『脱学校の社会』を読む②(はじめ〜30頁まで)、あるいは「価値の制度化」論。

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昨日に引き続き、ディスプレイに向かって独り酒。〈クリアアサヒ〉がセブンイレブンに無かったので、〈のどごし生〉を飲んでいる。まあ旨い。常にビールの飲める境涯になりたいものだ。

閑話休題。

イリイチの『脱学校の社会』を見ていく。なお、議論の定本は東京創元社発行、東洋・小沢周三訳のものである。

1 なぜ学校を廃止しなければならないのか

●「多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである」(13頁)
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「『学校化』されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる」(13頁)
→いわゆる「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
 本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった!」と大歓喜している。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。価値Aを普通自動車運転免許取得、価値Bが自動車教習学校卒業であるとき、少年は不幸である(ときどきいますけどね)。
 これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。そして学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値B)。けれど現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえば自宅での学習を行うとか、フリースクールにいくとかする選択肢も存在するべきだ。けれど制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが重視されるようになる。この価値の転倒をイリイチは「価値の制度化」と呼んだのであろう。

●「私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである」(14頁)
→先の話の通り、価値の制度化についての考察である。
→イリッチは価値の制度化について言いたいのであって、学校は一つの例にすぎない。
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価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしている。
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「必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである」(14頁)
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「私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ」(15頁)
→つまり、イリイチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではない(あくまで2次的な目標であり、イリッチ自身が「書きやすいじゃん!」と感じた好例だったからだろう)。
→先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」である。
→例としてイリイチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」(15頁)も価値の制度化を排することで利益を得られると指摘する。価値の制度化を排す手法は「脱学校か」と同じプロセスなのである。
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「その分析のために、この最初の論文では、学校化されてしまった社会を脱学校化するということはどういうことかを説明しておこう」(15頁)
→ここから、「学校化」された社会の特徴の記述が始まる。
→「学校化」の現代的事例は上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。最近文庫化して、読みやすくなった(イラストは単行本版のほうが面白かった)。
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「教育ばかりでなく現実の社会全体が学校化されてしまっている」(同)
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「学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行うのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、また行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的活動にほかならないとみなすのである」(pp15~16)
→岡村先生の言う〈自分たちが賢くなる〉実践が「信用できない」といわれているのが近代社会だ。フリースクールは、いわば〈自分たちが(制度に頼らないで)賢くなる〉実践である。
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「どこでも、教育だけでなく社会全体の「脱学校化」が必要になっている」(16頁)

●価値の制度化の福祉での事例が登場する。
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「自分の家で人生を始め、かつ終るというのは、貧困かあるいは特別な特権かのどちらかのしるしである。臨終と死は、医師と葬儀屋の制度的な管理のもとに置かれるようになった」(同)
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「貧困者はいつの時代にも社会的に無力だったのであるが、制度的な世話に依存する度合いがしだいに高まってくると、彼らの無力さに新しい要素が加わった。それは、心理的な不能とか、独力でなんとかやりぬく能力を欠くといかいうことである」(17頁)
→制度ができるとそれに依存するようになる。そのため、制度に頼らない者はますます強く、制度に頼らざるを得ない者はますます弱くなる。
→オリで飼われたライオンと、サバンナのライオンの違いである。オリの中で毎食上げ膳・据え膳(ライオンに対しこの言葉を使うのは適切かは分からない)されていると、補食能力を失いライオンとしての能力は弱くなる。人間社会でもそれは同じであろう。一人でなんとか食っていかねばならない戦災孤児(これも死後かな?)はちょっとやそっとじゃへこたれない。進駐軍相手の靴磨きから、窃盗・強盗までなんでもやって生き延びる。けれどひ弱な現代っ子(むろん、この定義に私も入っている)は保護されることになれているため、戦災孤児そのままの状況に追い込まれた時(楳図かずおの『漂流教室』の世界や大三次世界大戦が急に起こったときなど)、はたして生きていけるのだろうか。
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種々の制度によって、貧しい者は制度に頼り切り、ますます弱い立場になる
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そのため、次のような逆説がいえてしまう。
「現在、健康、教育、および福祉を取り扱っている制度への財政支出を止めさえすれば、その制度のもつ副作用―人々を無能にする副作用―から生じる一層の貧困化をくいとめることができるのである」(pp18~19)
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学校では次のような事例となって問題化する。
「一般的に言って、より貧しい生徒は、進級や学習を学校に頼っている限り、より裕福な生徒よりも遅れてしまう。貧民に必要なのは、彼らの学習を可能にする資金であって、彼らに大いに不足していると称される制度的世話を受けるための証明をしてもらうことではない」(22頁)
→制度に頼っていると、人間が弱くなる。制度自体を自らの資本や能力によって用意できる人間は、ますます強くなる。公費により黒人子弟に早期教育をしたことがあった。ヘッドスタート計画だ。けれど、金持ちは就学前児童を私塾に通わせることができてしまうのだ。
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「古典的貧困」のために悩んでいる国はほとんど無くなった。近代の制度(生活保護など)が新たな貧困をもたらす。
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「アメリカにおいても、就学を義務化することによって貧民が平等性を獲得することはない。それどころか、どちらの国においても、学校があるというだけで、貧民は彼ら自身の学習を自らコントロールする勇気をくじかれ、またそれを不能にさせる。というのは、学校は教育を専門に行なう制度と認められているので、学校が教育に失敗すれば、それは、教育が非常に費用のかかるもので、複雑であり、いつでも素人にはわからないもので、しばしば不可能に近い仕事であることの証拠だとたいていの人々に受けとられるのである。
 学校は教育に利用できる資金、人および善意を専有するだけでなく、学校以外の他の社会制度に対しては教育の仕事に手を出すことを思いとどまらせてしまう。労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう。そうして学校も学校に依存する他の制度も、ともに非常に費用のかかるものとなるのである」(25頁)
→よく学校には理不尽な要求が突きつけられる。親がやると「モンスターペアレント」だが、地域が「お宅の生徒さんにはどんな教育をしているのか」と学校に苦情の電話を入れることもある。この地域の人は自分で「家の前でうるさくするな」と言わないで、わざわざ学校に電話をしてくるのだ。
 内田樹は〈制度が整備されすぎていると、個人の努力や善性がなくても済むようになる〉と主張する。たとえば警察のシステムが究極的に発展すると、目の前で人が暴行されているのを見ても「ああ、警察が完璧に対処してくれるから俺には関係ないや」と軽く見逃してしまう(ここでいう話は「価値の制度化」の話でもある)。 
 現在の学校は内田のいうような環境に近づきつつあるのではないか。とりあえず、教育のことは学校に任せよう、という思いが学校への理不尽なほど
の要求へとつながる。イリイチのいう通りの社会に日本はなっているのだ。
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「学校への支出を増やすことは一つの国においても世界的にみても、学校のもつ破壊性を強化する」(27頁)
「学校の拡充は軍備の拡張と同じく破壊的であるが、軍備のそれほどには目立たないのである」(28頁)
→高校のクラスの友人で東京医科歯科大学にいった者がいた。彼に「学費はいくらぐらい?」と聞くと、「年に63万くらい」と答えがかえってきた。私立大の医学部は1000万を軽く超す。早稲田の教育学部は年93万くらい。国立医学部は圧倒的に安いのだ。
 けれど、国立大学の医学部に入るのは長期の受験勉強に耐えられ(医学部は2浪がザラ)、幼少期からのエリート教育が必要であったりする。これを可能にするには自宅に相当な資産がなければならない(昔書いたブログを参照)。
 国立大医学部に入るのは、元から金のある人だ。国立大はそういう「元から金のある人」に公費を用いて安く教育する。医者は相当に儲かる。医療の充実という社会への貢献よりも、個人の利益になるところが大きい。「わざわざ公費を払ってまで、個人の利益につながるところ大である医者を育成することにいかほどの意味があるのか」という疑問がくることがある。
 医者ほどではないだろうが、教育へ費用を多くまわしすぎると、その費用は生徒/学生個人の利益にしかつながらなくなるのだ。
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「教育機会を平等にすることは、たしかに望ましいことでもあり、実現可能な目標でもある。しかしこれを義務教育と同じことだと考えることは、魂の救済と教会とを混同することにも等しいのである」(29頁)
→ここに、フリースクールの出番があるのだ。
→イリッチは革新的なカトリックの司祭である。通常、下のような枠組みになる。
    カトリック プロテスタント
価値A 魂の救済  魂の救済
価値B 教会にいく 聖書
 カトリックの司祭が「魂の救済が大切なのであって、教会に行くことは2次的な意味しかない」というのは非常にプロテスタント的な発言になってしまう。
→さきの価値の制度化の例では、最終目標の価値Aは「教育機会の平等」、価値Aのための手段である価値Bは「義務教育」にあたる。
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「今日われわれは学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)
「学習も正義も、学校教育によって増進されることはない。なぜならば教育者は、教える内容を一つの証明書の中に詰め込むことを主張するからである。
→学校教育は知のパッケージ化を目指す。

追記
●卒論で「価値の制度化」をテーマにしても面白いかもしれない、と思った。
●私の本稿での比喩は、適切なのかを誰かに教えていただきたいものだ。
●〈学校化と教育化を分離することが大切〉と山本哲士はいう。教育は学校以外でもできる方がいい。2つのありかたがあるだろう。
①塾やフリースクールで学ぶ。②社会の中での教育力を増やす。
 ②について、イリッチは本書でこう語っている。
「労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう」(25頁)。
 本来は学校以外の場所に教育があった。それこそ「労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活」の中で教育はあった。その幅広い教育は、学校ができてから忘れ去られていった。特に共同体が消滅しかけている現代ではなおさらである。内田樹が〈完璧な警察があったら、誰も暴力を止めようとしない〉と語っていた、との話を本ブログに書いた。教育もしかりで、「学校があるから、教育は全て学校に任せよう」という思いが人々の中にある。
 再び、社会の中に教育力を取り戻していけば、脱学校化を成し遂げても教育が継続して行われるようになるだろう。
 それついて親友のOと話す中で、「高校のバイト禁止の意義」について話が及んだ。高校生がバイトをするとき、社会のなかで学ぶことになる。ろくに敬語を使えなかった高校生が、マニュアルがあるとはいえ敬語で話せるようになる。時間を守るというエートスも学ぶことができる。労働をする「喜び」を知れるので、ニート対策にもなるかもしれない。けれど、基本的にはバイトを禁止する高校は数多い。バイトを「社会での学び」とするならば、バイト禁止は「社会での学び」に制限をかけることを意味する。
 牧口常三郎という教育学者は半日学校制度を提唱した。学校での学びを効果的に進め、現在の半分の時間(つまり半日で)で学校教育を行い、残りの半日を「社会での学び」に使う、という発想である。単に「社会で学ぼう」「学校外で学ぼう」といっても実現可能性は低い。何故なら時間が考慮されていないからだ。牧口の慧眼は「時間を確保し、自然のうちに社会での学びがもたらされるようにした」という点にある(ちなみに学校のスリム化については上野千鶴子も語っている)。
 Oは感銘を受けていたようであった。

まとめ
●イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎない。

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コメント

  1. 小中春人 より:

    初日、お疲れ様です。
    あらためてこの本を読んでみて、それも二人で読んで、いろいろな発見がありました。
     『教育用語辞典』で「学校」を調べたら、やはりその語源は「閑暇」だと書いてありました。復古的に学校を見直そう、「閑暇」の復権だ、と脱学校論が定義されるなら、なんと奇妙なことでしょうか。。。

    それにしてもブログすごいですね。私もどんどん書いてみようと思います。
    おやすみ!!

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