オルタナティブスクール

『オートポイエーシスの教育』、または卒論の概要。

 山下和也『オートポイエーシスの教育』を読んでいる。ルーマンの社会システム論のキー概念である「オートポイエーシス」理論をもとに、教育を再考するという本である。

 山下は、2通りの教育コミュニケーションが存在していることを説明する。ひとつは、「全体としての社会システムの期待される人格一般としての人格の担い手の育成を期待する」普通教育コミュニケーションである。もうひとつは「特定の社会システムの特定の人格の担い手育成を期待する」専門教育コミュニケーションを意味する(117頁)。
 現在では、普通教育コミュニケーションは最低限必要な基準であると考えられている。いわゆる義務教育である。社会の一員となるに当たり、「ないと困る」レベルの内容である。一方、専門教育コミュニケーションは、個人に応じ要求されるものが異なってくる。山下の言葉を使うと、将来になう人格に応じて専門教育コミュニケーションの中身は変わっていくのである。
 この言葉を説明した後、山下は次のように語る。これはイリッチの「学習のためのネットワーク」(ラーニング・ウェッブ)の欠点をしたものだ。
 将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。技能教育のネットワーク化を唱えて学校を否定するイリッチが見落としているのがこの点で、何を学ぶべきかが個人個人にわかっていないからこそ、学校による普通教育が必要なのです。独学の困難は学ぶべきことの選別にこそ存するのですから。(pp123~124)
 重要な指摘だ。けれど、見当違いもいくつかある。イリッチは確かに『脱学校の社会』のなかで、「技能教育」についても書いていた。けれど、山下の文脈にある意味ではなく、「学校的な機能が役立つのは、技能教育についてだけだ」といっているように私は解釈している。「技能教育」と「ネットワーク化」をつなげてはいなかったはずだが・・・。小中さんに聞いてみようかしら。
 個人は「何を学ぶべきか」「わかっていない」という点が印象的だ。若干、内田樹の語り口を思い出す。内田ならば〈学びとは、何を学ぶべきかわからない状態の中からはじまる。「自分はこれを学びたい」、と学びを商品のように扱うことはできない。学びは、何をどこまで学ぶかわからない中、それでも学び始めることから始まるのだ〉という感じで書くだろう(『街場の教育論』にあったはず)。ある程度学びが進まない限り、「これを学びたい!」という感情が起こることはないようだ。
 この点についてだが、フリースクールの理念を思い出すと、いささか疑問も感じられる。
 フリースクールの「自由な教育」は、「勉強しない自由」も認めている。奥地圭子のいう「ヒロベン」(広い意味の勉強)が行われているから、いまは遊んでいてもいいのだ、という態度である。『超・学校』に紹介されたサドベリー・バレースクールの実践も、「ヒロベン」である。生徒達は何をしてもいい。一日中、釣りを続けてもいいし、学校に来なくてもいい。「これを学べ」とは決して教師が言わず、「これを授業して下さい」と子どもがいうまで、教師はものを教えない。「教育とは待つということだ」という言葉があるが、サドベリー・バレーはそれを地でいく学校(語弊があるなら「学び場」か?)であるのだ。
 サドベリー・バレーのようなフリースクール(あるいはデモクラティック・スクール)において、「普通教育」を行っているといえるのか? 「ヒロベン」という便利な言葉を使うなら、「ヒロベン」を「普通教育」と考えられるのだろうか? 山下は学校内での、制度としての授業を「普通教育」と考えてるようだが、制度によらない「ヒロベン」を「普通教育」ととらえてもよいのであろうか。
 フリースクールなどの「自由な教育」の中で、「最低限必要な学習」が行われることを説明できるなら、いま以上にフリースクールが教育界で重視される存在となると考えるられる。
 けれど自分で書いといて何だが、この結論はフリースクールの命取りともなるような気がしてならない。イリッチは「価値の制度化」という状況への批判を『脱学校の社会』で行ってきた。イリッチのいうラーニングウェッブやフリースクールに、「普通教育を行いなさい」と伝えることは、フリースクールの「フリー」さを損ねる結果となるのではないか。「教えられたことを学んだことの結果だと考える」のが価値の制度化、「学校化」現象である。自由さがウリのフリースクールに、「これを行いなさい」ということは「価値の制度化」といえなくもない。
 方向性としては、いまフリースクールで繰り広げられている学びを、山下の言う「普通教育」ととらえていくという姿勢が必要となるのだろう。東京シューレなど「フリースクール全国ネットワーク」加盟団体であればこの考え方でいい。
 ただし、これは団体に入っているからOK、というわけではない(それでは「価値の制度化」である)。団体加盟の際に加盟条件に適った団体かをチェックする機能が働いているからOKとみなすのである(無理に子どもに教育を与えようとする組織は、外される)。このチェック機能にも残念ながら穴がある。加盟後に不適切な行動をしはじめる団体へのチェックを行えない点だ。実際、フリースクール全国ネットワークの活動を見てみると、「総会」に参加しない団体へのチェック機能がないように思う。また「総会」やその他活動にフリースクールの代表者が参加していても、適切なフリースクール運営をしているかを、「全国ネットワーク」メンバーが確認することはほとんどない。加盟数が100に満たない間は、それでも善意でなんとか運営されるかもしれない。けれど、数が増えて加盟数が300を超えてくると誰も実体を知らない組織が存在することになる可能性がある。絶えず加盟団体の行動をチェックする機構が「全国ネットワーク」に存在するのか否か。それがキーになる気がする。
 話が脱線したので戻すと、フリースクールだから「普通教育が」が「ヒロベン」の名で行われているのだろう、と思うことに危険が伴うのだと私は考えてるということだ。下手に「フリースクールには『普通教育』を制度としては取りいれない」とした場合、「フリースクール」という名称が名ばかりとなっているような学びの場(昨年の丹波ナチュラルスクールなど)に対し、「もっと~~な教育を行いなさい」といえないことになってしまう。
 この問題も、自称「フリースクール」と、「フリースクールの理念に合致した真のフリースクール」が明確に区別され、第三者機関によって評価される時代が来たら、解決するような気がする。現段階では「フリースクール全国ネットワーク」加盟のフリースクールを、典型的な「フリースクール」であると考えておくのが無難なようだ。
 
追記
 卒論では、イリッチのラーニングウェッブに対しての批判を行う内容を行いたいと思う。『学校が自由になる日』内の「学校リベラリスト宣言」の内容を踏まえ、「最低限必要な学習」と「発展的な内容」に教育内容を分けて行うなら、イリッチの主張は実現可能であるということを示したい。
再記

 再び確認してみると、イリッチの本文に、技能教育のネットワークを示唆するものがありました。ただ、山下さんの記述にあるような「技能教育のネットワーク」だけをイリッチが説いたわけではありません。
 …。おかしいな。イリッチは技能教育を学校で行うことに肯定的だったはずなのに…(というか、学校が役立つのは技能教育と大学だけだ、といっていた)。

卒論の構成

 そろそろ、卒論のことを考えていこう。卒論の構成について、次のように考えている(随時更新)。

卒論の題目:「    」
はじめに
イリッチ『脱学校の社会』
・イリッチが本書を書いた理由は何か?
・価値の制度化とは何か?
・学校化とは何か?
 →宮台真司・上野千鶴子の「学校化」とイリッチの「学校化」の違い
フリースクールの中身
・フリースクールの「フリー」の意味
・フリースクールの存在がもたらす社会的意義
 →オルタナティブな社会
・東京シューレの活動
・ミーティングの意義
 →子どもの権利条約との関わり。
ラーニングウェッブの可能性
・イリッチの描くラーニングウェッブ像
・ブログ空間によって、ラーニングウェッブは構築可能か?
・『学校が自由になる日』の「学校リベラリズム宣言」との対比
結論
うーむ、全然まとまっていない。まずは構成を完成させないと。

集団の健全性は、内部批判者への対応によって決まる。

 昨日、サークルの話し合いに参加。議題は、11月8日の早稲田祭企画について。企画の方向性や意義、今後のスケジュール等など。大体2時間半かかった。これから毎週続く。いつ故郷に帰るべきか、毎年タイミングを計るのが難しい。
 本サークルの特徴は、方向性を定める3〜4年生の「首脳」メンバーが、時を追うごとに減っていくという点だ。十数人から始まり、いまはヒトケタ。「次は自分がいなくなるかも…」との不安を、今でも持っているのが私である。

 そのサークル内では「来ないメンバーを何とか来れるようにしよう」という声が強い。以前の私はその声に同調する側だった。けれど、最近は疑問を感じている。無理にサークルに来させることに、いかほどの価値があるのか? 周りの「首脳」は来れなくなったメンバーが戻って来て、「僕が悪かった。ごめん」というシナリオを描いているようである。
 
 あれ、こんな構造、何かに似てるぞ? そうだ、学校組織だ。
 『学校が自由になる日』の内藤朝雄の文章を思い出す。日本の学校共同体の中では いじめられた側が「私が悪かった。性格を直すから、仲良くして」とすりよるため、陰惨な いじめが行われることがあるという。
 いじめられているなら、学校という集団に来ないという「不登校」という選択肢もある。けれど、日本の子どもたちは虐められるのが分かっていながら、学校に行ってしまう。「学校に行かないのは悪いことだ」と素直に信じている者も多い。 
 不登校は社会の健全性のバロメーターではないか。そんなふうに思う。いじめという「人権侵害」のある集団に、「NO!」を突きつける個人がいるかどうかが重要なのだ。理不尽な苛めがあっても、誰も不登校という選択肢を選ばない。そんな集団は個人に際限のない人権侵害を行ってしまう、「腐った」組織である。不登校を選んだ子どもがいるという事実が、集団から逃れるという選択肢の存在を、集団内メンバーに自覚させることになる。
 不登校は悪いことではない。不登校の存在が「不登校という道がある」と他の構成員に示すことになるからだ。

 不登校同様に、サークルに来れなくなったメンバーの存在を認められる集団は、「健全である」という評価をすることができるのではないか。皆が一律に同じ行動をする。そんなことは不可能だ。集団の力は個人よりも大きい。故に、しばしば集団は個人に人権侵害を行う。人権侵害が存在していても、「集団に参加し続けないといけない」と思うことが、さらなる侵害を招く。いじめの構造だ。

 集団の力は、個人よりも強い。そんな中、不登校という存在は「集団から出ることは可能なのだ」という、強いメッセージを他の集団内メンバーに示すことができる。

 学問の世界では、論文の評価は〈批判が来るかどうか〉で決まる。よい論文には、必ず反論がある。反論・批判がない論文は最悪の論文だ。同様に、集団に対して構成員から批判がないのは不健全な組織であることが多いのではないか。つまり、通常の認識とは逆に、学校における「問題児」や「不登校」の存在は、学校が「健全」であることの証明であるのだ。逆転の発想である。

《全員が》、《一人も残らず》、《一丸となって》、《団結する》。学校的共同体特有のキーワードである。本当に人々が「心を一つに」することはあるのだろ うか? 幻想である。内田樹は〈幻想であっても、幻想があると考えることに何らかの意味があるならいい〉というだろう。けれど、この問題に関し『サヨ ナラ、学校化社会』で上野千鶴子(内田の「天敵」)が語ったのは、「学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります」(57頁)というメッセージであった。「学校化社会」とは、学校的共同体がもたらす「幻想」の別名である。
 無論、組織によっては本当に皆が「心を一つに」しているところも存在するかもしれない。けれど、それを当然視していると、集団が個人に持つ暴力性に対し、無自覚になってしまう。「心を一つにするのが当然だ」と、集団に批判的な個人を攻撃することとなるからだ。

 まとめをするなら、こうなるだろうか。集団は個人に対し、しばしば人権侵害を行う。そのため、「集団から逃れることができるのだ」という道(不登校など)を示している集団は、個人の人権侵害を極力減らすことができる。それゆえ、「健全である」といえる。逆に集団から逃れることができない組織(あるいは集団から出るということを誰も行っていない組織。不登校のない学校など)は、個人に対し人権侵害を行っていることがある。
 離脱者がいる集団こそ、健全な集団であるといえるのだ。
 

 

フリースクールと、それにまつわる種々の名言。

 最近、フリースクール関連でボランティアをしている。今日はJDECというイベント内で行われた、パネルディスカッションの打ち込み作業に没頭した。

 打っていて、「有り難い仕事だな」と思う。フリースクール関係者のコメントは、非常に面白いものが多いからだ。

 名言を残しておきたい。

「フリースクールには、〈何もしない自由〉がある」

「教育を使うのは子どもたち自身」(「教育を使う」とは、すごい着眼点だ)

「フリースクールは自分の母校。だからいつまでもそこに存在し続けてほしい」(内田樹も《自分の母校が無くなることを、卒業生は望まない。自分の頃と同じ教育がずっと続いていくことをOB/OGは望むのだ》と語っている)

「子どもの自己肯定感は、教えられるものじゃない。子どもたち自身が学ぶものだ」(以前書いた『マトリックス』の評論を思い出す。モーフィアスの台詞「マトリックスの正体は教えられるものじゃない。自分で見るものだ」)

「自分らしさとは、自分で決めること」

「フリースクールの活動はほとんどソーシャルワーク」

 永六輔が『週刊金曜日』で連載している「無名人語録」。私もフリースクールや脱学校関係でこんな語録集をつくりたいものだと思う。

早稲田に受かる人はどんな人たちか?

 早稲田大学で、オープンキャンパスが開かれている。道理で馬場下町の交差点に制服の高校生が多いわけだ。大学の受付で、オープンキャンパス参加者に配っている資料・プレゼントを受け取る。別に「悪いことをしている」実感はない。「ください」と言ったら、役員が渡してくれたんだから…。

 『入学データ集2010』を開く。受験のデータを見ると、いろいろ面白い。一緒にもらえる「早稲田大学案内」は読まないことにしている。読めば読むほど、「へー、早稲田ってこんなにいい大学なんだ。そうは全く見えないんだけど」とツッコミたくなる衝動を押さえにくくなるからだ。

 わが教育学部・教育学科・教育学専修の2009年度入試の倍率は5.8倍。私のとき(2006年度入試)とほぼ同じだ。一応、チェックしておく習慣がある。

 「出身高等学校所在地別状況」という項目に目が行く。早稲田に来る人たちの出身地がほぼ分かる、という便利な資料だ。
 最も数字が多いのが東京都。31.43%もの学生が東京にある高校出身だ。地域としては関東の高校出身者が全体の71.14%を占める。うーむ、早稲田はほとんど「関東人」のための大学といえそうだ。

 わが故郷・兵庫の出身者はわずか1.42%なり。みんな、ワセダになんか来ないんだ、と思うと寂しくなる。近畿地方までみると4.94%。早稲田生100人中、5人ほどが関西の高校出身。関西は少数勢力だなあ、と心もとない。

 リストの一番下に私の目は止まった。「高卒認定等」の欄である。なるほど、「出身高等学校所在地」であるわけだから「高卒認定」試験で入ってきた人は除外されているわけか。「高卒認定等」の受験者は1397名。合格者は134名。2009年度合格者全体に占める割合は0.92%である。
 ちなみに、北海道の高校出身者は0.97%である。「高卒認定等」で早稲田に合格した割合とほぼ同じ。早稲田大学内で北海道の高校出身者に会うのと同じくらいの割合で、「高卒認定等」合格者がいるのである。私のいるゼミに、北海道の高校出身の先輩がいる。この方と遭遇したのだから、案外「高卒認定等」でワセダに来た人はいるのだろう。

 フリースクール→高卒認定→大学進学、というルートが認められることを期待している私にとって、このニュースは非常に嬉しい知らせであった。

イリッチが『シャドウ・ワーク』で言いたかったこと

『シャドウ・ワーク』においてイリッチは〈制度に縛られない〉生き方の大事さを何度も主張している。少なくとも、一章と二章を見る限り、そうである。

 「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはず。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行して、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

 『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである、と。近代成熟期には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

 追加すると、イリッチは「理想の社会」と一つのことばで表される社会を嫌っているように思える。コミュニティごとに、「理想の社会」は異なるはずだ。文化環境も、思想・信条も、自然環境も違っているのだから。山本哲士は『教育の政治 子どもの国家』において「社会」と「場所」とを対比的に語る。一元的な「社会」ではなく、その場その場の(ヴァナキュラーの)「場所」を重視すべきだと主張している。
 経済を基にしていると、経済はすべてを一元化してしまう。『シャドウ・ワーク』の「公的選択の三つの次元」のZ軸の定義として、上限が「経済成長につかえる社会」であると示している。その反対側の下限が「生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」というものであった。「経済に基づくコミュニティも多様な選択肢の一つではないか」という意見が聞こえてくることを見越した上での、主張であろう。経済を基にすると、コミュニティの独自性が失われてしまうことをイリッチは嘆いているのだろう。XYZ軸をすべて説明した後に、「当今の政治の概念作用となると、すべてを一次元化してやまない」といっているのは、そのためではないだろうか。

※余談だが、昔読んだリンカーン大統領の伝記を思い出す。サブタイトルは「丸太小屋からホワイトハウスへ」であった。当時の私は丸太小屋、つまりログハウスに住んでいる人は「別荘を持った金持ち」というイメージをもっていた。本来、19世紀初頭における丸太小屋は「貧しさ」の象徴であったのだが、誤解していたのだ。

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』(岩波現代文庫、2008)

 著者は30年間学校の教師をした後、「東京賢治の学校」をつくる。現在は子どもを対象にシュタイナー教育を行っている場所だ。
 執筆した当時、鳥山氏は「うまく育てなかった」大人を対象に「ワーク」とよばれるケアを行っていた。「ワーク」は、その人の心理の根底にある、不安な出来事・辛かった出来事などをその場で「演じて」見ることで、「うまく育てなかった」部分を乗り越えていくという実践だ。
 「どうしても子どもを抱きしめることができないんです」という母親。鳥山氏が「ワーク」を行ったとき、その母親自身が親から愛情を注がれることがなかった・抱きしめられることがなかったことを思い起こす。親にいいたかった思いを、「ワーク」の中で伝える母親。それを見ていた母親の子どもが涙を流して母親の元に抱きついてくる。「ごめんね」と母親も子どもを抱き返す。本書は鳥山氏が出会ってきた多くの家族が「再生」するという、感動的なエピソードに彩られている。
 印象的なのは次の部分だ。

新聞や雑誌には、「学校へ行けない子どもに決して強要してはならない。学校へ行けない場合には、無理やりに学校に連れていってはいけない」とありました。本当に今も、いろいろな本とかカウンセラーたちが、閉じこもっている子を無理やり外に出してはいけないとか、学校へ連れていってはいけないとかいうようにいっています。そして、今も、そういう考えが主流を占めています。困ったことに、これらの忠告や知識は母親が自分の子にていねいにふれて感じながら二人の関係をつくり上げることをストップさせます。(p72)

 「自分の子どもが不登校になった。教育雑誌やネットを見る限り、そっとしておいてあげることが大事だろうな…」。著者の鳥山氏はこういう親の態度に批判的だ。子どもと向き合っていないからである。ひょっとしたら、学校を休むことを通して、「もっと私に関わってほしい」というメッセージを子どもが発しているかもしれないではないか、と。
 私の専門はフリースクールである。日本的文脈において、フリースクールは「不登校の子がいく所」という認識になっている。子どもが不登校になった時、「とりあえずフリースクールに行かせればいいかな」と安易に親が考えるようでは駄目なんだな、と本書を読んで感じた。
 フリースクールの活動はそれ自体は子どもの学習権の保障や、「子ども中心の教育を行う」という意味合いで重要な実践である。けれど、だからといって「わが子が不登校になったら、フリースクールにすべてお任せ」ということがあっては子どもが不幸になる。フリースクールがあるからと言って、親が子どもに関わることを避けていいわけではない。新聞やテレビなどで専門家のいう言葉を鵜呑みにして、子どもと関わることを放棄しては本末転倒なのである。自分で考えて、自分から向き合っていくことを忘れてはならない。
 「フリースクールに行かせれば何とかなる」という判断は、あくまで子どもと向き合った上で行うべきなのだ。そうでなければ、イリッチの言う「価値の制度化」が起きてしまう。
 親として、子どもと向き合うことから逃れてはいけない。そういう強烈な主張を受け取った。

 …けれど、この本は人々を不安に陥れる恐ろしい本でもある。一見、うまく行っている家庭であっても、親の「うまく育つことができなかった」点のために家族が崩壊していることがある、という事例を多く提示するからだ。家庭の様子は外と比べることが少ないだけに、問題はなかなか表面化しない。
 昔の映画に『家族ゲーム』があった。名優・松田優作の遺作である。奇妙な性癖を持つ家族の日常を描いた映画だ。その家では、細長い机に横一列になって座 り、食事をする。飛び回るヘリコプターの騒音のBGMが、どことなく不安定な一家の姿を暗示している。けれど、この家族の中ではこれが当たり前の姿なの だ。
 『家族ゲーム』を奇妙と言えるのは、この家族の外部に自分がいるからだ。『家族ゲーム』の中の家族にとっては、これが当たり前の姿。何の疑問も提示されない。自分が育ってきた家庭環境は、外部から見ると映画同様に奇妙に映っているのかもしれない。
 『居場所のない子どもたち』を読みながら、「自分は大丈夫なのか?」「きちんと育つことができたのか?」、と何度も不安に感じる。だって、『家族ゲーム』の奇妙さは、外部の人間にしか分からないのだから。自分の育ってきた環境は、外部から見ると「奇妙」としか言いようがないことがあるのだ。それゆえ、不安に駆られる。
 読み終えたときには、「人間がきちんと育つことなんて、本当にあるのだろうか? この著者は不安をあおっているだけではないのか?」と強烈に感じる本である。
 

岩波現代文庫『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』

本書はイリイチを玉野井芳郎・栗林涁が訳した。

目次。
1 平和とは人間の生き方 17
2 公的選択の三つの次元 39
3 ヴァナキュラーな価値 79
4 人間生活の自立と自存にしかけられた戦争 123
5 生き生きとした共生を求めて 民衆による探求行為 161
6 シャドウ・ワーク 205

ちなみに、本書のカバーにはこんな言葉が書かれている。

家事などの人間の本来的な生活の諸活動は、市場経済に埋め込まれ、単なる無払い労働としての〈シャドウ・ワーク〉へと変質している。そのような現在の生活からの脱却を企て、人間の生き方として、言語・知的活動から、平和の問題までを縦横に論じる。鋭い現代文明批判で知られるイリイチの思想理解への格好の書。

「格好の書」になるといいな。

フリースクールに大事なもの、ミーティング

フリースクールにおいて重要なものは何か。あまり知られていないが、それは「ミーティング」である。

フリースクールの運営について、子どもとスタッフが話し合う場。次のイベントの企画や、フリースクール内でのルールについて等。実際の所、「フリースクールの命」とも言えるものであるのだ。

平等な立場で議論をする。いわば「平等」権をもとにした制度だ。フリースクールというと「フリー」の語に引っ張られ、「自由」のみが重視されるきらいがある。けれど、そうではない。フリースクールの「フリー」とは無条件の自由を意味するのではなく、設備や他者との折り合いの上での「自由」である。利用可能な資源の中で、有効な使い方を考える上での「自由」なのである。

ミーティングの存在は、フリースクールを語る上で欠かせないものである。フリースクールの子どもたちはこれを通じ、コミュニケーションスキルを向上させていく。

イリッチは「脱学校化」した後のフリースクール的なものに対し「学び」を求める。イリッチは、たとえば語学などの教材を学ぶという「実質陶冶」の学びを主張する。教材に頼るイリッチよりもミーティングを行うフリースクールの方がより「形式陶冶」を行っていると思われる。

※『教育学用語辞典 第四版』には、次のようにある。「形式陶冶は、(中略)知識それ自体よりもこれらを習得するのに必要な推理力や想像力などの訓練を重視する立場である。これに対して実質陶冶は、心理的ないし精神的諸能力よりも児童生徒が教材内容を習得することで客観的な知識や技能を獲得することを教育の目的とする立場である」(186頁「陶冶」貝塚茂樹の文章)

…今回は、書いてて自分自身よく分からなくなりました。忘れてください。

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)
●ギリシャ神話の「パンドラの箱」。パンドラとは「すべてを与えるもの」。
●「はびこっている諸悪の一つ一つを閉じこめようとして、そのための制度づくりに努力するプロメテウス的人間の歴史なのである。それは、希望が衰退し、期待が増大してくる歴史である」。
●希望と期待の区別の再発見の必要性。
希望:「自然の善を信頼すること」「われわれに贈り物をしてくれる相手に望みをかけること」
期待:「人間によって計画され統制される結果に頼ること」「自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むこと」
●「プロメテウス的エートスは、今日希望を侵害している」「人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている」
●原始時代、人類は希望の世界に生きていた。古代ギリシャ時代から、希望を期待に置き換えることをはじめた。
●プロメテウスとエピメテウスの二人の兄弟。
●ギリシア人は「合理的で、権威主義的な社会を築いた。人々は、はびこる悪に対処するつもりで制度をつくり上げた」
●「彼らは、自分自身の要求や将来における子供たちの要求が、人為的につくられたものによって形成されることを望んだ」
●原始時代:個人を儀礼に神話にしたがって参加させることを通し、社会の慣わしや知識を個人に教えていった。
古代ギリシア人:教育によって、前の世代の人々がつくりあげた制度に自らを適応させる市民だけを真の人間として認めた。
→夢が「解釈」される世界から、神託が「創ら」れる世界への移行を反映している。
●「人々は、彼らの生活を規定する法律をつくることや、環境をおのれのイメージに合わせてつくることに責任をとった」。「神話的生活への原始的な導入の儀礼は、市民の教育に変えられていった」(p194)
●「運命、事実、および必然性によって支配」されていた原始の人々。
   ↓
プロメテウスは神から火を盗む。「事実とされていたものを問題とし、必然性とされていたものに疑いをさしはさみ、運命に戦いを挑んだのである」
   ↓
「運命として与えられた自然環境に挑むことはできるが、そのためには自分自身に危険のふりかかることを覚悟していなければならないことを知っていた」
   ↓
「自分のイメージにあわせて世界をつくり、全面的に人工でつくられた環境を築き上げようとする」「しかし(中略)それはむしろ環境に自分自身を適合させるよう、たえず自分を作り変えるという条件のもとでのみ可能であることに気づく」
   ↓
結果として「今、われわれは、人間というもの自体が危機に瀕している事実を直視しなければならない」
→要はどういうことか。自然を作り変える・手を加えることで現在の文明が成立した。しかしそれに伴い、人間自体も変化させられることとなった。人間も自然の一部であるゆえ、自然に手を加えるならば何らかの形で自分自身にも手を加える結果となるからだ。それが環境破壊や環境ホルモンの問題として現れてきている。だからこそ「人間というもの自体が危機に瀕している」といえるのではないか。
→「自然に手を加えよう」とする思いが、プロメテウス的人間の行動だといえるのではないか。「ありのままに任せていこう」という思いがエピメテウス的人間といえるのではないか。
●現在は「欲望と恐怖までもが、制度によってつくり出される」。価値の制度化が進んでいるのだ。(p195)「学習自体が、教科内容を消費することと定義される」
●「望ましいのものはすべて計画されたものなので、都市の子供はやがて、人間は人間のどんな欲求を満足させるためにも、そのための制度を作れると考えるようになる」(195頁)
→本当に必要なものではなく、社会が私に「この商品が欲しい!」と思わせるのではないか。つまり、社会が高度になるほど、社会が人々の需要を作り出す。社会のことをイリッチは「制度」と言い換えていると考えるのであれば、制度が価値を定める、価値の制度化がいたるところで成立することになる。その例が「月への乗り物が考案されれば、月に行くという需要もまた作りだされるということになる」(196頁)ということである。
 その結果、「たえず需要の増大する世界は、単に不幸というだけでは言い尽くせない。―それは、まさに地獄にほかならないのである」(196頁)。
●「人は、制度が自分のためになしえないことがあるなどとは考えることができないので、何でも求めるという欲求不満の原因になる力を発達させてきた」(197頁)。悪文。要は、人々の欲求不満が増大してきたということだ。プロメテウスが火を神から盗んでくるまで、自然というものに対し、人間には「あきらめ」があったはずだ。動物が捕れないならばあきらめて死ぬしかない。どんなに上手くない魚を釣ったとしても、空腹ゆえに諦めて食べるしかない。その世界は諦めで満ちている反面、幸福を感じることもまた容易だったのではないか。ほかにモノがないのだから、きちんと食事ができ、元気に一日を過ごすことができれば、それだけで幸福だったはずだ。
 現代は衣食住すべて揃い、体調も良好であったとしても「欲求不満」が増大するゆえに人々が不幸になる社会である。
●冷戦の影響を受けてか、『「原爆発射のスイッチ」は、今や「地球」の生死を制することができる』という書き方をしている。
●「われわれの制度は、それ自体の目的を作り出すばかりでなく、それ自身、およびわれわれの生存にも終わりをもたらす力をもっているということである」
→この例として、イリッチは軍隊を出す。「軍事用語における安全は、地球をなくしてしまうほどの破壊力をもつことを意味する」。
●「学校は、計画化された世界へと人間を導きいれるために人間を加工する、計画的に作り出された過程となった。学校は、一人一人の人間を、この世界的ゲームの中での役割を演じるのに適するレベルにまで形成するものだとされている。われわれは容赦なく耕作をし、さまざまの措置を講じ、生産活動をし、学校教育をするが、そうすることによって世界を消滅させていくのである」(199頁)
→地球が限界を迎えるのを加速する働き。教育にはそんな側面もある。
●「制度の目標は、制度のつくり出すものとは絶えず矛盾する」(201頁)。「貧乏胎児の計画は、ますます多くの貧乏人を生み出し(中略)学校は、より多くの脱落者を生み出す」
→学校がある限り、「学校が合わない」人間は必ず存在することになる。社会的受け皿がない限り、そのひとたちは不幸に陥ってしまう。この「制度の目標」と「制度の作り出すもの」の両方に目を向けていくべきである。
●「最後に、教師、医者、および社会事業家は、彼らの専門職的仕事が少なくとも一つの共通する側面をもっていることに気づいている。その共通点は、彼らが制度的世話を提供すると、それに対する需要が一層高まっていくということである。しかも、その需要の高まりは、彼らがサービスのための制度を拡充できる速さよりも一層速いのである」(203頁)
→本書の最終結論部分であろう。学校のスリム化・「小さな学校化」は私の考える理想社会であるが、その理論を支える言説となるであろう。「学校化」とは「教えられるのを待つようになる」「教えられたことだけに価値がある」と考える思考形態のことをいう。学校がある限り、人々は自分から学ぼうとはあまりしない。学校というものの持つパラドクスである。
●「人々にその生産物が必要だと思い込ませるために使われた教育費は、その生産物の価格に含まれる。学校は、人々に現状のままの社会が必要だと信じ込ませるための宣伝機関である」(204頁)
→この「教育費」とは広告費のことであろう。
●「われわれは、期待よりも希望のほうが価値があると考える人々につける名前を必要としている。われわれは、製品よりも、人間を愛する人々、また次のように信じる人々につける名前を必要としている。
 まるでつまらないなどという人はいない。
 人の運命は、星野めぐりのようだ。
 人々それぞれに独特である。
 星それぞれが異なっているように。
と信じるのである。(207~208頁)
→この「名前」とはイリッチがラストでいう「エピメテウス的人間」のことである。
→「期待」とは人間が作った需要による欲求のことではないか。制度がもたらす欲求不満には際限がない。それよりもごく自然に存在する「希望」を求める生き方のほうが人間にとって住みやすい社会となるのではないか。
●「われわれは、次のような人々につける名前を必要としている。彼らは、プロメテウスの弟と協力して火をともし、鉄を鍛えるが、その目的は、他人のそばにつきそってその人の世話をしてやる自分たちの能力を高めることである。
 誰にも自分ひとりの世界がある。
 その世界でのすばらしいひととき。
 その世界での悲しいひととき。
 どれも自分ひとりのもの。
という認識を持ちながら。
 私は、これら希望に満ちた兄弟姉妹たちをエピメテウス的人間と呼ぶことを提案する」(209頁)
→理想の人間社会像。
おわりに
●この章は、「脱学校」にほとんど関係がない章であると思う。けれど、読んでいて感動すらする章である。