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斎藤次郎 1996『気分は小学生』岩波書店

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斎藤次郎 1996『気分は小学生』岩波書店

中年のオジサンが小学四年生のクラスに1年間留学するという、ありそうでなかったフィールドワークである。

Webで「斎藤次郎 教育評論家」と調べると、2007年の大麻吸引事件の話しか出てこない。私は大麻を吸うとか関係なく、いい仕事をする人の作品を大事にしたい、と考えている。そうしなければ、ビートルズの曲は大体すべて聞けなくなってしまう(ちなみに逮捕時点で30年の大麻吸引歴があるため、小学校「留学」中もむろん大麻をやっていたことになる。どうでもいいけど)。

ちなみに、本書は95年の取材であるから俺がちょうど小一の時のことである。斉藤の「留学」先は小4であるからリアリティがある。本書の「子ども」は俺のことなのだ!
以下は抜粋。
「ぼくのモットーは「子どものことは子どもに習え」であった」(2)
授業が「わかっているものとわからないものとの共存はあり得ない。割り算がわかってしまえば、わからない人の苦しみを共に担うことはもうできないのだ。これは「教育」という営みのかかえる宿命的な背理ではないか」(43)
「子どもたちは、休み時間になればもうこっちのものなのである。彼らは非常にしばしばダメージ大きいボクサーがゴングに救われるように、チャイムに救われる。あいさつが済んで教科書を机にしまった瞬間、悪夢はきれいに拭い去られるのだ」(47)

オレオレ詐欺の広告

オレオレ詐欺注意の広告。
本人が自宅にオレオレ詐欺の電話をすればいいのではないか、と思った。

裁判になっても家族内なので民事で済むだろうし。

集団ぎらい

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集団ぎらい

 わかったことがある。最近の私は「三人関係」以上のものに慣れていない、ということだ。4人くらいでだらだら過ごす、ということに耐えられなくなっているのだ。そのことが私に飲み会やサークルなどの際に疎外感をもたらしていたのだ。

 基本的に私は一人でいるか二人でいる。話すのも酒を呑むのも多くて二人。そのため3人以上でいるとどうふるまっていいか分からなくなる。
 実家に帰るのが億劫なのも、家族というマスに埋没する必要があるからだ。家族という集団の幻想を維持する一員にならざるを得ないのが「キツい」ために帰省が嫌なのだ。同様に飲み会にあまり行きたくないのも、集団に埋没しなければいけないからだ。飲み会は「会」の維持が最優先になるイベントである。「会」が存在するという幻想を乱すもの(=私)は排斥されなければならない。
 そんなわけで私は集団が嫌いになっている。集団ぎらいを英語でいうと何になるのか。massphobiaとでも言うのだろうか。

昼モス

朝マック、昼モス、夜ロッテ。

R.セネット(1980):今防人訳『権威への反逆』岩波現代選書、1987。

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R.セネット(1980):今防人訳『権威への反逆』岩波現代選書、1987。

「権威の絆は、強さと弱さのイメージから造られている。つまり、権力の情動的表現なのである。孤独は、他の人々から切り離されていること、つまり絆の喪失の知覚なのである。友愛は、同類のイメージに基礎を置いている。同一の国民として、同性として、同じ政治的立場として「われわれ」という感覚によって引き出される情動なのである」(2)
「自由は幸福ではない。それは分裂の経験であり、暴君と奴隷がどの人間にも宿っているという最終的な承認である。この事実を承認して初めて決闘者以上のものになれるという希望は常に抱けるのである。自由は私があなたに与える承認が私自身からある何かを差し引かない時に、最終的に存在するのだ」(178)
「感情移入は他人の生活へのなにほどかの探求を要求するのに対し、共感はもっと控え目で、必然的に理解しようとする試みを伴わない関心の表現である。感情移入の想像は、二つの自分自身であるドッペルゲンガーの創造とも異なる。そうではないく、他の誰かの身体や環境のうちに想像される自分自身なのである」(197)
「われわれが18世紀から継承した民主主義のあらゆる観念は、権威は目に見え、読むことのできるものであるという概念に基づいている」「この共通の努力から、市民はある権力を指導者に委任するとともに、指導者がどれくらいその委任に値するかを裁定するという結果が生じる」(234)
「権威とはそれ自体本質的に想像力のしわざである。それはものではない。他人の強さの中にあり、もののように見える堅固な保障の探求である。この探求を達成できると信じるのはまさに幻想であり、しかも危険な幻想である。暴君だけがその要求を満たす。しかし、この探求を全く行うべきでないと信じることも危険である。その時、いずれであれ、絶対視が起きるからである」(273)
訳者あとがきより。
「権威者は畏怖を引き起すだけでは不十分である。養育なき権威こそ否定されるべきなのである」(279)
☆アレントも『過去と未来の間』において教育に権威が必要である点を述べる。フーコーやアルチュセールの権力論には「呼びかけ」に答えることで主体subjectが形成される、とあるがそれを「養育」と見ることもできるのではないか。

R.セネット(1980):今防人訳『権威への反逆』岩波現代選書、1987。

鷲田清一(2006):『「待つ」ということ』、角川選書。

「〈待つ〉ことはしかし、待っても待っても「応え」はなかったという記憶をたえず消去しつづけることでしか維持できない。待ちおおした、待ちつくしたという想いをたえず放棄することなしに〈待つ〉ことはできない」「〈待つ〉とは、その意味では、消すことでもあるのだ」(16)
→☆教育とは待つこと、とはよくいうが、それは教育への期待を消すことでもある。
→☆次の文章を思い出す。『寺山修司名言集身捨つるほどの祖国はありや』(2003)より
「さよならだけが/人生ならば/またくる春はなんだろう/はるかなはるかな地の果てに/咲いてる野の百合何だろう」(69)
「言葉は、ひとを「いま」から引き剥がしてくれるものである。言葉によってひとは時間の地平を超える」(23)

「現在の外へ出ること、それも〈時〉という持続のなかで現在から外出することが、「何かを待つ」ときには起こる」(113)

「「祈り」はあくまで〈待つ〉ことのひとつのかたちであって、「神さま」への要求なのではない」(139)
→☆これ、祈りが一見受動的に見えたとしても実は受動的な行為であることの説明ではないか。祈り自体は自らにかける暗示や期待の現れである。「自分が運命を変える」という主体の表れでもある。

「〈待つ〉は、人類の意識が成熟して付加的に獲得した能力なのではない。〈待つ〉ははじめから、意識を可能にするもっとも基礎的な位相としてあった。〈待つ〉ことから未来は生まれ、意識は始動したとすら言えるかもしれない」(188-189)
→☆では、動物に「待つ」は存在するのか、が不明点である。飼い犬は飼い主の帰宅と餌を「待っている」のだろうか。むしろそう見えるのは人間の観察によるだけであり、動物には常に「現在」しかない以上、未来の予測は不可能なのではないか(むろん、「動物」の種類にもよるが)。

「〈待つ〉のその時間に発酵した何か、ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによってまちびとは、〈意味〉を超えた場所に出る、その可能性にふれたはずだ」(193)

→「待ちぼうけ」という歌は、来るはずのない兎を待つ男の物語であるが、「待つ」からこそ開けてくる世界観でもある。

☆所感:「哲学とは死ぬための準備」(ソクラテス)ならば、人生とは「死」を延々と待つ行為になるのであろうか。

種の分類

種の分類か1つだけ間違っている。
とうもろこしだけ、料理法が描かれている。

元森絵里子(2009):『「子ども」語りの社会学 近現代日本における教育言説の歴史』、勁草書房。

元森氏の博士論文を元にした本。結論部分に感銘を受ける。要は「子ども」と「大人」を分ける切れ目はどこに現在おかれているか、という部分。「すなわち、身も蓋もない結論であるが、現代において、「子ども/大人」の区分は、もはや「子ども」の処遇に関する領域それ自体ではなく、経済(市場)、法、政治(行政国家)などの近代社会を支える諸制度に組み込まれたものとして、消し難く残り続けるのである。そうであるならば、教育などの「子ども」をそれらの領域から保護して「非主体」に留め置く—さらに言えば、同時に責任主体としての「大人」にする—領域は、その陰画としてのみ要請されると考えられる」(216)

 その言い換えが次の部分。
「消し去れない(☆大人と子どもの)最終ラインは、経済、法、政治という領域との関連性における「子ども」のための領域であり、それらの領域で責任主体たれない未成年という擬制のみである。このある意味身も蓋もない知見を前章までの知見に引きつけて言い換えれば、現代において、「子ども」と「大人」を分けているのは、しばしば想定されているような、完全に倫理的な判断力や責任能力を備えた「近代的主体」とその準備期間という区別でもなければ、本書で見てきたような、秩序に一体化する「国民」とその予備軍という区別でも、非社会的な「私」と理想の生という区別でも、堕落し誤った存在と未来の社会を実現する存在という区別でもないのである」(220)

 言説分析の長い検討と、プレーパークでの「語り」の検討などをもとに出した結論がこれである。確かに現在の切れ目は「責任主体」たるか否か、にあるということができる(こういうと本書をすごく乱雑に語ったことになってしまうが…)。

 ほか、中学生毎日新聞の言説分析部分に「登校拒否」に関する中学生の投書数の分析(165-)など、使える箇所があった。

山下和也(2010):『オートポイエーシス論入門』ミネルヴァ書房。

学術の世界で使えるオートポイエーシス論を目指すという本。
 言語システムについての記述(5章など)などから、どことなくブルーマー『シンボリック相互作用論』を思い出す本である。ということは、オートポイエーシス論はシンボリック相互作用論と親和性が高い理論なのだろう。

 オートポイエーシス論のキーワード。
「オートポイエーシスはオートポイエーシス論でのみ語らなければならない」(8)
「産出されたものがあれば、必ずそれを産出した働きがある」(9)

「オートポイエーシス論とは、あえて言うと、産出するものと産出されるものの理論に他ならない」(9)

「オートポイエーシス論は自己の発生の論理を扱う理論である」(29)

「システムがその作動を通じて自分のコードを書き換えて変化することを、マトゥラーナの術語を借りて、「構造的ドリフト」と呼ぼう」(43)

「オートポイエーシスの自律性の最大の帰結は、原理的にこのシステムを外部からコントロールすることはできない、という事実だ。コントロールしようとしても自律性によって抵抗される」(51)

「端的に言えば、構造的カップリングとは、複数のオートポイエーシス・システム同士がお互いを環境として攪乱を生じあっている状態である。したがって、これはシステム間の単純な相互作用ではない。一方のシステムが他方のシステムに働きかけ、それに応える形で逆に働き返す、という図式にはなっておらず、相互の攪乱は完全に同時で、そのためそれぞれの作動は自律的であり、対応関係にはない。したがって、構造的カップリングしているそれぞれのシステムにおきる変化に因果的対応関係をつけることは不可能だが、構造的カップリングはそれらシステムすべての作動の前提となり、それぞれのシステムはカップリングしている相手のシステムの作動を、残らず自分自身の作動に織り込んでいる」(75-76)
「当然、カップリングしている総体に何が起きるかは、創発による。個々のシステムの作動からは決まらない」(76)

「デカルトは、「私は考える、それ故に私はある」という回り道をして私の実在に至ったが、実際には、「私」と言ってシステム自身にとっての視点をとった瞬間、私の実在は確定している。デカルトに、自分が疑うに際して「私の存在するということが極めて明証的に、きわめて確実に伴われてくること」も当然なのである。私が、すなわちシステムが実在しないなら、システム自身にとっての視点もなく、「私」という事態そのものもありえないので」(183-184)
→☆これ、ゴフマンの”Frame Analysis”によれば、個々人のフレイムによって認識される自己システム、ということなのだろう。

「整理すると、観察者の視点からの自己認識は、厳密に言うと自己認識になっていないということ。認識しているのは認識システムで、その認識表象に現れているのは認識システムそれ自身ではなく、無意識システムの構造である意識の、しかもその現れにすぎず、まったく異なる。つまり、認識している自分とされている自分は、どこまで行っても別物である。にもかかわらず、観察者の錯覚のために、認識システムはその現れを自分自身と誤解するのだ。それは認識システム自身が、自己言及によるとして、つまり自分自身の現れを自分自身と誤解するのだ」(248)