2010年 2月 の投稿一覧

「わたし」を如何に作るか。

 失恋は苦い。けれど、それにより「わたし」という存在がより深いものになる。アーレント風に言うなら、「振る」異性の存在(=他者)が私を豊かにする、ということか。

 「わたし」という「主体」を形作るには、「苦しみ」が必要である。高岡健は、人間は年上と年下の異性から別れを告げられない限り自分と向き合うこと・「わたし」を深めることは出来ないと語る(『16歳からの〈こころ〉学』)。
 教育という制度の欠点は、本来自分でやるべき「主体(=わたし)」の構築を、教育制度が行えると思ってしまうところにある。過ち・失望・絶望・孤独から子どもが学ぶのを「危険だ」と考え、そうならないように何かを教える。例えば性教育、例えば消費者教育。それが別の種類の絶望(=学歴信仰など)を生んでもいるのであるが。
 究極的には、教育で ひと(=わたし)を作ることは出来ない。教育に出来ることは ひとをその人の内面に向き合うことを手助けすることである。決して、「教える」ことで代替はできない。

レーウェンフックの顕微鏡

大学経営や学問の研究の場から、「高卒」や「中卒」の人間が排斥されている。ゆえに「大卒」の人の立場からしか、発想がなされない。

レーウェンフックが顕微鏡を作ったとき、まだ一般民衆が学者と論争し合うことができた。いま、それはない。
大学に関する立場に、「大卒」でない人間もいれていく必要があるように最近の私には思われる。「大卒」という記号にはそれほど意味はない。レーウェンフックのように正規の教育を受けていない人間でしか考えられない視点があるはずだ。
そこを見逃すことがないようにしたい。

「小説 母の弁当箱」へのコメント。

 「母の弁当箱」という小説を、本ブログで書いた。これを現役高校生であるK君に読んでもらった。

「中学生にもなって、ポケモンの話を友人としないし、弁当を捨てて何か買って食べるなら、弁当以外もの、たとえばお菓子を買いますよ」
 おっしゃる通りのコメント。
「中学生は、小学校の〈あのね帳〉みたいな文章を書きませんよ」
 これまたおっしゃる通り。
 大人は自分が子どもだった時のことを忘れる。この言い回しを時々聞くが、まさにそれを実感した。私が中学生だった時のことを、いまの私はすっかり忘れてしまっているのだ。というより、中学生だった時の私と今の私は連続する存在ではないのではないか、という思いすらしてくる。
 何かの漫画にあった。ある日小学生の「私」が野良犬のようなものを拾ってくる。実は大人になった「私」はその野良犬のようなものが変化した存在で、小学生のときの「私」はどこかへ消えたのではないか。そのことに気づいた時点で漫画は終る(永井均『マンガは哲学する』に紹介されていた物語である)。
 この寓話は、「大人は大人は自分が子どもだった時のことを忘れる」ことを身にしみて実感させてくれる物語であるように思われる。

グラウンドの芝生化

高田馬場駅そばの小学校で芝生化の作業が行われている。なんでも老朽化したゴムチップのグラウンドを剥がして芝生にするらしい。

どうせ剥がすなら、はじめから芝生でよかったのではないか、と思う。無駄な公共事業。

芝生にすると除草剤や肥料をけっこう使う必要が出てくる。「学校環境の緑化」というと聞こえがいいが、芝生化が本当に環境にいいことか、検討してみる必要がある。

子どもの保護は、絶対の真理か?

『まんが能百景』(渡辺睦子 作画・増田正造 解説、平凡社、2009)を読み終える。能の物語を見開き2ページで分かりやすく漫画で説明してくれる、便利な本。面白く読んだ。

 僧が道を歩いていると、近くにいる人が案内をする。実はその案内人は幽霊で、「弔ってくれ」と言って消える。僧が弔うと幽霊が成仏を喜んで舞う。大体の能が、こういう型に基づいて描かれていた。何事にも、「構造」があるものだ。
 「構造」と言っていいかは分からないが、子どもを人買人(ひとかいびと)にさらわれ、母親が狂乱しつつ探しまわるというシナリオも『まんが能百景色』に多く登場した。
 
 「人の命は地球より重い」という言葉をよくきく。けれど、「生命の重さ」はどの時代でも一定であるわけでない。昔、子どもは勝手にいなくなったり、勝手に死んだり、誰かに殺されたりするものだった。大体、親が子どもの数を正確に覚えていないことも多い。モラリストと評価されるモンテーニュも、自分の子どもの数を覚えていなかったほどである(以上、アリエス『「教育」の誕生』より)。「人買人」に買われたり、さらわれたり。そういうことが日常的にあった(『千と千尋の神隠し』という映画のタイトルにあるように、「神隠し」も頻繁にあった)。でなければ、日本の伝統芸能である「能」に「人買人」の話が出てくるわけがない。
 現在の社会では、「子どもを守る」ことが重視されている。いま私鉄の改札を通るたびに親にメールが送られたり、「ココセコム」や携帯で居場所を親が探せるようにしたり、塾に監視カメラがあったりするなど、種々の技術を活用しつつ子どもを保護する(『学校身体の管理技術』より)。私も保護されて育ったゆえに私が何か言える権利はないかもしれないが、本来子どもはこれほど保護されなければならない存在だったのだろうか? 能を見る限り、そうではなかったことがよくわかる。
 
 本稿で私は何も「子どもを保護するな」と言っているのではない。時代に応じて、何が正しいかは移り変わる。「子どもを保護しない」のが当然の時代もあれば、現在のように「保護しまくる」時代もあるのだ。

東野高校に見学に行く。 

 東野高校(埼玉県・入間市)へYさんと行ってきた。Yさんは3年ほど前にこちらに見学にきたらしい。

 東野高校は1985年に設立された「自由」を重視した学校。制服も校則もない。生徒は喫煙もすれば授業中も外でふざけている。教員もヒッピー的な服装。Yさんによると「バンダナを巻いている人がいた」という。けれど荒れて人気も下がってきたため、制服や校則が制定された。wikiを見る限り、2007年から改革がはじまったらしい。ついでにいうと、今日見た時、教員もきちんとスーツを付けていた。「自由」を重視して蹉跌を踏んだ点では「自由の森学園」と近い。

 自由を重視する教育。それを「学校」体系で行うと挫折することを知る。
 逆に言えば、現在の校則も制服もある東野高校は、現体制内で「自由」に基づく教育を行うとどういう形になるかを示している。
 「自由な教育」なんて、「学校」形態では無理なのだ。本当に実現しようとするなら、画一的・一斉授業の「学校」では不可能で、フリースクールの形態をとるしかない。
 そう思った。

小説 母の弁当箱

 早稲田駅前。ぼくは大学生たちと逆行する形で、夕方にこの駅から地上に出てくる。気楽な大学生たち。背中に背負った大きなバックには、なにが入っているのだろう。全部本だとするなら、ぼくは大学生になった時、ちゃんとやっていけるんだろうか。 
 そんなことを考えながら駅を出て数秒歩き、100円ショップ・キャンドゥの横を曲がったぼくは、大きな「W」の文字を目にする。ぼくの第二の学校・早稲田アカデミーだ。
 「おはよう」 。友人のIがぼくに声をかける。ぼくも「おはよう」と答える。ここの中学生の間では、夕方に出会っても「おはよう」なのだ。中1のときは不思議だったけど、いまでは慣れてしまった。
 授業のあいまに、ぼくは弁当箱を広げる。お母さんがいつも作るヤツじゃない。そばのファミマで買ってくるお弁当だ。チンしてもらうと、おいしそうな香りが湯気と一緒に立ち上ってくる。IとかNたちといつも食べている。話の内容はだいたいポケモン。
 青い早稲田アカデミーの看板の前でサヨナラをいったあと、ぼくはいつも講師室のそばの給湯室にひとり行き、母のお弁当の中身を生ごみ袋に入れて帰る。箱はもう一度きんちゃく袋に入れて、カバンにしまう。
 それがぼくの一日の終わりです。

 レポートで使う資料を探すため、僕は押入れの段ボールをあさっていた。偶然見つけたのが汚らしい原稿用紙。中学生の時に学校の宿題のために提出した文章だ。なぜこんな文章を書き、しかも学校に提出したのか、さっぱりわからない。何かに怒っていたのかもしれない。作文を出した後、担任が悲しそうな顔をしながら「もっと別のテーマで書けないのかな?」と話したことが思い返される。結局、そのときは宿題の再提出をしなかったのだった。
 作文に出てくる大学生が背負っていたバックには、テニスセット一式とジャージが入っていたことを僕は知っている。大学はあんまり勉強しなくてもやっていけることも学んでしまった。けれど、母の弁当を「まずい」と言ってすべて捨てて帰るほど、僕の人間性は悪くはなくなった。 それにしてもひどい子どもだったものだ。

 しかし。
 あの頃の僕よりも、母のほうがもっとひどい人間だった。今でも覚えているが、中三の冬(あ、受験直前だったんだ)、いつもより早起きした僕は台所で母の姿を見てしまったのだ。セブンイレブンのビニール袋から出したコンビニ弁当を、僕の弁当箱に詰め替えている姿。僕はそっと後ろに下がり、ゆっくりと布団の間に戻った。
 いつも「まずい」と捨てていた母の弁当。代わりに食べていたファミマの弁当。けれど、母の弁当も所詮はコンビニ弁当だったのだ。レンジで温めなかったために、まずくなっていた。
 それだけだったのだ。

「学校にまにあわない」の恐怖。

前にも書いたが、私はいまひたすら「たま」というアーティストの音楽を聴き続けている。脱学校論者である私(「素人が、簡単に自分のことを『〜〜論者』と名乗るな」、と言われそうだが、自分で言わないと誰もそう認識してくれないので初めからそのように言う)に、有益なヒントをもたらしてくれる。そのうち、「たま」の音楽を評論することで脱学校論について整理する論文も書けるのでないか、と思う。




 

 「たま」の音楽をi-podに入れて、どこでも聴く。イヤな場所に行くのも、少し気が楽になる。「引き出しの中に広がった/三千世界の彼方まで/翼をゆらゆらバタつかせ/いますぐ着陸態勢に入るよ」(「はこにわ」)という歌を「たま」は歌うが、i-podの中にも「三千世界」が広まっているように感じるのだ。
 さて。今回は「学校にまにあわない」を例に取り上げよう。前半部には幻想的風景が、後半には「学校にまにあわない!」と叫ぶ主人公の恐怖が描かれる。冒頭は、次の詩で始まる。
百万階建ての
ビルディングの建設
階段だけしかない
それだけの為の建物
 「百万階建て」なのに「階段だけ」しかないビル。上に行くことが目的だが、それには有益性が何もない。このビルを学歴と捉えればまさにその通り。
 イリッチは「学校化」ということを述べた。学歴自体には何の意味もないのに、「能力がある」ことにされる。私の周りに「早稲田大学卒」という学歴を持つ人が多くいるが、皆すごく能力があるかというと決してそうではない。でも世間は「早大卒」という学歴には「高能力」という意味があると勘違いをする。
ある日足場踏み外して
そのままの姿勢で堕ちて行く
 学歴ビルの階段を、すべての人が上に登れるわけでない。ほとんどの人は途中で「足場踏み外して/そのままの姿勢で堕ちて行く」のである。学校秀才とされる人も、いつ「足場踏み外して」しまうかもしれないという恐怖を持っている。その恐怖が「頑張らないと!」という思いになり、さらに階段を上って行くことにつながる。そのことにより鬱になり、結局「足場踏み外」すこともあるのだが。
 学校のもつ恐ろしさ/恐怖を示すこの歌。けれど、直後に「脱学校」的希望が描かれている。「足場踏み外」す恐怖のあと、このように歌詞は続く。
でも下には網が張ってあって
僕はうまいことフィニッシュを決めるのさ
満場のお客様が
いっせいに拍手 拍手
 「足場踏み外」しても、あんがい「下には網が張ってあ」るものなのだ。大事なのはその際に「フィニッシュを決める」ことができるか、どうか。学校的価値観から脱落しても(脱落する道を選択しても)、それだけで人生に失敗することにはならない。学歴ビルの階段を上る時は「堕ちていく」ことは恐怖だが、堕ちてみると「下には網が張ってあ」ることに気付けるものだ。脱学校的価値観で生きて行く道を選択することが、「フィニッシュを決める」ことだろう。
 けれど。この歌の作者は「網が張ってあ」るだけで安心をさせてはくれない。「フィニッシュを決め」た後の、続きの歌詞を見よう。
でもひとりだけ
後ろをむいている男がいるぞ
こいつ前にまわってのぞきこんでやれ
あ なんだ僕のお父さんじゃないか
 脱学校的価値観で生きることを決めた私。周りも、けっこう肯定してくれる。「満場のお客様が/いっせいに拍手 拍手」なのだ。けれど、保護者は最後まで肯定してくれないことがある。親と子どもの価値観は、常に一致するわけではない。
 『学校の悲しみ』というエッセイがある。著者ダニエル・ペナックはものすごい「劣等生」だった。母親は子どもの将来に絶望をした。こんなに成績の悪い息子は、ろくな大人にならないのじゃないか。不安、心配。ペナックが教員になり、また作家として新聞に名が出るようになっても、母の不安は無くならなかった。

どんな「成功の証明」を見せても、母の心配がなくなることはなかった。ぼくがどんなに電話をかけても、どんなに手紙を書いても、母に何度会いに行っても、ぼくの本が出版されても、書評を見せても、ポヴォーの番組(石田注 脚注を見ると、フランスの書評テレビ番組であると出ている)に出ても、だめだった。(……)もちろん、母はぼくの成功を喜び、友人たちとそれを話題にし、息子の成功を知ることなく亡くなった父が生きていたらどれほど喜んだことかと言ってはいた。しかし、心の奥のどこかに不安が残っていた。そしてそれは、もともとの劣等生によって生み出された永久に消えることのない不安だった。(6〜7頁)

 親にとって、学校的価値を外れた存在に一度でも子どもがなってしまうと、子どもの将来を悲観してしまう。あるがままの存在として、子どもと向き合うことができなくなってしまう。「後ろをむいて」しまうのだ。
 おまけに皆がみな、「網が張ってあ」る上に堕ちるわけではない。
倒れたラクダの
目玉だけが生きててギョロリと僕を見ている
みないようにみないようにしているのだけど
どうしても見てしまう
 「ラクダ」君は、ビルから堕ちてそのまま地面に叩き付けられてしまったのだろう。学歴ビルから堕ちて、「網」にも乗ることができなかった人間は、「目玉だけが生きててギョロリ」と社会を見つめる。けれど、もの言えぬ「ラクダ」ゆえ、彼ら(彼女ら)の声は社会に響かない。私の周りにもいる。「学校的価値」のもとに生きてきたが、結局そんなものに意味がなかったことに絶望をする人。「就活が決まらないなんて、何のために早稲田に入ったんだ、俺は!」と嘆く人。残念ながら学歴ビルはそこから堕ちて「倒れたラクダ」になる人の存在を見越して設計してあるのだよ。どこかでそのことに気づき、「網」の上に乗り、「フィニッシュを決め」ないと、制度設計者の思うままになってしまう。




 「学校にまにあわない」のラストは、あえて(か分からないが、おそらく)カタカナで書かれている。読みにくいので、原文の下に漢字仮名まじり文でも示す。
ミタナ ボクノ オモイデ
キミハ キョウ カワニ ドブント オチルヨ
ボクハ クサノシゲミデ キョウカショヲ サガシテ
キョウカショガ ミツカラナイ
ガッコウニ マニアワナイ
ノートモ ドッカ イッチャッタ
センセ ニ オコラレル
見たな 僕の 思い出
君は 今日 川に どぶんと 堕ちるよ
僕は 草の茂みで 教科書を 探して
教科書が 見つからない
学校に まにあわない
ノートも どっか いっちゃった
先生に 怒られる…
 学校に行きたくないから、河原で道草。そのままお昼寝でもしたのだろうか。天高く太陽が昇っている。やばい、学校に行かなきゃ! でも、カバンを置いていたら中の荷物が散乱しちゃっている。どうでもいい教材はすぐ見つかった。でも重要科目の教科書がない。ノートも見つからない。行ったところで、「なんで教科書を忘れたんだ」と先生に怒られてしまう。
 「学校にまにあわない」。それは学校に行きたくないのに、無理して行かなければならない子どもの悲しみを描いた歌なのだ。私にも、こんな感覚があった(でも、何故か皆勤賞だった)。学校が持つ「恐ろしさ」を次第に忘れてしまっていたが、「たま」のお陰で思い出してきたのである。
 この、学校への原初的恐怖感が描かれたラストシーン。忘れることの出来ない風景である。
※なお、歌詞は『たま セレクション』の歌詞カードから引用した。歌詞カードには載っていない、ボーカルの石川さんのモノローグがこのラストシーンのあとに延々と続く。こちらも「学校への恐怖」が力強く表現されたものなのだが、別の機会に書くことにしよう。
 たまの歌は少し明るい。ゆえに歌詞のもつ暗さが見えにくくなる。そこに注意すべきだ。明るく楽しい歌の中で、人間のもつ本源的孤独を示していることがある。
参考文献

ダニエル・ペナック著/水林章 訳『学校の悲しみ』みすず書房、2009

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教職大学院の真の狙い?

 よくこんな意見を聞く。「昔と違い、教員よりも親の学歴の方が高学歴になった。そのため、親が教員をバカにし、モンスターペアレントとなるのだ」など。この文脈でなくとも、保護者が教員より高学歴になったために学校の権威が下がった、と言われることが多い。

 でも、この言い方って、親を思いっきりバカにした言い方じゃないか? 保護者というのは教員の学歴を調べてまで自らの優位性を示そうとするのだろうか。そもそも、教員の学歴を親が知る機会はそんなにあるものなのだろうか。そんなことはあんまりないだろう。
 「教員よりも親の学歴の方が高くなった」ことを問題視する意見に、私は作為性を感じる。本来的な問題でないのに、「大問題だ!」と騒ごうとしているかのようだ。ではこのような意見が出されるのは、一体何故か。
 思うに、教職大学院の普及を文科省がはかりたいためであろうと思う。なぜ、そうやりたいか? 私は文科省が教員の分断をはかろうとしているためであると考える。
 教職大学院出の教員の待遇を極端に良くする。すると、教員集団の中で同質性が失われる。ただでさえ力の落ちた教員組合の力がさらに低下する。教職大学院を出た教員は待遇を良くしてくれる国家に対し、忠誠心を持つようになる。簡単に国家のエージェントとして動く教員を文科省は入手することができるのだ。
 
 「教員は高学歴であるべきだ」。言うのは簡単だ。けれど、この意見自体が国家に益するものである可能性を私たちは疑うべきであろう。
…。今回は(今回も?)、けっこう質の悪い評論になりました。ごめんなさい。
 
 

イリッチ『生きる思想』から、『レイ・リテラシー』前半部。

 読む技術を、私たちは自明のものと考えている。しかし、実はそうではなかったことをイリッチの本を読んで知った。『レイ・リテラシー』という文章自体、私は黙読で読んだが、これって実は高度なテクニックであったのだ。あのアウグスティヌスが「発見」と、わざわざ『告白』で書いていることなのだ(『生きる思想』131頁)。まあ、このことについてイリッチは結構あちこちで書いている。前に読んだ『シャドウ・ワーク』にも書かれていた。

 この『生きる思想』にはページ番号も振ってあり、章ごとに見出しもあり、章と節にも番号が振られている。おまけに段落分けもしてあれば各章のはじめに軽い要約すら施されている(133頁)。現在の私たちは「本って、こんなものだ」という認識でいるが、実はそうではなく数多くの技術(イリッチは「二ダースもの技法」と言っている)の発見によってかろうじて成立しているのが、現在書店に並ぶ「本」なのである。小学校の教科書以来、ページ番号や章ごとに見出しのある文章に私たちは馴染んでいるが、「本」を成立させているこれらの技術は、決してはじめからあったものではない。

 『レイ・リテラシー』では「テクスト」成立までの物語が説明されている。〈参照、引用の照合、黙読が一般化〉(134頁)することにより、〈ひとつひとつの手書き本から独立した「テクスト」という観念がすがたを現し〉(135頁)た。〈印刷機がもたらした社会的影響としてしばしば考えられてきたことの多くは、じつは、見て調べるlook upことのできる「テクスト」[という観念の成立]によってすでにもたらされていた結果だったのです〉(135頁)。

 日本で言えば『源氏物語』が例になるだろうか。平安の時代、源氏物語を多くの人が読みたがり、積極的に写本が行われた。その写本も写本がなされる。「伝言ゲーム」はどこかで創作が入るもの、写本にはいろんなバリエーションが出来てしまう。古代の人にとっては自分の読んだ本がすべて。けれど、研究者(や現在の私たち)は無数の写本の背後に一つの「テクスト」という真理を見る。

 イリッチの説明により、「テクスト」成立の歴史が分かった。その後、このテクストの神聖性・真理性は「構造主義」により否定されてしまう。

 レヴィ=ストロースは神話の「構造」を研究するとき、神聖不可侵だった聖書にメスを入れ、バラバラにしてしまった。そのとき、テクスト論が始まったと橋本大三郎『はじめての構造主義』(講談社現代新書)に書いてあった。イリッチは言及していないが、「テクスト」あるいは「テキスト」という言葉には構造主義の匂いがしてくる。

〈いちど神話分析の方法になじんでしまうと、そういうことはそっちのけで、勝手にテキストを組み換え、ついには、最高のテキスト(聖書)の権威を否定してしまうことになる。それとともに、「言いたいこと」を伝えていたはずの‘神’も、かき消えてしまう。〉(『はじめての構造主義』123頁)

 いま私はイリッチの『レイ・リテラシー』というテクストをバラバラに分けて論じているが、こんなことを庶民レベルの人間が行えるようになったのは最近のことなのだ。引用や参照という技法も、もともとは高度なテクニック。

 さて、私には少し関係の薄い就職活動の話。いま就職しようとしたら、インターネットでマイナビにリクナビ、人によっては「みんしゅう」に入るところからシュウカツは始まる。PC上でエントリーもセミナーの予約も行い、エントリーシートもやっぱりPCで作成する。いまの世の中、就職するためには①ネットが使える環境にいて、②PCで少なくとも文章を作成するくらいの能力があって、③こうしたシュウカツ情報を入手する能力もある、という三つの要素をクリアしないといけない。簡単に行ってしまえばパソコンもネットもつかえない人間は始めから就職戦線から離脱せざるを得ないのだ。『レイ・リテラシー』は私の担当した前半部を見るとコンピュータ・リテラシーについてを考える手助けとしてレイ・リテラシーについて指摘したようだ。現在、学校の教育(中学では「技術」、高校では「情報」の科目名のもとで)でもコンピュータ・リテラシーの授業がある(学校では「情報リテラシー」と言われることが多い)。いまの社会はすっかりコンピュータ・リテラシーの必要な世の中となってしまったのだ。

 

 本文の中でイリッチは文字の普及(つまりレイ・リテラシー)以来、それ以前の「声の文化」のなかで消滅してしまったものがあることを指摘する。

〈かれ(注 パリー)によれば、文字によってものを考える精神にとって、文字を知る以前の口承詩人がかれの歌をつむぎだすしかたを追体験することは、ほとんど不可能なのです。文字によってものを考える精神に根づいている不可疑の前提certaintiesの側からさしかけられたどんなかけはしも、われわれを口承叙事詩のマグマのなかに連れ戻してはくれません〉(126頁)

 いま、コンピュータ・リテラシーがないと就職活動が出来ない時代だ。レイ・リテラシーの普及によって消滅してしまった文化がある以上、コンピュータ・リテラシーの普及によって消えてしまう文化もあることだろう。