昭和を代表する作家で劇作家の寺山修司。
高校在学中から「短歌」の世界で注目され、
大学中退後、ラジオドラマを書き、
テレビドラマ、映画脚本、戯曲、競馬評論などを立て続けに書き連ねる。
作詞も行うし、テレビにも出演する。
そして自分の劇団「天井桟敷」を旗揚げ。
映画監督としても、映画史に残る『田園に死す』などを残している。
著作も数知れず。
職業を聞かれた際、
「職業は寺山修司です」
そう言ってのけるほど、マルチな才能を発揮した寺山修司。
寺山修司の20代はじめはテレビ黎明期。
まだテレビドラマのほとんどが「生放送」だった時代です。
ビデオテープのような録画装置がバカ高かった頃。
そんな頃からずっとドラマ脚本を書き続けている人なのです。
「あしたのジョー」のテーマ曲の作詞家、といったら驚く人もいるかもしれません。
「サンドバッグに・・・」のあの曲です。
「あしたのジョー」に出てくる、ライバルの力石徹が作品中で死亡した際、
力石徹のお葬式が行なわれました。
その葬儀委員長も寺山修司。
ほんと、よく分からない人です。
死後30年以上たったいま現在にも熱烈なファンのいる寺山修司。
かくいう私もその一人。
わざわざ、青森県の何もないど田舎にある
「寺山修司記念館」までノコノコ行ってしまうほどです。
衝撃を受けたのが、
寺山修司記念館のバス停。
「冬期間のバスの営業はありません」
自家用車、あるいはレンタカーなりタクシーなりでしか来れない。
それでいて「郷土の偉人」と言い張る青森県。
ほんと、素晴らしいですね!
さて、今回紹介する『虚人 寺山修司伝』は、
「カッコよくない」寺山修司の姿を赤裸々に書いた本。
輝ける天才・寺山修司が、
実は「パクリ魔」だったことを当時の証言を元にまとめている本なのです。
帯紙がいいことを書いています。
「徒手空拳で青森から上京し、草創期のテレビ界を舞台に、さまざまな人物と交流しながら名声を求めた寺山修司。
彼の作品−−俳句、短歌、ドラマは模倣の連続であった。」
・・・あまり知りたくない話ですが、事実です。
寺山修司作の短歌として、最も有名なのはこちら。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
叙情的で、なおかつ社会風刺すら込められた短歌。
私も大好きな短歌です。
ですが、この短歌も「元ネタ」があります。
「一本のマッチをすれば湖は霧」(170)
このレベルだと、モデルをもとに創造をした、といえるものです。
ですが、『虚人 寺山修司伝』は彼の「剽窃」(パクリ)が筋金入りであることを述べています。
高校在学中の「短歌」も友人のパクリの短歌が多い上、
初めて書いたラジオドラマにも剽窃疑い。
これまた初めて書いた戯曲やテレビドラマのシナリオも
「パクリ疑惑」が起きているのです。
そう、実は寺山修司は「パクリ魔」だったのです!!!
ただ、彼が優れているのは「パクった」作品に、
彼自身の世界観をうまく落としこむ所。
寺山修司のあらゆる作品には「田舎・青森」と「都会・東京」の相剋と、母と子の葛藤が込められています。
コラージュ。断片の集積。コピーのオリジナリティ。この田舎者の国の戦後に何か一番の核を突きつけたのが修司だったのではなかろうか。そう和田(注 和田勉のこと)は思うのだ。(210)
ただ、寺山修司がなぜ剽窃までして自分の作品を創りださなければならなかったのでしょう?
本書の作者は寺山修司の家庭環境にその理由を求めています。
幼くして父を亡くし、母と2人ぐらし。
その母も、仕事のため寺山修司を置いて九州で働きに出る。
ある意味「捨てられた」状態で、縁戚の映画館で生活する。
そんな状態のため、とにかく有名になって「承認」を得たかったのではないか???
そのためなら剽窃だろうがなんだろうがやるし、
「短歌」で有名になったら次は「戯曲」「脚本」「小説」と、
次々仕事を行っていく。
寺山修司にとって、
短歌も戯曲も小説も評論もなにもかも、
自己を承認「してもらう」ための手段に過ぎなかったようです。
これ、相当つらいことですよ!?
そこまで頑張らないと、自分が満たされないわけですから・・・。
私は、寺山修司がただただ、才能にあふれていた「天才」なのだと考えていました。
本書を読んで、急に身近に感じられました。
そんな寺山修司。
末期の病を宣告された後も、「映画監督」や「演劇の演出」にこだわりました。
彼にとって、「末期の病」の宣告は何を意味していたのでしょうか?
私は、はじめて「承認」を必要としない仕事に出会った「喜び」があったのではないか、と考えています。
「承認」を求めて仕事をしていた寺山修司。
さすがに「このままだと余命は1年ない」と言われた際、
「本当にやりたいことをやる」意識に変わったのではないか。
私はそう思っていますし、
そうあってほしいな、と思っています。
若者に「家出のすすめ」などでアジ気味の励ましを送っていた寺山修司が、
最後の最後まで自己承認のために仕事をしていたとは「思いたくない」のです。
寺山修司が自分の劇団旗揚げの際、
俳優として依頼したのが美輪明宏(当時、丸山明宏)です。
紅白歌合戦はもちろん、
テレビにも未だに出ています。
美輪明宏も生きているし、
寺山修司をラジオドラマの世界に引きずり込んだ
谷川俊太郎もまだ生きています。
寺山修司は「若い日本の会」に入っていました。
日本が「政治の季節」だった60年代に、
「若手」文化人として声を上げたのが「若い日本の会」。
「若い日本の会」のメンバーはそうそうたるもの。
石原慎太郎や劇団四季の浅利慶太も、
永六輔も大江健三郎もそのメンバー。
しかも、まだ生きている人が多いのです。
(もう若くない・・・)
それを考えると、
1983年、47歳にして他界した寺山修司が不運に見えてきます。
同年代がまだ活躍しているのを見ると、
「若すぎた死!」という思いが抜け切らないのです。
だって、今の時代を寺山修司がどう解釈するか、
見てみたいですもん。
特に短い警句たる「アフォリズム」に秀でた寺山修司がもしツイッターをしていたら・・・。
とてつもなくグイグイ引き込むツイートをしていたはず。
そう考えると、残念で仕方ないのです。
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