オルタナティブスクール

『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

キーワード:教育的事物

 6 学習のためのネットワーク

教師と学生のどちらも、「欲求不満」。「予算、時間、建築などの教育のための資源が不十分なせいだ」(135)と述べる。
   ↓
「知識や大切に考えていることをいかにして身につけたかを明確に述べるように求められると、彼らは、学校の中でよりも学校外でより多くそれを習得したことをすぐに認めるであろう」(同)
   ↓
「学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。この新しい様式を育てるためには成長に対する態度、学習に有効な道具、および日常生活の質と構造とが同時に変革されなければならないであろう」(136)
→学校以外で「教育的関係」を新たに作っていく。社会での学び、ということか。宮台風に言えば社会システム内で人々が幸福を感じる生き方が出来るような教育プログラムを提供していく、ということになる。
   ↓
「成長に対する態度はすでに変化しつつある。学校に依存することに誇りを感じることはなくなっている」(同)
   ↓
「本章で、私は学校についての考え方をひっくり返すことが可能であることを示すつもりである」
「第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである」
   
一つの意義、どこにも到達しない橋は一体誰に役立つのだろうか

「私がこれから提案しようとしている教育制度は、今日まだ存在していない社会のためのものである」
   ↓
政府や市場のイデオロギーとは違い、「学校制度はどの国でも同じ構造をもち、また、学校の潜在的カリキュラムはどこででも同じ効果をもっている。つまりどこででも、学校制度は近所の非職業的奉仕活動よりも、専門の制度によって生み出されるもののほうが価値があると思うような消費者をつくり出すのである」
→自律的に生きる人間ではなく、他者のサービスに頼る「消費者」を教育は作ることになる。
●「どこででも、潜在的カリキュラムは、(中略)助長する」
「助長する」内容は、
・「自分でやる能力を台無しにしてしまうほど他人からのサービスを受ける(消費する)ことを人々に習慣づける」:学校が「教えられるのを待つようになる」機能を持っている点をイリイチは批判していた。学校のこの機能のように、潜在的カリキュラムは人々の考える力・自分でやる力を奪ってしまう。
・「人間疎外を引き起こす生産」:チャップリンの『モダンタイムス』が描いた工場。しかし、いまはだいぶ改善されたはずだ。流れ作業だけでなく、チームで車体を組み立てる自動車工場がいまはある。
・「安易に制度に頼る」「制度の序列化を認める」:何かあると「社会が悪い」と我々はよくいう。たとえば「もっと社会保障を!」「弱者救済を!」。けれどこれらの主張は本当に自助努力を精一杯やった上で語られているのだろうか? どうも安易に頼るようになってくる。この「安易に制度に頼る」ような態度をイリッチは社会の「学校化」であると批判しているのであろう。

●国の制度に関わらず、「すべての国において学校は基本的には似たようなものになっているのである」(139頁)
●学校は「社会変革上の従属変数」ではない。「社会的経済的変革の結果として学校制度の根本的変革をなしとげようと希望することもまた幻想である」
●中国の科挙制度への高い評価。「三千年間にわたって、中国はどこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしないで、官吏登用試験に合格しさえすれば特権を与えることにより、比較的高度の学習がなされることを保障してきた」。
→フリースクールも同様に、「高検」を目指すならば結果的に「どこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしない」ことを実現できる。
●「脱学校化の必要性をはっきり認めない政治改革の計画は革命的ではない」
→学校がある限り、どの社会も「学校化」されてしまう。故に、ラディカルな社会変革のためには「脱学校化」実現により社会の「学校化」を阻止していく必要があるのだ。ただ、イリッチの先の言葉とこの言葉を見ると「脱学校化は不可能」と言っている気がする。どんなに政治改革をしても学校がある限り、社会は「学校化」する。ならば「学校化」をなるべく小さくする方向にしか政治改革のやりようがないのではないだろうか。
「1970年代における主要な政治改革の計画は、すべて次のような尺度によって評価されるべきである。すなわち、それはどれだけ明確に脱学校化の必要性を述べているか―また、それはその計画が実現しようとしている社会における教育の質をどうすべきかについてどれだけはっきり述べているかということである」(140頁)
→イリッチのいう通りである。日本の教育改革は「もっと学校でやることを増やそう」としている。だからうまくいかない。職業教育も、シチズンシップ教育も、知らぬ間に学校の中に入り込んできた。
 私の持論は学校の規模縮小(ダウンサイジング)である。学校でやることは知育のみにし、あとは学校外での学びの場・生活の場を増やしていくべきだ。これは社会システムの流れもくんでいる。これから、大人も一つの会社のみに通う時代は終わるだろう。ワークシェアリングにより、半日で会社がおわることもざらになってくる。そのとき、有り余る時間を地域のサークル活動や勉強会、スポーツクラブで大人が過ごすこととなる。大人がその社会に生きているときに、子どもが一日中学校に縛り付けられていることに違和感が持たれるようになるだろう。子どもも学校で短い時間を過ごし、なるべく多様なコミュニティーやサークルで生活していくほうが将来のためになる。「有り余る時間を何に使うか」という教育になるわけだ。けれど、これを学校が行うと本末転倒である。学校外の時間は個人の責任と自由によって使い方を決めていくべきだからだ。大人のコミュニティー活動に子どもも参加していく。そうすると、学校外での「社会での学び」が成立するようになる。
 つまり、学校でやること・学校で過ごす時間を減らしまくっていくことが、将来の子どものためになるのだと思う。

新しい正式な教育制度の一般的特徴(140頁〜144頁)

●「すぐれた教育制度は3つの目的を持つべきである」
⑴「誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること」
⑵「自分の知っていることを他の人と分ちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること」
⑶「公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやること」
→⑶は政治活動の自由につながっているのだろう。
●「学習者は、特定のカリキュラムに従って学習することを義務づけられるべきでない」
●この結果、「すぐれた教育制度の下では、本当に誰もが自由に論じ、自由に集会を持ち、自由に報道ができるようにし、またそれゆえにそれらのすべてが十分に教育に役立つものとなるように近代的科学技術が用いられる」状態を目指していくことになる。

●「学校は、次のような仮定に基づいてつくられている」
⑴「人生の何ごとにも秘訣があるということ」
⑵「人生の質はその秘訣を知っているかどうかによって決まるということ」
⑶「その秘訣とは秩序のある過程を連続的にたどることによってのみ知りうるということ」
⑷「教師だけが適切にこれらの秘訣を明かすことができる」
●「新しい制度は、身元などの証明書や家柄や門閥にかかわりなく学習者が利用できる学習経路、すなわち―彼のすぐ近くにいない仲間や目上の人々をも利用できるようになる公共の広場―であるべきである」
→生まれによる文化資本やハビトゥスを排除するという構想が含まれているようだ。
●「『学習経路』、すなわち学習したことを伝授しあう機会があれば、それだけで真の学習に必要なあらゆる資源を含むことができると思う」
→「伝授しあう機会」とは、現代ではブログ空間をさすことができるのではないかと考える。イリッチの主張を実現するには生身の人間同士が会うよりも、ブログによる学習のほうが問題が少なくなるとすら考えられる。生身の相手と会うとき、相手の年齢・性別や身分という外見に引きずられ、本来の目的である自由な学びがなおざりになってしまう危険性がある。子どもと大人が出会い学ぶときにも、この危険性や誘拐・暴行の危険がある。けれどブログ空間では見た目の差別はなくなる。誰とでも対等に学ぶことができるのだ。
●4つの資源を利用可能にする特別な方法:「機会の網状組織」。
「必要なのは、公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークである」
例:ラテンアメリカにおけるテープレコーダーのネットワーク構想。「字の読める者にも読めない者にも同様に彼らの意見を録音し、保存し、広め」ることできる点が構想の理由である。このネットワーク構想にはフレイレの影響があるように思われる。フレイレの学校によらない識字教育は、政治闘争の側面も持っていたからだ。衆愚政治を出し、よりよき民主政治を実現するための方法として、このネットワーク構想が挙げられているように思う。
●「科学技術自体は、人々の自主性を伸ばし、学習を発展させる目的のためにも、あるいは官僚主義と他人に教えることを発展させる目的のためにも、利用できるのである」
→何のために科学技術を使うかが重要である。

四つのネットワーク(144〜146頁)

●「『何を学ぶべきか』という問いからではなく、『学習者は、学習をするためにどのような種類の事物や人々に接することを望むのか』という問いから始めなければならない」。
→制度として個々人の学習を考える(「何を学ぶべきか」という「べき論」)のではなく、学習者主体の学習観が必要である。ちょうど、近代公教育が「国民育成」(「べき論」)から始まったことと軌を一にしている。
●「学習をしたいと思う人は、自分にとって情報と、その情報の使い方に対する他人からの批判的反応との両方が必要であることを知っている」
→あんまりいい訳じゃない。「学習をしたいと思う人」がここでいったことを「知っている」ことなんてそんなにあるわけじゃない。
→集団による学びをイリッチは意図しているようである。正統的周辺参加、と教育心理学でいわれている。参加による学び、である。学びにおける同僚性の重要性は「従来、教育のための資源とは考えられなかった」(145頁)。あまり意識されてはいないが、イリッチは「集団による学び」の重要性も指摘しているのである。
→ソーンダイクらのティーチング・マシンの欠点は、学習を単独での営みだと捉えた点である。正統的周辺参加を意識した学びでなければ、よほど意志力のある学生でないと学ぶことができない。大学の通信教育課程での卒業者が2割以下に留まるのはそのためである。通学していれば、たとえ友人がいなくとも「自分以外にもこんな人たちが同じ授業を受けているのだな」と実感し、学習にいそしむことができる(通学課程のほうが圧倒的に単位がとりやすい、という側面ももちろんあるが)。
●「われわれは、新しい関連構造について考えなければならない。それは、教育のための資源を求めようとする誰もがその資源を便利に利用できるように意図的につくり上げられる関連構造である」
→ブログ空間は知らぬ間にこれを作り上げてしまった。ブログ空間が学習に使える、ということを多くの人は知らないだけであるのだ。
●「どんな教育のための資源も利用できるようにしてくれる様々なアプローチを、4つに分類して示そうと思う」
⑴教育的事物のための参考業務:「正式の学習に用いられる事物や、過程の利用を容易にする」
→工場内に自由に使える機械を置いておくなど、人々が自由に学べる機会を保障する働きがある。
⑵技能交換(160頁から)
⑶仲間選び
⑷広い意味での教育者のための参考業務

教育的事物のための参考業務(147〜159頁)

●「ある人の環境の質と彼がその環境に対してどのような関係にあるかは、彼がどれだけ多くを偶然に学ぶかを決定するであろう」
→文化資本やハビトゥスにつながる話である。通常、経済的に貧しい家に生まれることは、文化資本の貧しい家に生まれるということと同義である。
●以下の部分で、機械や道具・書物などを自由に使えるよう環境整備することによって「偶然による学び」が起こるようにしている。イリッチはそれにより、文化資本やハビトゥスの不公平さを是正しようとしている。
→いま公立の無料の博物館や郷土資料館が多く街には存在する。けれど、十分に活用されていると言えるのだろうか? 子どものまわりに「偶然による学び」が起こるようにいろんなものを配置したとしても、それが活用されるかどうかはまた別問題なのではないだろうか。
●機械それ自体への、イリッチの批判。専門家しか時計をいじれなくなったこと等を通じ、彼はこういう。
「専門家がその専門的な知識をわかりにくくし、他人の値ぶみをますます不可能にして、人々の発明心を抑制する社会となることを促進する傾向がある」
→近代文明はブラックボックス化をもたらした。たとえば、今私はマック・ブックでこの論考を書いている。この白いPCの内部がどうなっているか、私は知らない。カラフルなコードが複雑に絡み合っているのかもしれないし、一枚の小さなLSDが全てを制御しているのかもしれない。ひょっとすると小さな妖精が入っているのかも…。内部構造を知らなくても、パソコンは使えてしまうのだ。これぞブラックボックスである。
「教育上の材料は学校に独占されてしまっている。簡単な教育用の事物が知識産業によって高価に包装されている」。知のブラックボックス化・知のパッケージか。文明のあり方への再考が必要だ。
●本来、教育の役に立つはずの「事物」が日常から切り離される。学校や社会のしわざだ。
●「物をカリキュラムの一部分としてのみ利用することは、それらを一般的な環境から取り去るだけのことよりも一層悪い影響を与える。それは、生徒の態度を堕落させるのである」
●「教育用のゲーム」を積極的に活用していくべきだ。そうすれば数学の集合論や言語学などが「ほとんど骨を折らずに理解できる」。
→ニンテンドーDSでは英単語『ターゲット1900』や数学の問題集、歴史用語学習に役立つソフトが多く出ている。宅建用のソフトも出ている。「教育用のゲーム」を活用するイリッチのアイデアは、かなりの程度実現している。授業の中で「じゃ、この時間はDSを使って自由に学習してください」という時間はまだないが…。
→イリッチは続けて、「教育用のゲーム」が競争を刺激することがないようにすべきだ、と指摘する。問題児とされる子どもなどには「教育用のゲーム」は「人間性を解放する教育の特殊な形態」となる。
●ここまでのイリッチの指摘は学校の「外」に教育用の事物を多数配置していくべきだ、というものであった。イリッチはこれらの事物が学校に置かれていると、管理や保管をするのに多くのコストがかかるという論を展開し、先の「学校外に教育用の事物を配置していくべきだ」との主張を別の視点から説明している。
●トランジスタラジオや小型運搬車の例。ここから皆が必要に応じて活用できる「相互親和的」な設備を社会に設けていく必要性が語られる(「制度スペクトル」の欄を参照)。
●「人工的に作られたものを教育のために脱学校化するためには、その加工物や製造過程を誰にでも利用可能なものとし、―それらの教育的価値を認めること―が必要となるであろう」
●イリッチは「もしも学習の目標 」と語る。そのあとに社会の至る所に学習を気軽にできる施設(図書館やジュークボックスなど)が多く作られることの重要性を語る。けれど、ここでいったものをわざわざ街の中に作るとき、田舎では難しいものとなる。現代ではそこまでしなくても、ネットで音楽も調べられれば写真を持ってくることも出来る。
 ただ内田樹は大学や学校にいろんな人がいて、知らぬ間に学びに引き込まれることの重要性を語る。人との出会いが少なくなる現代、あえて社会の中にネット同様の多様な教育的事物との出会いの場を設けることが大事なのだと思う。
●「学習用事物」のネットワークの財源をまかなう2つの方法。
学校の「儀礼的」側面に使われている費用を、市民の教育のための事物購入費用に充てる。
●子どもを少しの時間雇う者に税制上の優遇を行うべき、との主張。「12歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任を持つ人間であると認めることである」
。そうすることで「彼らは、知識や事実を発見する彼らの能力を民主政治上の仕事に活用できるようになろう」。徒弟制度の意義を再確認する必要がある。
●ある思想家は「社会における教育の意義を考えるのではなく、教育のために社会が何をできるかを考えるべきだ」というパラダイム転換を主張した。いわゆる「教育のための社会」の主張である。イリッチの本を読んでいると、この「教育のための社会」という構想を実現しようという志が感じられてくる。
●「科学の多くは市民の手の届かないものになってしまった」現状への批判。教育的事物を社会に配置することでこれを解決しようとしている。
●「教育の目的で人々が共有できるそれらの事物をどんどん利用していけば、われわれは十分に啓発され、これらの究極的な政治的障壁を突き破るのを大いに助けられるかもしれない」。
→いまリナックスなどのオープンソースのソフトウェアが多くある。ネット空間では、データを一人で独占するのでなく、多くの人が触れることのできる「共有」化する時代に入った。
●「学校を制度的に逆転させれば、個人は教育のためにそれらを用いる権利を取り戻すことができるようになろう」。

追記
●シャノアールでこのレジュメを作成している。店員が走ること、走ること。少ない人員でがんばっている店なのだと同情心が起こる。奥でガラスの割れる音が頻繁にあるのには閉口する。

宮台と卒論。

イリッチの著作をもとに脱学校化を考えるのが私の卒論のテーマである。その中に、フリースクールの実践も「脱学校」の一つとして描きたい。

「脱学校」した学びの姿について、いろんな学者が意見を言っている。

⑴上野千鶴子:知育限定の小さな学校。社会での学びを中心とする。(『サヨナラ、学校化社会』)

⑵宮台真司ほか:教育チケットを用いた教育制度。子どもは塾で教育サービスを受けても学校でサービスを受けても、はたまたフリースクールに行っても「教育を受けた」ことになる。(『学校が自由になる日』から「学校リベラリスト宣言」)

これらを整理してみるのも大切だろう。

ちなみに、卒論を書く中で「宮台を読まないとな〜」と実感してきた。いま、いろいろ読んでいる。リストは下の通り。ずいぶん、食わず嫌いをしていたが、なかなかに面白い社会学者である。

●『終わりなき日常を生きろ』読了。これで宮台にハマった。
●『学校が自由になる日』読了。「学校リベラリスト宣言」が秀逸(宮台の文ではないけど。ちなみに内藤朝雄の文章)。佐藤学の「学びの共同体」をボロクソに言う。
●『野獣系でいこう!!』読了。宮台の私生活、こんなに公開してもいいのか?
●『幸福論』未読。
●『日本の難点』読書中。
●『サイファ 覚醒せよ!』読了。
●『14歳からの社会学』未読。

イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』に見る、「価値の制度化」・「脱学校」という言葉の意味合いについての一考察。

*本稿は、大学のゼミで2009年5月21日(つまり今日)に私が発表する予定の原稿です。このブログで書いてきたことを踏まえ、イリッチの「脱学校」や「価値の制度化」を整理しました。

1、はじめに。

 私は2年生の頃からフリースクールについて専門的に研究してきた。卒論もフリースクールを社会学的に考察することで書き上げたい、と考えている。その際、イヴァン・イリッチら脱学校論者の文章を基に、フリースクールなどのオルタナティブスクールの展望をしていきたい。
 それにあたって、フリースクールにつながる発想である「脱学校」について、一度整理しておく必要を感じている。整理することで、新たな視点からフリースクールについて見ていくことが可能であると考えているからだ。そのため今回はイリッチの著作『脱学校の社会』を基に、「脱学校」とはどのようなものかを押さえていきたい。
 そのために本稿では「脱学校」を理解する上で必要な「価値の制度化」という概念を見たあと、改めて「脱学校」について見ていく。

2、「価値の制度化」とは何か。

(1)「価値の制度化」についての自分の考え。

 イリッチの文章をまず見てみる。

多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。(中略)「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。(13頁)

 ここで語っているのは、「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
 これは何を意味するのであろうか。
 本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった!」と大歓喜している。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。価値Aを普通自動車運転免許取得、価値Bが自動車教習学校卒業であるとき、少年は不幸である(ときどきいますけどね)。
 これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。そして学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値B)。けれど現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえば自宅での学習を行うとか、フリースクールにいくとかする選択肢も存在するべきだ。けれど制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが重視されるようになる。この価値の転倒をイリッチは「価値の制度化」と呼んだのであろう。

(2)「価値の制度化」からイリッチが言おうとしたことは何か。

 再び、『脱学校の社会』の文章を見てみる。

私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである。(14頁)

 この文章は(1)で説明した、価値の制度化についてのイリッチの考察である。このなかでイリッチは「物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化」という例を挙げて現代文明に警鐘を鳴らしている。つまり、イリッチは現代の「価値の制度化」という問題を訴えたいのであって、学校は一つの例にすぎない。価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしているのだ。

 再び本文に戻る。

必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである。(14頁)

私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ。(15頁)

 つまり、イリッチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではないのである。「脱学校」は、あくまで2次的な目標である。イリッチ自身が「書きやすい!」と感じた好例だったため、学校をテーマにしているのだろう。先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」であるといえる。
 「価値の制度化」を行うべき物の例として、イリッチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」を挙げている。

私は学校の潜在的カリキュラムの分析を通して、社会の脱学校化は公教育にとって
プラスになるということ、そしてそれと同様に、家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーションも、同じような過程を経ることから利益を得るであろうことを明らかにしようと思う。(15頁)

 この文が示している通り、価値の制度化を排す手法は「脱学校化」と同じプロセスなのである。
 イリッチは続ける。

その分析(価値の制度化を排すことで利益を得られる、ということの分析)のために、この最初の論文では、学校化されてしまった社会を脱学校化するということはどういうことかを説明しておこう。(15頁)
*(  )は藤本。

 ここから、「学校化」された社会の特徴の記述が始まる。「学校化」の現代的事例は上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。
 なお上野はこの本の中で次のように「学校化社会」を説明している。

もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50 頁)

 イリッチの定義と宮台・上野の定義とは若干ニュアンスが異なっている。けれど、「学校化」の現代的意義を説明していることにかわりはないであろう。

 本章のまとめを行う。イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎないのである。

3、「脱学校」とは何か。

 教育学者は『脱学校の社会』を意図的にか知らぬが誤解している。佐藤学でさえも『脱学校の社会』が〈学校の廃止〉を訴えた本である、と解説しているほどだ(聞き書きなので、出典を探します)。けれど実際にはイリッチは〈全員が学校に行かなければならない〉ことを批判しているのだ。
「解説」の欄を見よう。

イリッチが「脱学校」という場合、すべての学校を廃止したり、あるいは学習のための制度のない社会をめざしているのではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を求めているのである。そこでは学校以外に選択の余地がなかったり、全員が就学を義務づけられることがなくなるのである。しかしそれは単に学校をめぐる形式のみの変化にとどまるものではない。もっと深く社会のエートスの変革にかかわることなのである。(221頁)

 脱学校とは、単に学校を廃止することを意図したものではないのである。そもそもイリッチは「学校」の定義として、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と書いている。この定義に当てはまる「学校」の批判をイリッチは訴えたのである。『脱学校の社会』でも、大学や技術修得の学校は存続させることが必要であると書かれている。
 イリッチは価値の制度化により〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と考える姿勢をこそ批判したのである。

学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
 ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである―両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。(32〜33頁)

 先に「価値の制度化」について見てきた。「脱学校」とは〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉とみる「価値の制度化」の状況を乗り越え、本来的な学びの復権を図ろうとすることをさすのである。
 
4、「脱学校」の現代的意味について。

 〈イリッチがいうほどまで制度を変えなくとも、脱学校は可能だ〉、というのが『脱学校化社会の教育学』のテーマである。本書は2009年の発行。脱学校化というものの現代的意味についてまとめられている。
 タイトルである『脱学校化社会の教育学』は「脱「近代教育」社会の教育学」と理解するほうが、誤解が少ない。つまり、『脱学校化社会の教育学』の著者たちは近代公教育制度批判と「脱学校」を同じものと見ているのだ。

 先に見てきた通り、イリッチは制度による教育ではなく、教育的関係による教育を訴えたのであった。

学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。(136頁)

 この文章のあと、イリッチは「新しい様式の教育的関係」として「学習のためのネットワーク(ラーニングウェッブ)」を示している。けれど、ラーニングウェッブ導入をすることだけが、「教育的関係」を創り出すことにはならないと考える。イリッチは「学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)といっている通りだ。
 PISAショック以来、フィンランドの教育が着目されるようになっている。フィンランドでは少人数による学びが導入されている。また佐藤学は90年代後半から(つまり浜之郷小学校開学から)「学びの共同体」を実践している。両者は子どもの協同な学びによる授業を行っている(『脱学校化社会の教育学』)。
 イリッチは近代社会を支えるために開発された「近代公教育制度」を批判したのであって、学校それ自体の廃止を訴えたわけではない。日本的意味では、文科省支配下にある「学校」(学校教育法でいう1条校)による教育を批判しているのである。イリッチは一方的な教員による教え込みを批判している。であれば、そうでない学校、つまり近代学校らしくない学校の導入をこそ展望していたと言える。
 無論、学びの共同体やフィンランドメソッドでイリッチの主張をすべて実現できるわけではない。けれどイリッチの主張に近いのは確かである。
 まとめを行う。『脱学校化社会の教育学』の中において、近代公教育制度批判と「脱学校」は同義である。これは現代の教育学においてもそうであると言えるのではないだろうか。


「4、脱学校の現代的意義について」の追記。
このあと、友人のOと話し、重要な点に気づいた。

Oは『脱学校の社会』に学校改革を期待することを〈インドカレー屋でカレーうどんの話をすること〉という絶妙な比喩で批判した。

もともと、「脱学校」とは脱構築主義に基づく概念である。脱学校論は「まず学校の解体ありき」の話のため、脱学校論に「学校を解体しないとき、どう改良できるか」を要求するのはお門違いなのだ。

その点『脱学校化時代の教育学』は、根本的に「脱学校」を理解し損ねていることがいえる。「脱学校」とは、イリイチのいう定義(「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」『脱学校の社会』59頁)に当てはまる「学校」を廃止することを訴えている。そのため、現状の学校内での「教育改革」や「近代公教育批判」をおこなうことは、「脱学校」では語ってはならない事柄なのだ。私もすっかり誤解していた。「近代公教育批判」と「脱学校」は同じではない。本文もそう修正すべきだが、私が騙されたという経験を忘れないためにもそのまま残しておくことにした。

 あれ、でもイリイチのいう「学校」にあてはまらない実践をする学校教育なら、「脱学校論」で語れるんじゃないだろうか? 残念ながら『脱学校化時代の教育学』はフィンランドメソッドや「学びの共同体」など、イリイチのいう「学校」に当てはまる実践くらいしか取り上げていない。もっと言ってしまうと、この本は幼児教育の本なので、そもそも「学校」を語るのは本題ではない。にもかかわらず、イリイチの「脱学校」をタイトルに謡うのは反則ではないか(幼児教育は「幼稚園」でおこなうものであり、「学校」でおこなうものではないからです)。そのため、『脱学校化時代の教育学』はイリイチの「学校」定義を超えた学校の実践を取り上げるべきであったのだ

イリイチの「学校」の定義をこえる教育活動として、一番簡単にイメージできるのは大学であろう。私のいる早稲田大学でも、定年後に入学してきた60歳の学生がちらほらいる(イリイチの学校の定義「特定の年齢層」に当てはまらない)。大学は出席しなくても単位が取れる(イリイチの定義「履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求」に当てはまらない)。イリイチの「学校」に当てはまらないからこそ、彼が〈脱学校化をおこなっても、大学や技術学校は残すべきだ〉と主張しても矛盾は生じないのである。
昨日、偶然に都立新宿山吹高校の存在を本で知った。この学校は無学年・単位制の高校である。宮台真司らの『学校が自由になる日』でも絶賛している学校だ。異年齢集団が通学でも通信でも学ぶことのできる高校。これもイリイチの「学校」定義から外れた学校である。
『脱学校化時代の教育学』とのタイトルを使うなら、イリイチの「学校」から外れた学校をこそ、取り上げるべきであったのだ。

この、脱学校論の「誤解」を改めるだけでも、卒論になりそうだ。

5、イリッチの脱学校に対する私の批判。
 
 いままでずっとイリッチの脱学校論について考えてきた。そのイリッチは「脱学校」を訴えることで本来的な学びの復権を訴えている。
 けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものであるといえる。まったくやる気のない生徒でも、何かしらかを学ばせ、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得できる場所である。また、黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。

たとえ教科の内容はまったく理解できなくても、生徒は学校で勉強することで知らず知らずのうちに、時間の厳守、おとなしく着席している忍耐力、あたえられたノルマをはたそうとする動機づけ、規則や上位者の命令に服する秩序感覚、他人と協調してゆく能力といった、総合的「道徳」能力を学んでいるわけである。(森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000、184頁)

 イリッチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。けれども、私は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき(ちょうどイリッチ主張する、ラーニングウェッブの世界だ)、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。イリッチなどの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、私は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。
 カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる(『自殺論』)。これを、学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリッチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば私など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
 イリッチのいうように、一概に「学校」の廃止を主張は出来ないのではないだろうか。

「5、イリッチの脱学校に対する私の批判」の追記。
発表後、「デュルケームと脱学校は何の関係もないから、例としてはあげないほうがいい」とのアドバイスを頂いた。おっしゃるとおりです。次はもっと適切な比喩を使おうと思う。

6、参考文献

青木久子・磯辺裕子『脱学校化社会の教育学』萌文書林、2009
イヴァン=イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』東京創元社、1970
上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002
エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985
奥地圭子『不登校という生き方』NHKブックス、2005
田中智志『教育学がわかる事典』日本実業出版社、2003
森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000

*以下のサイトも参考にした。
小春日ダイアリー https://nak-koharubi.blogspot.com/

『脱学校の社会』解説より

「脱学校の社会」というのも単に社会から「学校」を無くすことを指しているのではなく、「社会の脱学校化をはかること」を意味しているのである。それは「脱学校化された社会」(deschooled society)というのが「学校化された社会」(schooled society)に対応させられていることからもわかる。(220頁)

『脱学校化社会の教育学』

『脱学校化社会の教育学』が言おうとしていることは、「学校のパラダイム転換」としての「脱学校」ということである。

小手先の改革ではなく、パラダイムの転換である。そのためには、教育という営為そのものを問うというアプローチが必要であることを、著者らは繰り返し述べてきた。(272頁)

追記
 のちに小中さんとの話し合いの結果、『脱学校化社会の教育学』の内容は「脱学校」を正確に捉えていない、ということになった。「脱学校」は「まず学校の廃止ありき」の発想である。学校という制度内の変革を少しも説いていない(インドカレー屋でカレーうどんを注文するくらい、無理な話だと小中氏は語った)。けれど『脱学校化社会の教育学』は近代の「学校」ではなく、これからの時代に適合した新しい「学校」のしくみを作ろう、と語っているのである。「脱学校」は学校廃止・学校外での教育制度を語った概念である分、『脱学校化社会の教育学』的認識の仕方は端的に間違っているのである。

『サヨナラ、学校化社会』にみる、「学校化」

 上位者を上位へ、下位者を下位へ再生産するカラクリのなかで、学校はなにをやってきたかというと、学校的価値を再生産してきました。
 学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。だから学校はつまらないところです。いまを楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、すべてを偏差値一本で評価することを学習するのが学校なのですから。
 その学校的価値が学校空間からあふれ出し、にじみ出し、それ以外の社会にも浸透していった。これを「学校化社会」といいます。学校化社会という用語はもともとはイヴァン・イリイチの言葉ですが、最近は別な文脈で流通しています。それというもの、宮台真司さんが学校化社会という用語を使っているからですが、私はこれを卓抜なネーミングだと思います。(50頁)

 上野千鶴子は「学校化社会」をこう説明している。
 追加説明として脚注に「学校化社会」として、さらに説明を加える。

学校化社会
もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50頁)

 ただ、田中の『教育学がわかる事典』では「学校化」の意味は宮台の『終わりなき日常を生きろ』に書かれている、と示されているのだが、私が『終わりなき』を読んでも結局最後までそういった記述を見つけられなかった。何故だろう。
 引用した2章「学校に浸食される社会」の終わりには、上野が学校化社会を総括した次の言葉が書かれている。

学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります。(57頁)

岡庭昇『戦後青春』三五館、2008年

 文芸評論家・岡庭昇の労作。今日の授業中に読了。オビの「難解ではあるけれど、じつに面白い本!」に偽りはない。
 言及すべきポイントも多い本だが、ここではブログの内容も考慮した上で、イリッチに関する所のみを扱うことにしよう。

われわれはすでに客観的な社会の構造批判としては、ちょうどスチューデント・パワーによって教育が根底から懐疑にさらされた七〇年代の思想としての、イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』(一九七一年)を持っている。それは優れた個別教育論であるが、この時代の論考らしく教育を論じることが、人と人との関係の本質を衝くという広がりと本質性を持っている。(209頁)

→イリッチを「70年代思想」として見ることも大切だ。

いま日本のもっとも駄目な側面を反省するなら、その一つはさきに検討した「学校化社会」の徹底だろう。それはいまや、日本国民全体のルーティンを形成している。物事に「等級」を付ければ事足れりというような感性は近くは絶対主義的な江戸社会の特徴でもある。だがそれは現在ますます認識の前提になり、政治や行政のすべてである。それどころか「等級」こそが事物の本質であると看做されるような社会にまで、逆行しつつあるのではないか。勲三等といった軍人風の「栄誉」を与えられても、馬鹿にするなと怒る芸術家の例を近ごろは絶えて聞かない。(217頁)

イリッチは教育という美名で民衆が刷り込まれる、奴隷制というカラクリを問うた。教育とは抽象的な原理ではなく、どのように、誰のために、何を教えるかにおいて、民衆にとって啓発と隷属という正反対の位相になることを説いた。価値判断を持たない限り、教育こそが帝国主義を再生産する道に他ならないことを。(225頁)

最後に、印象深かった所をもう一カ所のみ引用する。

自分が変わることが肝心だと心得る行為は、同時に世間を変える使命にすでに取り組んでいるのだ。(116頁)

価値の制度化について。

次回、私がゼミの発表をする。前期2回目。まさかの無茶振り。ネタを捜すため自分のブログを読み直す。たいてい、使えるネタが落ちているものだ。読んでいて「ああ、この文章、自分の感性にあうなあ〜」と思ってしまう(当たり前)。

ざーっと読んでみた結果、《イリッチ『脱学校の社会』に見る、「価値の制度化」の持つ意味合いとは》というテーマが頭に浮かんできた。小中さんとの勉強会が役に立つ。

追記
●何気なく〈価値の制度化〉とgoogleで検索すると、本ブログがトップでヒットした。驚きである。自分がよくわからないから検索しているのに、自分のサイトが出てくるなんて…。困っちゃいますね。
 ただ、日本語の分かる人間のうち、何人がこの言葉を検索するのだろうか。心もとなくなる。

『脱学校の社会』を読む⑤ 第四章103〜123

『脱学校の社会』第4章 制度スペクトル

キーワード:操作的制度、「相互親和的」制度(convivial institution)、偽りの公益事業

●操作的制度と「相互親和的」制度(convivial institution)とは?

操作的制度:「現代をまさに特徴づけるものであって、ほとんど現代を定義してしまう」(104頁)「圧倒的に有力なタイプ」(同)
→具体例:「法律を執行する制度(…)制度スペクトルの右のほうに移ってきた」(105頁)、「現代の戦争」(106頁)
「顧客の操作を専門とする社会制度」(106):「軍隊と同じように、それらはその作戦範囲が広がるにつれて、その意図とは反対に影響を拡大する傾向がある」(同)
→顧客に対し、意図的にサービスを買わせる仕組みである。
「高度に複雑で経費のかかる生産過程となる傾向がある。そしてその過程の中では、その制度の努力と支出の大部分は消費者に、その制度が彼らに提供する製品または世話なしには彼らは生きていけないと信じ込ませることに向けられる」(108〜109)
「人々がそれを利用すると、その利用に関して社会的または心理的に「中毒」に陥らせる性質をもつ。社会的中毒というのは、換言すれば規模拡大(エスカレーション)であり、少量の使用が目的とした結果を生じない場合、その処置量の増量を処方する傾向にほかならない。心理的中毒ということは、換言すれば習慣化することであり、それは消費者が生産過程や生産物をもっともっと必要とするようにさせられたことの結果なのである」(109)
「公衆の趣味の操作」(111)「操作する(プロデュース)」(113)

「相互親和的」制度:「比較的控え目」(105頁)、「前のタイプよりも人目をひくことのないもの」(同)、「私はこれらをより望ましい将来のためのモデルとする」(同)、「制度スペクトルの一番左におくことにした」(同)
「利用者が自発的に使用することが特徴となる制度、すなわち『相互親和的』制度」(107)
「電話交換所、地下鉄網、郵便事業、公営市場や取引所は、顧客にそれらを使用するように勧誘するための売り込みを全然必要としない。下水道や上水道施設、公園および歩道は、それを利用することが自分の利益になるのだと制度的に説得される必要なしに人々が使用する制度である」(同)
「使用されるための制度を運営する規則は、その制度が誰にでも利用しやすくなっていることの裏をかくような濫用をさけることを主たる目的としている」(108)
「現在、われわれにはコンピュータによって電話が濫用されることを禁止する法律や、広告業者による郵便の濫用と工業廃水による下水道施設の汚染を防止する法律が必要である」(同)
「相互親和的制度の規則は、その制度の利用をある程度制限するものである」(同)
「顧客のイニシアティヴで行われるコミュニケーションや努力を便利にするネットワークとなる傾向がある」(109)
「左側の自己活動的制度は、同時に自己限定的でもある。これらのネットワークは、単に消費の行為を満足と同一視する生産過程とは異なり、それを反復して利用すること以上の目的に役立つのである」(109)

→各種の制度を考える際、この二つの制度をそれぞれの右端・左端におくと、対象の制度がどのような特徴を持つのかつかみやすくなる(本文より)。
→なお、スペクトルについてwikipediaでは次のように説明している。
【 その他のスペクトル
政治学では、イデオロギー分布に基づいて諸政治勢力(政党が中心だが、議会外野党や反体制組織まで範囲を拡大する場合もある)を配置した模式図、ないし配列そのものを政治的スペクトル(political spectrum)として、分析ツールの一つとして用いている。一般には、左に左翼勢力を持ってくる。対象は、一般的な政党や各国の具体的な政党など、自由に設定でき、特定の政党内部での派閥の配置を表現することも可能である】
→「一般に左から右へ移動するこのようなスペクトルは、今までに人々やそのイデオロギーの特徴を示すためには用いられてきたが、社会全体やその様式の特徴を説明するために用いられることはなかった」(105頁)
→「制度スペクトルの相互親和的な端から操作的な端に移動するにつれて、そこでの規則は、しだいに、人々の意に反した消費または意思に反した参加を要求するものとなってくる」(108)
→「十代の若者を除けば、受話器に向かって話すことの喜びのために電話を使用することはないであろう。もしも他人に連絡をとるのに電話が最善の方法でなければ、人々は手紙を書くなり、出向くなりするであろう。これに対して右側にある制度は、学校の場合にはっきりするように、強迫観念的に繰り返し用いることをさせるとともに、同じ目的を達成するためのほかの方法を阻害するのである」(109)

「スペクトルの真中」(110):「繊維やたいていの破損しやすい消費材の生産者」(同)

偽りの公共事業

●高速道路は「右側の制度に直接通じるものがある」(112)。「われわれは高速道路の性質と真の公益事業の性質とを明確に区別しなければならない」(同)
→「高速道路は私的な分野でありながら、そのコストの一部分がひそかに公共部門から支出されているものなのである」(同)
「高速道路網は主として自家用車のアクセサリーとして役立つのである」(113)

●「貧しい国に移植された「近代的」な科学技術は、三つの大きなカテゴリーに分けられる。それらは、製品、製品をつくる工場、およびサービスを提供する制度である。サービスを提供する制度ーその制度の中の主要なものは学校であるーによって人々は近代的な生産者と消費者に変えられてしまう」(115)
「すべての「偽りの公益事業」の中で、学校は最も陰険である」「学校はスペクトルの右端に群がる一群の近代的制度全体を創り出すのである」(116)

偽りの公益事業としての学校

●「偽りの公益事業」高速道路を基にし、さらにタチのわるい「偽りの公益事業」学校を批判する。
●「高速道路と同じように、学校は初め見たときにはすべての人に対して平等に開放されているような印象を与える。実際は、学校はたえず信任状を更新する者に対してのみ開放されているのである。学校は近代的な科学技術を使用する社会において、必要な能力を身につけるために不可欠なものと考えられている」(116)
●「学校もまた同様に、学習はカリキュラムを教えられることの結果だとする見せかけの仮定に基づいている」(同)
「学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するのである。他人によって成長させてもらおうとすることは、製造された商品を求めることよりももっとよけいに自発的活動の意欲を放棄させる」(117)
「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである」(同)
→ある意味、イリイチの主張はスローライフ運動に近い。
「学校は、完全な逆新税のシステムであり、そこでは特権を与えられた卒業生が、税金を納める全公衆の背に乗っている」(同)
高速道路との違いについて。「誰も自動車を運転することを法律で強制されないが、学校に通うことはすべての人が法律で義務づけられているのである」(同)
→本来の公益事業は相互親和的制度であるべきだ、というのがイリイチの主張である。イリイチは「偽りの公益事業」として高速道路を批判する。高速道路を作るのには国民の税金が使われている。けれどここを利用できるのは車を持っていて、ある程度お金のある人だけである。車を持っていない人は、自分のお金で作られた道路であるにもかかわらず利用できないのである(友人は「スーパーで新鮮な野菜や魚が食べられるのは高速道路を使いトラックを走らせているからなのだから、恩恵を受けていると言えるのではないか」といっていた)。
 高速道路同様、学校も人々の税金で作られている。けれど学校に入って勉強するのにはお金がかかる。ただでさえ税金で給料がひかれるだけでなく、自分の金で作られた学校でありながら、貧しいと行くことができない。

●「人々は学校による教育だけを教育と誤解し、医療サービスを健康と、予定表を忠実に実行することをもてなしと、およびスピードのあることを効果的な移動と混同するようになる」(121)
●「制度によって与えられるサービスを増やすことではなく、むしろ人々に活動すること、参加すること、および自分の力でやることを絶えず教育する制度的枠組みなのである」(122)
「われわれはサービスを提供する制度ーなかでも教育を提供する制度ーを若返らせることから始めなければならない」(同)

まとめ
●「操作的制度」とは人々を受け身にさせる制度のことである。対して「相互親和的制度」とは人々の自発性を重視した制度である。別に不必要なら使わなくてもいい。けれど、万人に開かれているという制度である。

雑感
●イリイチは同じことを何度も形を変えて説明する。学校によって本来の学びが無くなってしまうということを、「価値の制度化」や「制度スペクトル」などの概念を用いて説明し直しているだけなのだ。改めて『脱学校の社会』を読み直して気づいた。
●イリイチのいうように(義務制の)学校を廃止するとどうなるだろうか? 一気になくすと、様々な混乱が起こることは確かだ。教員の生活は? 塾産業は? 教科書会社はどうする? 子どもはどうやって学ぶのか?えとせとらetc。脱学校に対する批判はこの「急激になくした」ときに発せられるものが多い気がする。けれど、漸進的に学校をなくしていくならどうであろうか。学校のダウンサイジングから始めていき、塾産業や民間の学び舎が育っていくのを待つ。人々の教育への意識や共同体意識の熟成を待つ。徐々に学校を減らすならばそれほど混乱もなく移行できるであろう。イリイチの主張をすこしアレンジして、現在のフリースクールのように「行きたい人は学校へいってもいいし、フリースクールに来てもいい」スタンスにしておくとなお良いだろう。大事なのは脱学校を行うことがいくら正しかったとしても、移行期間中に子どもにデメリットを生じさせないよう考慮していくことである。

エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』抜粋

ブラジルの教育者パウロ・フレイレほど教育を的確に定義した人はいないが、彼によれば、人の現実を、それに対する有効な行動に導くような形で、批判的に自覚するプロセスこそ教育であるという。教育を受けた人は、自分の世界に適切に対処できるまでに、その世界をよく理解している。このような人が充分な数だけいたら、現在の世界の不条理をそのまま放置するはずはない。(225頁)

教育を受けることは、社会を変革することと同義である。うーむ、実に面白い。

大衆化、実用性、革命的目標が力説されながらも、論争は常に学校制度を如何に改革するかという論議であって、学校に代えて何かほかの制度を導入しようという発想はない。(43頁)

学校は昔から、子どもに考えさせないためには、忙しくさせて置けばよいことを知っている。(86頁)

→野口悠紀夫は〈大会社の社長ほど、一人旅を年に一度はすべきだ。職場を離れていろいろ考察することがなければ、会社の将来性はしぼんでしまう〉と、休暇/旅行の重要性を語る。実際、忙しいときには冷静な判断ができないことが多い気がする。

教育だけでは問題は解決できない。現在の安定がどれほど頼りない基盤に立ったものか、教育はそれに対して人々の目を開かせてくれる。実行可能な代案を具体的に認識させてくれるが、それを実現するためには、さらに何かが必要とされる。すなわち教育だけでは、革命的な社会変革をもたらすことはできない、ということだ。(pp227~228)

驚くなかれ、このように学校制度というものは、わずか1世紀足らずの間に、世界中のあらゆる国民の間で、あらゆる種類の価値を配分する主要な機構になってしまい、家庭や教会や私有財産制度がかつて果たしていたそういう機能を、大部分肩代わりしてしまった。資本主義国についていえば、学校がこれら旧来の制度の価値配分機能を肩代わりしたというよりも、強化したという方が正確かも知れない。(41頁)

子どもたちが学校で学ぶことは、学校の価値観だけではなく、その価値観を受け入れることであり、それを受け入れて体制の中で泳いで行くことでもある。子どもたちが学ぶのは体制順応の価値であり、この学習は学校だけに限られているわけではないが、学校に集中している。学校はたいていの子どもが最初に出会う、高度に制度化された環境である。(48頁)

我々は、段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関として、学校を定義する。ある機関にこの定義が正確に当てはまれば当てはまるほど、その機関は学校のステレオタイプに近いということになる。教育における代案は、このステレオタイプから離れるものとして、最も一般的に定義することができる。その離れ方が学校制度の「引力」から逃れられるほど遠く、かつ速くないと、ふたたび学校制度に吸収されてしまう。(60頁)

→ライマーの学校の定義である。「引力」の比喩は印象的だ。イリイチと同じく、①フルタイムでの出席を要求し、②年齢ごとに授業し、③教師が授業をし、④その内容はカリキュラムで決められている、という要素をもつものが〈学校〉である。イリイチは技能修得や高等教育のための〈学校〉はあっても構わない、といった。ライマーはどうか?

学校教師は一人三役を演じる。アンパイアと裁判官と助言者だ。アンパイアとしての教師は、答えが正しいか誤りかを判定し、採点し、進級の可否を決める。裁判官としての教師は、(中略)学校の道徳的規範にしたがわない者に罪悪感を自覚させる。助言者としての教師は、学業または道徳の規準に合致しない者のいいわけを聞き、学校の内外で生徒が行う選択について助言を与える。こういっても何も奇異な感じがしないのは、生徒が公民権のない人間とみなされているからだ。(pp64~65)

追記
ライマーはイリイチの共同研究者。そのため〈学校は金がかかる割に効果が出ない。アメリカなどの先進国でもうまくいっていない。では第三世界の人々の教育はどう行っていくべきなのか〉との問題意識を、ライマーも持っている。その他の所でも共通点が多い。一つの例として、「仲間探しのネットワーク」という、イリイチのラーニングウェッブ同様の制度を本書で提唱している点が挙げられる。
よく似た思想のライマーとイリイチ。相違点はどこか、も調べていきたい。

参考として小中さんのブログを見るといいですね。