学校空間は、生徒集団によって自分たちの生活文脈の中に再構成される。学校の各部署の名前は学校側のものと生徒によって命名されたものの間に落差がある。例えば、我が母校の寮では「みどじゅう」という場所が存在した。集会場の前にある、緑色の絨毯のひかれた空間のことをいう。空間と同じく、生徒たちは学校での「時間」も、自分たちの相応しい文脈のもとに「再構成」する。
退屈な授業時間。一斉授業の名の下、聞いても理解しがたい授業が教授される。アニメ『うる星やつら』では担任の温泉先生(♨マーク)はまさに英語の教師であり、退屈な文法の授業を行う。どんなに授業の仕方が下手であろうと、生徒はそれに従わなければならない(評価権は温泉先生にある)。それゆえ、諸星あたるを始めとするキャラクターたちはいかにも退屈そうに彼の授業に「付き合う」。その付き合い方が、授業の「再構成」である。あたるはテキストを目隠しにして「早弁」(ハヤベン)をする。教員が黒板に向かう間に、こっそりと授業を抜け出す。そこまでしなくても、生徒たちはあるいは寝、あるいは「内職」をし、紙将棋もすれば紙飛行機も飛ばし、私語も行う(初期のアニメではラムがあたるに抱きついたまま授業が受けられる)。 彼らにとって教員の語りはBGM。音が強くなるときだけ聞き耳を立てる。
それでも授業は苦痛だ。それゆえ退屈な日常(学校的日常)では「祝祭」が求められ、ラムやその関係者により授業がめちゃくちゃにされることが心待ちにされる(そうでなければ、こんなにトラブルやドタバタしかない学校に通い続ける義理はない)。 「祝祭」性を求めるがゆえに、どんな学校にも「七不思議」などの怪談話が創作される。これらは学校という退屈な日常を、楽しくすごすために作られた物語なのである。ストーリーテラーの周りには、学校的日常に退屈した生徒たちが集まり、耳を傾ける。『平家物語』を語った琵琶法師のような現代版・吟遊詩人なのである。
学校は「学校」として機能しない。それは生徒によって「学校」は再構成され、自分たちに都合のいいものに作り替えられるからである。そのために、教員によって考えられた「学校」観と、生徒によって見られた「学校」観は常に相違するのである。教員にとって「問題」な生徒は、必ずしも問題児ではない。逆もしかりで、教員側からの「優等生」と、生徒にとっての「優等生」は評価観点がずれている。
教員によってなされる授業・提供される学校空間は、生徒にとって過ごしやすい必然性はない。それゆえ、生徒たちは適当に遊び、「内職」し、「祝祭」性を求める中で学校的日常をやり過ごし、卒業して行くのだ。それが悪いとはいえない。だいたい、中高生にとっての学校の「思い出」の大部分は友人関係や部活動に集約される。そしてこの二つにはあまり教員側の意図が入り込まないのだ(学習指導要領では「友人関係」も「部活動」も規定はない)。
追記
●私語や手紙回し、早弁によって再構成された授業。再構成でもしなければ苦痛で仕方がない時間。生徒にとって授業を受けることは、いわば「労働」なのである。では、ボーッと過ごされた時間・机の上でなんとなくやり過ごした学校での時間は、生徒の生育史のうえにおいて「役立った」と言えるのであろうか? 内田樹も『下流志向』で「不快貨幣」の話を出している。