「民族」という言葉を使うことが許されたとき、数年前まで馴染んできた言語の発話形態に逆戻りしてしまったのである」(338)

●「歴史学の革命」(338-)
・国民的歴史学運動のはじまり:「民衆が自分自身の歴史を書くことで「声」を獲得し、知識人はその助力をすることで既存の学問を改革すること」「を実行に移したものであった」(339)
・竹内好「1950年には、戦争と革命は予測でなくて現実であった」(342)
→(☆当時のリアリティでは共産主義革命は「必然」であったのだ)
・石母田の「大衆から孤立」しない「インテリゲンチャの活動」への呼びかけ:「大学進学率が低く、学生にエリートとしての自意識が残っていた当時においては、こうしたアピールは共感を集めた」(343)/農村に入ることで、学問からの「疎外」を回復する(☆現場に入ることで人生観が切り替わり、結果学者としてのアイデンティティを放棄、その共同体の一員になる、という内容のエスノグラフィーはたくさんある)
→☆石母田の講演の内容は1953年発行の書物におさめられている。1955(s.30)年の段階において大学進学率は10.1%(短大含む)である。B・クラークの図式でいうならば、マス段階どころか「エリート」段階の高等教育である。
・農村に入る「「学生さん」への敬意と好感は、大学生の存在が大衆化する60年代半ばまで持続し、60年安保闘争の高揚を支えることになる」「いわば国民的歴史学運動は、参加した学生たちの心情という面では、1960年代の全共闘運動と、部分的には共通していたといえる」(345)

●運動の終焉(346-)
・1953年頃からの活動の行き詰まり
①学生・研究者の相互批判 自己批判の強制(☆参考エッセイを参照)
②「「民衆のなかへ」という理念そのものが、現実の民衆にたいする無知から発していたことを意味していた」(349)
③1955年7月の六全協による、日本共産党の方針転換
→「運動の瓦解は、多くの人びとを傷つけた」(351)/網野善彦が1960年代後半までほとんど論文を発表できなくなる。
・「「よろこび」や「たのしさ」を出発点としていたはずの運動が、政治的な「実用主義」に巻きこまれ、「強制」や「義務」に転化してしまった」(353)という石母田の後悔。(☆内藤朝雄の「中間集団全体主義」あるいは山本哲士の「社会イズム」の弊害である)

論点
・考察にもあるが、「学問」と「政治」の繋がりについて、考察したい。学問はたしかに「政治」や「社会」から中立の存在ではないが、だからといって「政治」や「運動」に肩入れした学問をするのは本末転倒であると思われる。それは「学問」システムから離脱することになるからだ。

考察
・共産党やソ連の姿勢一つで学問の方針が変わってしまうところに、当時のマルクス主義歴史学の学問的自立性の弱さがあったように思われる。

・人間は善意で人を不幸に落とし込んでしまうことがありうる。それが個人と社会をめぐるパラドックスである。「国民的歴史学運動」における石母田の姿勢も、それであった。通常は「やりすぎ」の運動を防ぐため、各社会システムごとに「きまり」がある。学問ゲームにおいてはそれは「科学性」であるし、『ホモ・アカデミズム』や『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』においてブルデューの言った研究者のハビトゥスを意識する必要がある。また、マンハイムの「存在の被拘束性」やウェーバーの「客観性」原理の意識など、学問する上で最低限守るべきルールは存在している。
 石母田の失敗は、あまりにも歴史研究ゲームから外れすぎたところにある。民衆に対する歴史研究だったはずが、単なる党の市民運動に堕してしまった時点で「アカデミズム」ではなくなったのだ。いわば学問ゲームから自ら離脱してしまったのである。
 無論、この傾向をアカデミズムの自閉性ということもできる。しかし、オートポイエーシス理論をもとにするならば、そもそもどの社会システムも閉鎖的であるのである。その社会システムが外部の社会システムと接触するとき「構造的カップリング」が発生するというのがルーマンの理論である。「構造的カップリング」の前後で社会システムが変容している点に注意したい。
 つまり、石母田らの行った「国民的歴史学運動」は「歴史学」という社会システムと「市民運動」という社会システムが構造的カップリングを起こし、まったく異質のシステムに変更した、ということなのである。本来の歴史学システムとは変遷しているわけであるから、歴史学から追い出されてしまうのは始めから分かっていたわけである。本来的な歴史学を批判し、新しい「国民」のための歴史学創出を行おうとするばあい、その新しい歴史学が本来的な「歴史学」でなくなるのは、トートロジー的ではあるが、真実である。
 仮に市民運動システムとの「構造的カップリング」が歴史学システム全体を変容させるほど多大なインパクトをもっていたばあい、逆に石母田の方法が歴史学の主流になっていた可能性がある。これも「構造的カップリング」の働きによる。しかし、その場合歴史学システムの外にいる人物からみて、全く異質な「歴史学」システムに変貌している可能性がある。

・科学を「民衆」のものにするためにはあえて非科学的な記述をすることを辞さない態度が「国民的歴史学運動」にあった時点に問題があったと考えられる。I・イリイチは『シャドウ・ワーク』において「民衆のためのサイエンス」science by peopleと「民衆によるサイエンス」science for peopleとを立て分ける。前者は民衆にあてた科学であり、主体は知識人である。一方、後者は民衆自身による科学を訴えた内容となっている。イリイチは前者を批判し、後者の実現を呼びかけている点に注目したい。「国民的歴史学運動」は前者に当たるのはいうまでもないことである。
 ここでイリイチの「民衆のためのサイエンス」と「民衆によるサイエンス」の違いを考察したい。前者の難しい点は「前衛」を名乗るばあい、「民衆によるサイエンス」を理想としても(本章でも問題になっていたことである)、一時的であれ「民衆のためのサイエンス」としての知識人が必要だ、というアポリアを招いてしまう点にある。イリイチ自身が自覚的だったか不明であるが、イリイチと言う知識人自体、「民衆によるサイエンス」を実現するためにアジ的言説を吐いたという意味で「民衆のためのサイエンス」を実行していたといえるからだ。
 つまり、「民衆によるサイエンス」は「民衆のためのサイエンス」なしに成立しえないという問題点をはらんでいる。「前衛」党の存在は「民衆によるサイエンス」をエンパワメントするのが働きだが、制度化しない段階で「前衛」が手を引かなければ結局「民衆によるサイエンス」が育たず、「民衆のためのサイエンス」に終ってしまうのである。

・ 批判的教育学がでてくるのは、我々研究者が無自覚的に行っている実践(プラチック)が現行体制の再生産機能をもってしまう。ただでさえ体制順応的になるからこそ、アップルらはあえて「批判的教育学」を実践したのであった。
 下手をするとマルクス主義的な色がついてしまうため、教育学のメインストリームになれなかったのはこのあたりに由来している。このあたりも、本章と合わせて考察したいと思う。
 社会学者R・Collinsは次のように述べている。
「政治・経済・社会階級は決定的につながっている。なぜなら経済システムは所有をめぐって組織され、所有は階級を定義し、そして所有は国家によって維持されるからである。所有物は所有されているもの自体ではない。所有物が誰かによって所有されるのは、国家が所有者の法的権利を確立し、その権利を保証するためには警察権力、必要ならば軍隊を用いるというかぎりにおいてである」(66)
→研究者や経済人が体制派寄りになってしまう理由である。

[ ] 『生きる思想』確認

参考文献

Illich, Ivan(1981):玉野井芳郎・栗原涁訳『シャドウ・ワーク』岩波書店、2006。
Collins, Randall(1985,1994):友枝敏雄 訳者代表『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』、有斐閣、1997。
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参考エッセイ(社会イズムないし「中間集団全体主義」についての考察のために、あるいは『滝山コミューン1974』の解釈について)

学校の違和感について。
藤本研一
 学校に通っていた頃、私はつねに違和感を抱え続けていた。例えば授業中。予習をするとその授業の内容は判ってしまうため、「なぜ授業を受けるのか」分からなかった。また受験に出ない教科を勉強する意味を、見出せなかった。数学の時間に日本史をやり、地学の時間に日本史をやり、現代社会の時間に日本史を勉強していたのが私であった。
 学校の違和感には、2つの要素が原因であるように私は考える。ひとつは集団での学習が強制される点、もう一つは内藤朝雄の言う「中間集団全体主義」がクラスで働く点である。

 集団での学習が強制されるのは、「マス」相手の授業である。生徒集団に対し、教員が1人で授業をする。授業を理解でき、知的好奇心を満足させられる生徒ならまだいい。けれど、そうでない生徒にとって授業は苦痛になる。ひとつは授業を理解できない生徒にとって。理解できないからこそ、退屈し寝てしまうか遊び始める(教室を出る者もいる)。もうひとつは授業の内容より先をやっているため、バカらしくて授業を聴けない生徒である。進学校では予備校や独学で先の内容をやっていることが多く、授業は退屈になってしまう。けれど、「全員で授業を受ける」ことが要請されるのが日本の授業だ。
 もともと、学校のクラスでも授業に求める内容は人それぞれ違う。「もっと高度な内容を」求める生徒と、「もっとゆっくり分かりやすくやってほしい」という生徒とでは、需要が異なるのである。また近年流行の「マルチプル・インテリジェンス」(ハワード・ガードナー)という発想が示すように、人それぞれ「理解しやすい」学び方は違う。耳で聞くより声に出す方が理解できる生徒・目からでしか理解できない生徒・とにかく体や手を動かさないと理解できない生徒などが共存する空間において、単一のやり方が通用するはずがないのである。
 けれど、近年の教育における公共性の議論では、「皆と同じ授業を受ける」必要性が要請されているように思われる。マイノリティやブルジョアが特別の学校に行くことは、社会の複雑さに出会うことがないまま成人してしまう危険性がある、と考えられている。佐藤学の「学びの共同体」実践は、多様な他者との対話・恊働による公共性の教育がその一例である。私はこれに胡散臭いものを感じる。「教育って、そんなにすごいものなのか?」と。ムリヤリでも「学びの共同体」で共通に活動をする程度のことで、公共性が学べるものなのか? そのことが、後述する「中間集団全体主義」のいじめを誘発することはないのか? もっと弊害のない方法はないのか? そんなことを議論することもなく、皆が一緒の授業を受けることで公共性を学ばせることが重視されている。確かに、「学びの共同体」のような実践には一定の効果があるのだろう。けれど、それがベストであるかというとそうでもない。その代案はラストに私が書く。
 
 さてさて、学校の違和感についてもう一つの要素である「中間集団全体主義」を見てみよう。内藤朝雄は次のようにまとめている。「各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂している場合に、その社会を中間集団全体主義という」(内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年、21頁)。日本では学校や会社の中などに中間集団全体主義が入り込んでいる。この中間集団全体主義は共同体の構成員に有無を言わさず強制されるのだ。内藤は学校でのいじめはこの中間集団全体主義により、引き起こされていると述べている。
 『学校が自由になる日』(雲母書房、2002年)の中では、内藤や宮台真司・藤井誠二が日本の学校のなかの中間集団全体主義について語っている。学校では学習するためにクラスメイトの顔色を伺う必要があったり、部活に一生懸命うちこんでいる「ふり」をする必要があったりする。「基本的に、学力の上下と人格の交わりをセットにする学校というシステムそのものが間違っているんです」(307頁)との内藤は発言している。つまり、本来学校では学習をする場所であるにも関わらず、イヤなクラスメイトとも「仲良く」することがないと学べない場所になっているのだ。クラスが学習のための便宜的集団ではなく、生活集団としても組織されている。そのことが学びをするためにクラスメイトの機嫌を見ないといけないという心理状態を引き起こす。
 私もそれを経験した。授業中、積極的に手を挙げたい。しかし、クラスメイトから「目立っている」と言われたくないため手を挙げない。そこからいじめが起る危険性があるからだ。学習効率的に、これほど不合理なことはない(だからこそ、分からない点を質問できるという塾に需要が生まれるのだろう。塾産業は日本の学校が中間集団全体主義のため、学びを行うことが難しいために存在するのかもしれない)。
 中間集団全体主義の例として、『滝山コミューン1974』(原武史、2007年)という作品がある。著者が小学生時代のことを回想して描いた記録だ。小学校のクラスの「自治」が極端にまで成立したときの様子が描かれている(もっとも、この自治は教員が生徒を操りながら作り出したものである点がミソである)。本作のハイライトは、小学校の自治活動に批判的であった「私」が、友人の朝倉に小会議室に呼び出される場面である。引用してみよう。

 小会議室に入ると、代表児童委員会の役員や各種委員会の委員長、4年以上の学級委員が、示し合わせたかのように着席していた。ただこのとき、片山先生や中村美由紀(藤本注 当時のこの小学校の児童会長である)がいたかどうかははっきりしない。
 朝倉はまず、九月の代表児童委員会で秋季大運動会の企画立案を批判するなど、「民主的集団」を攪乱してきた私の「罪状」を次々と読み上げた。その上で、この場できちんと自己批判をするべきであると、例のよく通る声で主張した。
 六八年から六九年にかけての大学闘争では、全共闘の学生が大衆団交やつるし上げを通して、大学のトップや教授に自己批判を強要する「追及集会」がしばしば開かれたが、驚くべきことに、全生研でもこのような行為を「追及」ではなく「追求」と呼び、積極的に認めていたのである。(『滝山コミューン1974』255~256頁)

 学校という中間集団が、一人の児童に「自己批判」を要求する。中間集団全体主義の典型と言える事態であろう。実際は、これほど分かりやすく個人に強要を行うことはないが、集団への帰属を個人に無理やり行わせることが多いという点で、類似する点があるはずである。
 このあと原は自己批判を拒否してドアを開けて逃げる。「「追求」を迫られたのは一度きりで、その後は朝倉が私に何か言ってくることもなかったのものの、校庭で4年の学級員から石を投げられたときにはさすがに愕然とした。私はまるで、学校全体を敵に回したような気分に陥り、特に七五年に入ってからは、受験勉強のためと称して学校を時々休むようになった」(258頁)。中間集団が個人を排斥するのである。

 注目すべきは朝倉という存在である。朝倉は以前、原と親しい友人であった。そんな朝倉が、豹変したように原を吊るし上げの場に呼び寄せる。人間を変化させる中間集団全体主義の恐ろしさである(本書で何度も「違和感」という言葉が出てくる。学校の違和感を探るにあたり、本書は重要な書物であろう)。 

 以上、学校の違和感の理由として集団での学習がある点と、中間集団全体主義が存在する点を見てきた。両者は相互に関係し合い、いまの学校のクラスで学習を行うことが難しいことを示している。
 私はこの状況の改善には、個別学習が必要であると考える。それは、人それぞれ教育に要する需要が異なるためである。またクラスの解体も必要であろう。大学のように、授業ごとに生徒が集まるようにするのである。都立・山吹高校のように、無学年・単位制の学校も存在する。
 中間集団全体主義が広がる日本の学校において、学びを成立させるためには授業選択制も必要となるであろう。クラスの中に学びを閉じ込めてはならない。

マルクス/エンゲルスと「革命」の逆説

 ギデンズの再帰性の話をするならば、彼はパーソンズの図式に対し〈なぜパーソンズの図式を知った人であっても、その図式に従ってしまうのか〉という批判の仕方をしている。マルクス主義にもそのような傾向があるのではないか。つまり、「革命の必然」を述べている書物を資本家が読むとき、資本家の中で「再帰」が起きる。その結果、革命を防止するほうに動いてしまう。それがケインズ主義のように結果的に労働者に益する方向に動くこともある。「革命」防止法としてよむことの方が多いだろう。そうした場合、逆説的ながらマルクス主義の研究が進めば進むほど、マルクス主義的革命が起こらないようになってしまう。
 マルクスやエンゲルス(コリンズの『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』を読むと、エンゲルスの社会学的貢献の大きさがよくわかるため列記した)の書物が読まれるほど、影響を受けて「革命」を起こそうとする人が増える。はじめはソ連や中国で成功する。しかし、それらの革命国の成功が他国に伝わると、なんとか「革命」を起こさない方向を人びとは考えるようになる。つまり、マルクス主義の考えが広まるほど、それが再帰を起こし、人びとに「革命」を起こさないように機能するという「逆機能」がおこるのである。

Collins, Randall(1985,1994):友枝敏雄 訳者代表『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』、有斐閣、1997。

原題:Four Sociological Traditions

●序文

A~C:「社会学の偉大な3つの伝統」

A「紛争理論の伝統」
・マルクス/エンゲルス/ヴェーバー
→「資本主義、社会階層、政治紛争の理論と、それらに関連する社会学の巨視的・歴史的テーマを展開」(ⅰ)

B「デュルケム理論の伝統」
①:「社会のマクロ構造に注目するもの」(ⅱ)モンテスキュー/コント/スペンサー/マートン/パーソンズ
②:「対面集団で形成される儀礼をとおして、集団の連帯を生みだすメカニズム」(ⅱ)ゴフマンによる日常生活における儀礼の分析

C「ミクロ相互作用論の伝統」
①プラグマティズムの伝統:パース/ミード
②象徴的相互作用論の系譜:クーリー/トマス/ブルーマー
③現象学的あるいは「エスノメソドロジー的」社会学:シュッツ/ガーフィンケル

第2版の追加
D功利主義(合理的選択)理論の伝統

●プロローグ 社会科学の誕生

・「デュルケムの学問上の直接のライバルは心理学だったから、彼は社会学的分析のレベルを心理学的分析のレベルから区別することに心を砕いた」(41)

「ドイツとフランスで社会学の将来性のある端緒が現れたあと、世界政治の激動によって社会学はほとんどアメリカに移ってしまった」(42)

コメント
 ・日本と違い、ヨーロッパの「大学」システムは、中世から一貫性をもっていると言うことが文章から伺えて興味深かった。「大学改革」は遥か以前から行われてきているということは非常に面白い。

●第1章 紛争理論の伝統

・紛争理論化としての「マルクス」を見ていく。コリンズはマルクスよりもエンゲルスを社会学において重視する。
・マルクスはそのまま大学に残りつづけていたばあい、気鋭の哲学教授になっただろう、というのがコリンズの立場である。しかし「エンゲルスがいなければマルクスは、シュトラウス、バウアー、そしてフォイエルバッハが切り開いた方向をさらに一歩進めた、唯物論的傾向を持った青年ヘーゲル派の左翼であった」(56)。

「いちばん重要なことは、マルクスが経済学を発見したということである」(49)

「事実、最初に経済学の重要性を理解し、適切に批判し、ブルジョア・イデオロギー的理解から抜け出ていたのはエンゲルスその人であった」(54)

・「マルクスの方がつねに同時代の政治家であったのに対し、エンゲルスの方は純粋に知的で偉大な歴史社会学者であった」(55)
「マルクス個人の迷宮の中には、社会学が入り込む余地はなかった。彼の見方のなかに社会学の息吹を吹き込んだのはエンゲルスであり、エンゲルスの著作」「こそが社会学がこの「マルクス主義」の考え方から学びうるものを伝えているのである」(57)
・「もし言葉遊びが許されるなら、「マルクス主義」というラベルは神話であり、社会学という目的のためにはマルクスは「エンゲルス主義者」とよんだ方がよい、と言うことができるだろう」(58)

・「唯物論の基本原理は、人間の意識は一定の物質条件にもとづいており、それないしには存在しえない、というものである」(62)
「いずれの支配的観念も支配階級の観念である。なぜなら支配階級は精神的生産手段を統制しているからである」(62)
→この辺、アルチュセールの国家のイデオロギー装置論やグラムシのヘゲモニー論を思い出す。

・「政治・経済・社会階級は決定的につながっている。なぜなら経済システムは所有をめぐって組織され、所有は階級を定義し、そして所有は国家によって維持されるからである。所有物は所有されているもの自体ではない。所有物が誰かによって所有されるのは、国家が所有者の法的権利を確立し、その権利を保証するためには警察権力、必要ならば軍隊を用いるというかぎりにおいてである」(66)
→研究者や経済人が体制派寄りになってしまう理由である。

・「政治は国家を統制するための闘争である。マルクスとエンゲルスの考えによれば、支配的な有産階級がつねにこの闘争に勝利するが、基本的生産関係が移行しつつある歴史的状況は例外である。このときには旧支配階級の政治的支配は崩れ、新しい階級がこれに取って代わる」(67)

・「政治の混沌とした現実を理解するための強力な道具」(68)
「1つの決定的な原理は、権力は動員の物質的条件に依存するというものである」(68)
→「有産階級が政治を支配するのは、多数の政治的動員手段を持っているからである」(69)
☆金融資本も社会関係資本も持っている。
しかし「ビジネスが一1つの巨大な独占へと向かうにつれて、労働者たちもそれに応じた統一がなされ、最終的には数の力を獲得し、資本家たちを圧倒する」(71)という。
 けれどこのことは実際生じなかった。「というのも、政治的動員手段が変化し、独占の過程が中間点で安定化したからである」(69)
・「強権的な革命政府だけが、ビジネスや金融業務のすべてを政府が即座に掌握し、完全な統制経済を布くことによって、ビジネス界の不信によってひきおこされる経済危機の時期を回避することができるのである」(70-71)
・「革命がこのように他の誰かの利益のための虚偽意識や虚偽行動といった奇妙な性質を持つのは何故だろうか」「精神的生産手段を握っているため、上流社会階級は、何に関する革命で誰が敵かということを定義することができるのである」(72)
→これ、ヘゲモニー論だ。

・「1つの一般的な原理は、同盟は敵の存在によって結成されるというものである。敵が消失してはじめて、同盟者間の戦いが自由となる」(73)

・ウェーバー「資本主義は人間の自由と経済的生産性をともに高める最高の社会体制であると、彼は実際には信じていたからであった」(78)

・紛争とは多元性がもたらすもの
「ウェーバーを語るうえで何よりも中心に位置づけられなければならない事実は、彼が世界を多元的なものとみなしていたことである」(80)「多元的なパースペクティブを取った結果、彼はもっとも根本的な意味で紛争の理論家となったのである」(81)それは「紛争とは、諸事象の多元性そのものが形を取ったもの、あるいは社会を構成する異なる集団、利害、パースペクティブが織りなす多元性が形を取ったものだからである」(81)
・「結局のところウェーバーは、歴史というものを、多方面にわたって展開する複雑で多面的な紛争の過程とみなしていた。単純化された進化論的な段階概念、あるいは理論家が複雑な歴史的現実に対してとかく当てはめようとしがちな整然とまとまった他の類型は、ウェーバーの敵であった」(82)

・「階級とは何らかの市場で特定の独占度を共有している集団であることを、忘れてはならない。そして階級がこのことを成しとげるのは、それが組織化され、1つののコミュニティを形成し、自分のまわりに張りめぐらされた何らかの法的・文化的な障壁を通じて1つの意識を獲得することによって―手短にいうと、身分集団となることによってーなのである」(85)

・国家の武器
①武装:国家は「それゆえに、他のすべての組織を支配することが可能となる」(88)
②正当性:「こちらは文化的・情緒的な領域という面にかかわる」(89)「マルクスとエンゲルスの言葉によれば、国家とは、イデオロギーを生成する巨大な機関である。またヴェーバーの言葉によれば、国境内にいる多数の人々がみずからを単一の身分集団、すなわち国民の一員であると感じるようにし向けることができるのが、成功を収めた国家ということになる」(89)
→カリスマというのもこの正当性を担保する。
・「正当性は無からは生じない。それは作り出されるものである。そして正当性をつくり出すさまざまな組織は、精神的生産手段(最近私は、これを「情緒的生産手段」とよんでいる)のもう1つの側面とよぶのがふさわしい」(89)
→☆一億層中流や「社会イズム」は国の一元性を示す働きで「正当性」を付与しているのか。

・ウェーバーの弟子・ミヘルス(97)

コメント
・ギデンズの再帰性の話をするならば、彼はパーソンズの図式に対し〈なぜパーソンズの図式を知った人であっても、その図式に従ってしまうのか〉という批判の仕方をしている。マルクス主義にもそのような傾向があるのではないか。つまり、「革命の必然」を述べている書物を資本家が読むとき、資本家の中で「再帰」が起きる。その結果、革命を防止するほうに動いてしまう。それがケインズ主義のように結果的に労働者に益する方向に動くこともある。「革命」防止法としてよむことの方が多いだろう。そうした場合、逆説的ながらマルクス主義の研究が進めば進むほど、マルクス主義的革命が起こらないようになってしまう。
 マルクスやエンゲルス(コリンズの『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』を読むと、エンゲルスの社会学的貢献の大きさがよくわかるため列記した)の書物が読まれるほど、影響を受けて「革命」を起こそうとする人が増える。はじめはソ連や中国で成功する。しかし、それらの革命国の成功が他国に伝わると、なんとか「革命」を起こさない方向を人びとは考えるようになる。つまり、マルクス主義の考えが広まるほど、それが再帰を起こし、人びとに「革命」を起こさないように機能するという「逆機能」がおこるのである。

・感想
この本、購入して何度も読みたい。

安川一編(1991):『ゴフマン世界の再構成』、世界思想社。

「われわれは、〈共在〉のなかにいて、「秩序」を感じ続けている。なぜか。――ここに、相互行為の日常慣行の働きがみえる。つまり、われわれは相互行為のなかで、いわばこの慣行にハマリ続けることによって秩序を現実化させている。日常慣行の着実な堆積こそが秩序なのである」(ⅱ)

→ゴフマンもプラチック(慣習行動)について述べている。その点で、ブルデューと繋がっている。両者をふまえた研究は存在しているのであろうか。

「ゴフマンの分析の対象、それは、人が他の人たちと居合わせている状態、つまり〈共在〉であった。その脆くリスキィで、しかし弾力性ある心地よい秩序が、さまざまな観察と考察に付されている」(2)

「経験とはフレイミングである。無関係なもの、曖昧なものが排除され、そのことの正しさを保証するものが当のフレイム内的世界のなかに求められる、そうしたことにかかわるプラクティスの作動を通して個々の経験が組みあがる。しかも、フレイミングとは、経験の組織化にともなう、あるいはこれを支える活動の組織化でもあり、したがって関与の組織化でもある」(11)

「制度とシステムの現状がいかに抑圧的、加虐的であっても、人はその再生産に「自発的に」加担していく。カテゴリカルに差別され続ける女たちがそれでも自然な性差を信じ続け、スティグマを付与された人たちがそれでも現行秩序に居場所を求めつづけているように。相互行為プラクティスへの習熟、その結果として馴染んだ経験の安定性と圧倒性をリアリティとよぶなら、人は、このリアリティのなかでまさしく眠っている」(23)

「ゴフマンの社会学とは、〈間身体的行為〉の社会学であり、〈間身体的行為〉の社会学とは、〈間身体的行為〉に関する規範・規則を記述すること、つまり〈間身体的行為〉の秩序構造を分析することである」(38)

「人びとはドラマトゥルギィ的感覚をもち、ドラマトゥルギィ的実践活動を実行している特徴があり、市民=公民の「ドラマ」をまじめに考え実演している。ドラマトゥルギィ的枠組みは、英米社会における日常の舞台で生起する社会的相互行為の大部分の特性を示している」(40)

「さまざまな状況の定義に関する公然の対立を回避することが望ましいときにも単一の状況の定義が存在している。参加者たちは共同して単一の状況の定義に寄与しているのである」(46)

→「内職」論に繋がる。学校の授業という「状況の定義」を、「内職」実践者はやはり支えている。授業ゲームを維持する働きがあるのである。

「状況の定義は単に主観的に実行されているのではなく、社会的場に限定されながら投企されているのである」(51)

「日常世界では、会話の相互行為の可能性が物理的に生じると、自己に関する儀礼秩序が作動して、それがメッセージの流れを誘導する手段として機能することとなる。社会化された相互行為者は、会話の相互行為を自己についての儀礼的配慮をもって取り扱うのである。コミュニケーションの間にメッセージの流れを誘導するシステムは、儀礼規則のシステムである」(55)

「ゴフマンにとって自己は、個人レヴェルの心理現象ではなく、間身体レベルの社会的事象である。神聖な自己は相互行為上の儀礼規則から築き上げられた一種の構成体であり、したがって〈間身体的行為〉において儀礼秩序上、状況適切的に注意して取り扱わなければならない儀礼的な産物である」(57)

「こうした自己の産出を担っているのが実のところ、〈間身体的行為〉の秩序構造・儀礼原理なのである」(59)