社会学

樫村愛子(2009):『臨床社会学ならこう考える 生き延びるための理論と実践』、青土社。

・恒常性/再帰性というキーワードについて。
「精神分析が示しているのは、再帰性そのものが恒常性に常に依存しているということであり、恒常性を食いつぶしてしまえば、再帰性そのものが破綻してしまう。(…)それゆえネオリベ批判において、精神分析が掲げる、恒常性の必要性ついての議論が欠かせない。しかし一方、再帰性はギデンズの言うように近代の条件であり、セラピーも再帰的主体の契約によって行われるものであるので、再帰性という問題圏は外すことはできない。恒常性の復活(藤本注 これが新保守主義など)や手直しのために再帰性がむやみに抑圧される方法はよいわけではない。(…)それゆえ、再帰性と恒常性の関係をどう構成していくかが重要な課題となる」(21-22)

「ドラッグは少し前まで若者にとってマイナーな存在であった。しかし現在のフランスでは若者に広く浸透している。2002年の調査では、17-18歳の若者全体の50.9%がcannabis(大麻)の経験がある。teuf(注 フランスのメディア社会学者ダニョが調査した、飲んで騒ぐという若者の文化の隠語)では、みんながいろいろな酒やドラッグを試していて、比較的(注 「に」を入れた方がいいと思われる)その特質を語るのが議論の大きなテーマとなっている」(218)

・1910年代のアメリカにおける「教育の現代化」改革について。
「学校は企業と比較され教育者は「組織人」とみなされる。「学級運営」という発想はここから生まれ「教育管理」は教育の効率性の評価のために評価の数値化を要請する。アメリカの心理学者たち(ビネー等)が知能テストや学力評価尺度を開発していったのはこのような歴史的背景のもとでである」(287)

「デューイ的公共哲学観に依拠するジルー(1992)は、公共性を他者に対する積極的な関与を意味するものと考えるが、ここでさらに現代的状況からいえば公共性は社会が個人化し社会が解体する時代において個人と社会の間の「mediation(媒介領域)」として設定することができるだろう。「mediation(媒介領域)」とはその中での自由なやりとりや思考錯誤を可能にするものであり、現実との関係をいったん留保しながらそれを考察し作っていく、先の幻想空間でもある」(294)

「文化がmediationの場となり社会的介入が個別的になされるような社会とは基本的に一定の水準以上の再帰的な個人(次に見る「人間資本」)を前提としているわけであり、その水準に満たない人々にはますます無意識的欲望の暴走とその困難が予想されるだろう」(301)

テキスト論で読む小説『エミール』

テキスト論で読む小説『エミール』

 ルソーの書いた教育小説『エミール』は、終始エミール少年の家庭教師の目線から書かれた物語である。これを一種の教育実践記録として読むとどのような読解が可能かを少し試みたい。
本書『エミール』では教員のみが語ることを許され、エミールの発言は教員によって記録されたもののみが残る。エミールには自由に発言することが許されなかった(発言してもどうせ教員の選んだ言葉・教員がきれいに解釈した言葉しか残らない)。小説内には掲載されていないだけで、実際のエミールは教員に相当反発をしていたのだと考えられる。小説『エミール』の世界では、教員が生殺与奪の権を持っている(窓ガラスを割ったエミールが凍える寸前までいくことからして、文字通りの意味を持つ)。教員の想定したルートを通らない限り、エミールは記録されることも物語ることもできない(消極教育を謳った小説『エミール』内の実践が、実は教員のこまかな計画のもとに行われていたとの指摘はかねてより多く存在する)。教員の教育計画上の予想通りに行かない場合、小説内では教員の失敗ではなく、エミール自身の失敗として処理される。
考えてみれば、小説『エミール』の成立する環境自身、異常なものである。エミールは田舎の一軒家に、両親から切り離され、尊敬を要求してくる教員と、二人だけの生活を幼少のころから押し付けられてきた。教員が幼児性愛者・同性愛者であった場合、エミールは記録されないが数知れない虐待を受けていた可能性が考えられる。教員が仮に変態性愛者であると考えた場合、小説『エミール』の持つ意味は変わってくる。エミールへの性的虐待の疑いをかけられた(実際に虐待しているかもしれないが)教員が、自分の正当化(言い訳)のためにエミールとの「関係」を美しく整理・記録・公刊した実践記録であった可能性が出て来るのだ。
ブルジョア家庭しか家庭教師を雇えない時代に、エミールは幼少時より家庭教師を付けられて育った。実家は相当な財力を持っているわけだ。しかし教員の教育の成果は、エミールを手工業者に変えただけであった。実家を継ぐという話も、「帝王学」を学ぶという話もいっさいなく、小説後半では両親・実家の姿が完全に消えていく。両親も実家も健在である場合、(a)エミールが教師にさらわれたと考えることも、(b)エミールが教員になつき実家を捨てたと考えることもできる。が、(a)・(b)両方とも我々の眼には不幸な出来事して読み取ることができる。家庭教師の自己認識的には最高の教育をおこなったはずであった。泥棒から貴族まで、教え子が望む生き方ができるようにする教育を、教員がエミールに与えたはずであった。その結果が自営業の手工業者とは、なんともお粗末な実践であったと言わざるを得ないのではないか。

実は『エミール』には続編が執筆されている。続編の『エミール』は教員ではなくエミール目線から書かれた書簡形式の小説である。恋人ソフィーとの苦い別れと教員への一応の感謝が述べられている。先ほどの実家との関係は、やはり文書として登場してこない。形式上、文書中ではエミールはこの書簡を出すかもしれないし、出さないかもしれないと留保して記録している。
この書簡をエミール少年自身が書いたと見る場合、①手紙を元教員に届け、元教員が公表したという見方と、②エミールは元教員に書簡を出さなかったが内容を公開した場合の2つのケースが想定される(読者の目に私的な書簡がさらされているということは、誰かが何らかの意図を持って公刊したというわけだ)。①の場合、書簡中の教員への賛辞は文字通りの意味をもつ。純粋にエミールは教員に感謝しているのだ。本書簡を読者が読めるのは当然①か②の手法によりどこかに公開されたためであるが、①の場合は教員の教育実践の最終的成功を暗示する内容になっている。
②の場合、話は逆になる。エミールは確かに教員に手紙を書いたのだが、教員に届けることを選らばなかった。教員への感謝の念も記された本書簡を届けたくはなかったのだ。けれど本書簡は公開され、読者は『ルソー全集』に収録されたものを目にすることができる。とすれば教員への感謝の念は本物ではなく、あくまで儀礼的に書いたものであるという読み方ができる。わざわざ本書簡を公開するということは、教員に届けるつもりではなく、形式的に書かれた教員への賛辞を世に示すことで結果的に家庭教師の教育実践の最終的失敗を示しているのである。エミールの復讐ともいえる。先に挙げたようにエミールが性的虐待を受けていた場合、教員への異議申し立ての意味合いがあったのだ。

補足

無論、これを矢野智司の「贈与」枠組みで説明することも可能であろう。「私」ことエミール自身が家庭教師の教育=贈与をあえて否定することで、自己の生き方を構築するという意志のあらわれを見てとることができるからだ(むしろ石原千秋の『こころ 大人になれなかった先生』の図式に近い)。

あるいは私はルソーの専門ではないのでわからないが、あまり有名でない『エミール』続編をルソーが実は公刊せず、手元に原稿として残っていたものを後世の研究者が整理して発刊したのかもしれない。その場合、積極的意図なしでエミールの書簡が公表されたという結果となる。その場合、①と②の図式が崩れてしまうことは言うまでもない。

授業中の内職の持つ意味 軽い考察

 Second bestとしての内職。授業中に「内職」によって学習を行うということは、自習室で学ぶよりも恐らく困難な行為であると考えられる。内職に関するアンケート調査より、教員に隠れて行われる内職が多く存在することが読み取れるためだ。人間の集中する能力から考えると、内職は一人で学習するよりも困難になる。
 しかし、内職は現になされている。教室から出て行き、別の場所で学習をする選択はあまり取られていない。それは内職という次善の策で納得/満足するようになっているからだ。竹内の図式で言うと縮小cooling-downになる。
 内職は自発的にやるものであると言うことは、アテネ(2001)に現れている。授業が自分に役に立たないと認識される場合、授業時間と授業空間を有効に活用するために生徒は内職を行う。これは自発的である分、自らが選択したことになり次善の策であっても納得をせざるを得なくなる。次善を選ぶという縮小作用は能動性が伴うからこそ冷却となるのである。なお、この図式は竹内洋が『選抜社会』で記録した内容でもある。納得の構造が内職において成立していると言える。
 生徒が内職を行っても、ゴフマンがいうように最低限の敬意を表していることは否めない。生徒にとってはあくまで授業を乗り越えるため・受験勉強を行うためという選択になるが、教員にとっても内職をされることで少なくとも教授行為自体は成立した構図が維持される。また、受験勉強を進めることになるため学校側も進学実績を入手することができる。内職は教員ー生徒双方に有効な戦略であったのである。

若林幹夫(1995):『地図の想像力』、講談社選書メチエ。

若林幹夫(1995):『地図の想像力』、講談社選書メチエ。

 地図が「発明」されたとき、人間の認識能力は大きく変わったのだろう。それは今ある世界が記号化=情報化されることであるからだ。空間を平面上に再現する営み。地図を持ち歩くとき、空間も持ち歩くことになる。本書を読み、そのようなことを考えた。
 地図という「客観的」に見えるメディアには、共同幻想が見せる恣意的なメッセージを伝える働きが存在している。

●序 帝国の地図

●第一章 社会の可視化

「地図という表現は、人間の歴史の中で様々な時代に、様々な場所で独自に「発明」されてきた。地図を作り、利用することは、人間の社会に相当に普遍的に見られる現象なのである。」(28)

「環境に対して自身が疎遠な「他者」であったり、ある環境に関する情報をその環境を知らない「他者」に伝達しようとする時に、地図的空間は現れるのである。」(38)
→地図を見るときは環境に対して自身が「他者」であるとき。馴染みの空間は「自己」になっている。いわば空間からの「疎外」を回復するために地図が必要とされるわけだ。

「重要なことは、地図という表現がそのような想像的な視点による空間の像を、実際に目に見える形で表現すること、したがって人びとは地図を媒介にしてこの想像的な視点から見た空間の像を、実際に取りうる視点から見た像であるかのごとき経験をするということだ。この意味で、地図的な視点が人間の経験に代補する世界の全域的なリアリティもまた、想像的であり、超越的である。」(42)
→ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』にも、国家の可視化という意味合いで地図が出ていた。

「そのようにして社会が可視化される時、「社会」という存在が湛えるリアリティは、個々の人間の個別的・局所的な経験を超えた超越的で想像的な位相、それゆえ他者と共有され伝達されることの可能な位相を内包している。地図を描き、それを通じて世界を見るという営みは、人間がけっして見晴らすことのできない世界の全域的なあり方を可視化する一つの方法、世界の空間的なあり方に関してそれを可視化し、了解し、その中に自己と他者とを位置づけようとする営みなのである。」(45)

「「科学的」で「客観的」な地図の存在を支えている「科学」や「客観」も、それが世界を記述し理解するための記号による意味の体系であるという点では「神話」や「主観」と変わりがないのだ。」(53)

「地図とは世界に関するテクストである」(54)

「社会や世界の全域的な広がりについて語り、思考する時、私たちはあたかも地図を見るかのようにしてそれを対象化し、思考し、言語化しているのである。」(59)

●第二章 拡張される世界

「帝国や文明圏という存在も、それらが地理的領域を覆うという事態も、結局のところ想像的な全域に関わる事柄としてのみ個々の人びとの了解の中に現れてくるということだ。そこでは、帝国や文明の地理的広がりは、そのような地理的広がりを概念・イメージとして生産し、流通させ、受け入れてゆく社会的な営みと相関することによってはじめて「真実」としての資格を得る。/言いかえれば、帝国や文明という社会は、そのような概念・イメージと相関し、それを支えうるシステムとして貢納や徴税、用役や教育、行政文書や経典等の関係や実践、地の体系を作り上げ、その中で帝国や文明に関するイメージを再生産してゆくのである。」(96)

「貨幣と測量とは、社会の構成要素を単一の指標によって通約的に把握し、それによって社会的な諸関係を交換可能な量からなるものとして組織するという、同一の精神を体現しているのである。」(104)

「測量する視点とはいわば「権力の眼」なのであり、この眼を通じて土地と社会との関係が「数量」として客体化され、客観化されて、一義的に確定されてゆくのである。」(106)

●第三章 近代的世界の「発見」

●第四章 国土の製作と国民の創出

●終章 地図としての社会 地図を超える社会

「近代的地図が「世界」として描き出す範域の拡張と正確な測定、そしてそれらの範域の領域国家による属領化は、領域的な主権国家と資本主義、そして近代的な科学技術という近代的な社会を支えるシステムの地球的な規模での展開と対応していた。それは、特定の様式をもった知、生産と流通、統治権力、およびそれに相関する身体技術や時間システム等の社会的諸関係を秩序づける諸様式の地球的な規模での普遍化=世界化、私たちが「近代」と呼ぶ社会の普遍化=世界化と対応していたのである。」(212)

●あとがき
「地図の歴史や文化史、地図的な表現をめぐる考察等を読んでいるうちに、「社会」と「空間」についてだけでなく、「社会という経験」そのものについても、地図という表現を触媒にして考えることができるのではないかという気がしてきたのである。」(255)

ピエール・ブルデュー(1977):原山哲訳『資本主義のハビトゥス』、藤原書店、1993。

 貨幣文化が導入・普及する等、「資本主義のハビトゥス」が人びとに共有されるようになる様子を、アルジュリアでのエスノグラフィーをもとにしてブルデューが描く書。「貨幣」制度が入ることで文化が貧しくなる傾向があるということをアルジュリアの例を通して語っているように見える。バタイユの「蕩尽」や「贈与」の議論を思いだす(『呪われた部分』)。実際、ブルデューは「反対給付」などの言葉を使っている。これ、バタイユが先かブルデューが先か…。まあ、どちらもモースの『贈与論』を元にしている点では同じである。

●序論 構造とハビトゥス

「経済的行為の主体は、ホモ・エコノミカスではなく、現実の人間なのであるが、その現実の人間は経済によってつくられているのである。」(11)

●第一章 単純再生産と周期的時間

 貨幣文化の普及により「人々は、それ自体では、なんの喜びももたらさない記号について、考えるようになるのだ。」(29)。つまり、貨幣という記号をありがたがるハビトゥスが形成されるのである。
 このハビトゥスは「時間」概念も変化させる。「前資本主義的経済が要請する時間の経験の特殊性は、つぎの点にある。つまり、その時間の経験は、いくつかのなかの選択された、ある一つの可能性として提示されるのではなく、その経済によって、唯一可能なものとして課せられるものなのである。」(36)。
 また「公平」の感覚も、資本主義のハビトゥスが入る以前と以後とでは変わってくる、とも指摘している。
 

「農民は、厳密な意味では、労働することはしない。彼は、労苦にたずさわるのだ。」(47)
「労働は、本来、目的ではないし、それ自体、徳であるわけでもない。価値あるとされているのは、経済的目的に志向した行為ではなく、活動そのもので、それが、経済的機能から独立し、社会的機能をもつかぎりにおいてなのである。」(48)

「時間的継起の組織化の原則は、性による分業を決定する原則と同じである」(54)
→イリイチのシャドウ・ワークの根拠でもある。

●第二章 矛盾する必然性と両義的行動

(ダニエル・ラーナーからの引用)
「近代社会によって発展する行動のモデルは、感情移入、すなわち、他者に応じて自己のシステム(self-system)をすばやく再組織する能力によって特徴づけられる。伝統的社会の孤立した共同体が、非常に拘束的なパーソナリティに基づいて機能していたのにたいして、近代社会の諸部分が相互依存しあう事態は、広範囲の参加を要求し、このような参加は、開放的で、適応的な自己のシステム、つまり、新たな役割を取り込み、個人的な価値を公共的な問題に一致させることができる自己のシステムを必要とする。このこと故に、社会の近代化は、われわれが心理的流動性とよぶ大きな心理的変化にかかわっていた。」(61)

「見せかけの仕事」(75)。それは「農民社会のように、その成員に労働を与える義務をそなえた社会、そして生産的ないしは営利的な労働を知らず、同時に、労働の稀少性も知らず、失業の意識もない社会、そういった社会では、なにかしたいと思う者には、つねにすべきことがあると考えられていて、また、労働は社会的義務とみなされ、怠惰は道徳的過失とみなされているのである。」(75)。貨幣経済が導入されると、前資本主義的ハビトゥスである「見せかけの仕事」を行う元農民が多く表れてくる。これが人びとの貧困・搾取にもつながってくる。
また、貨幣経済が浸透すると、前資本主義的な家族のあり方が崩れて来る点をブルデューは指摘する。
「測定でき、通訳できる貨幣収入の多様な道の出現は、家族の分裂の可能性をはらんでおり、家長の権威はおびやかされるのである。というのは、他の成員の服従は、衰退するのをやめず、各々の成員は、収入の自分の取り分を主張するようになるからである。」(81)。その結果、「大部分の場合、出費を取り決めたり、その他あらゆることを命令するという、家長の無条件的な権威は、終わりを遂げている。」(85)のである。
 このことは各人の自由の増大を保障することになるが、その反面「家族」や「一族」のあり方が変遷せざるを得なくなる。

●第三章 主観的願望と客観的チャンス

「下層プロレタリアは、教育や職業的資格の欠如―それらの欠如は、同時に、彼らの存在の欠如でもある―の責任が、また、システムにもあるのだという意識に到達することはないのである。」(107)

「要するに、完璧な疎外は、疎外の意識さえも抑止してしまうのだ。」(108)

「常勤の仕事と、規則的な給与が与えられてこそ、開かれた、合理的な時間についての意識が生まれるのである。行為、判断、願望は、生活設計とともに、組織化されるようになるのである。そうなってはじめて、革命的態度が、夢への逃避や、宿命論的なあきらめに取って代わるようになるのだ。」(109)

●第四章 経済的性向の変化のための経済的条件

「最下層の人々は、安定した職業、より厳密に言えば、きまった職業、および、それに到達するのに不可欠な職業的資格と学歴を願望しているのだ、ということを理解しなければならない。守衛、夜警、通信連絡係、監視人といった仕事は、彼らにとっては、「夢の職業」である。というのは、それらは、つらい仕事ではないし、また、学歴、職業教育、資本がなくても得られる仕事のなかで、最も確実な仕事であるからだ。」(123-124)

「よく言われるように、未来を持つ者は、未来を支配しようと企図出来る者なのだ。」(128)

・148頁あたりで述べられている、スラムからアパルトマンに移る話は、「都市化」をめぐる社会学の議論と同様の構図である。「スラム街の生き生きとした雰囲気は、集合住宅地の表面的で断片的な人間関係に取って代わる」(148)等のように。イリイチの「コモンズの消滅」をめぐる議論を思い起こす。
 都市的住居は費用がかかる。そのため「近代的住居は、近代的生活を可能にするものであるはずが、逆説的にも、近代的な生活に参画することに対する障害となるのである。」(140)

●結論 意識と無意識

「つまり、彼ら下層プロレタリアは、状況の真実を知らないが、その真実を実践しているのであり、言い換えれば、実践することにおいてのみ、その真実を語るのである。」(155)
→無自覚的な実践(プラチック)が構造を支え、再生産させる。

「そして、現在の状況に対する反逆が合理的で明示的な目的に方向づけれられるようになるには、目的についての合理的意識の形成のための経済的条件がなければならない。つまり、現在の秩序が、それ自体、自らの秩序の消滅の可能性を備えており、その秩序の消滅を企図することの出来る行為主体を生産しなければならないのである。」(157)

●縦走する社会学的実践 訳者解説にかえて

ブルデュー「伝統的な民俗学の方法は、充分なものではなかったので、私は、統計的手法と民俗学的方法とを、組み合わせて、研究しようとしたわけです。」(173)

その他雑記
・本書はやたら句点が入る。「訳者解説」の部分も、不必要な場所でくどいほど句点が入る。『日本語の作文技法』が必要だと思った。

・アルジェリアにすむ下層プロレタリアートの生活世界を事細かに描き、なおかつ統計的手法も用いるブルデューの研究の鮮やかさを見習いたい。

追記

 夢を見るのは子どもと〈現実的な夢を見られない〉大人のためのものであるようだ。本書ではアルジェリアの下層プロレタリアートが〈自分の子どもは弁護士か医者にしたい〉という「呪術的な願望」をしている旨が描かれている。「呪術的な願望は、未来をもたぬ人々に固有の未来なのだ。」(121)。この皮肉さが印象に残った。

藤田英典(1998):志水宏吉編著『教育のエスノグラフィー』、嵯峨野書院。

p54現象学的エスノグラフィー
「後期フッサールやA・シュッツが説いたように、〈生活世界〉は日常生活者によって意味付与され、枠付けられて展開しているのであるから、その意味付与的な行為とその行為を通じて構築され展開している間主観的な意味世界を記述し考察すると言う意味である。また、P・ブルデューの見方によれば、社会は生活者のハビトゥス(行動産出原理としての身体化された心性)によって意味付与され、構造化されており、その構造は実践(慣習的・戦略的行動)のなかに顕現し、かつ、実践を枠付けているのであるから、その実践の展開過程を記述し考察することにより文化社会・生活世界やそこでの諸活動の特徴(構造・機能・意味・性質)を明らかにするというのが、ここでいう現象学的アプローチである。」

真木悠介(1977):『気流の鳴る音 交響するコミューン』、筑摩書房。

 70年代的思想の影響が如実に現れている本。当時はコミューンや疎外論が恐ろしく力を持っていた。時代が生んだ本と言えるが、当時を知らない私としてはかえって新鮮さを覚える本であった。

「「世界」と〈世界〉のちがいについては、それ自体本文の全体を前提するので、あらかじめ正確に記述することはできない。とりあえずこうのべておこう。われわれは「世界」の中に生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。「世界」はいわば、〈世界〉そのものの中にうかぶ島のようなものだ。けれどもこの島の中には、〈世界〉の中のあらゆる項目をとりこむことができる。夜露が満点の星を宿すように、「世界」は〈世界〉のすべてを映す。」(31-32)

「目の世界が唯一の「客観的な」世界であるという偏見が、われわれの世界にあるからだ。われわれの文明はまずなによりも目の文明、目に依存する文明だ。」(82)
「重要なのは見ないことではなく、目に疎外されないことだ。」(85)

 カスタネダという老人の教え
「人間が暗闇の中で走りたくなるのは、必ずしも恐怖に駆られてではなく、「しないこと」を知ってよろこびにわいている身体の、きわめて自然な反応でもありうるのだと言う。」(89)

Bourdieu, Pierre/Wacquant,Loïc.J.D(2007):水島和則訳『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』、藤原書店、2007。

 ブルデュー思想を、ロイック・ヴァカンが整理・編集した著作集。読書上のメモの抜粋集としてここに記す。

第Ⅰ部 社会的実践の理論に向けて(ロイック・ヴァカン) 

「ブルデューは方法論的一元論のあらゆる形態、構造もしくは行為主体、システムもしくは行為者、集団もしくは個人のいずれかに存在論的優先性を主張する考え方に反対し、関係というものの優先性を主張する。彼によれば、二項対立のどちらかを選ばせる考え方は社会的リアリティについての常識レベルの見方を反映しており、社会学はそうした見方を取り除かなければならない。」(34)

36頁より:「ハビトゥスと界がこれら諸関係の結び目を示す鍵概念である」

「ハビトゥスは構造を形成するメカニズムであり、行為者の内側から作用する。」(38)

「「実践感覚」はあらかじめ知っている。つまり、現在の状態のなかに、界がはらんでいる未来の状態を読み取る。過去、現在と未来はハビトゥスのなかでお互いに交叉し、相互浸透しているからである。」(43)

*「実践感覚」と書いた後、[勘]と記述されている箇所があった。実戦感覚、つまりハビトゥスは「勘」ということであるのかと気づいた。

「グラムシがすでに理解していたように、科学こそまさに、きわめて政治的な活動なのである。」(78)

「社会学の使命は、行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その「必然性を示す」ことであり、それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き離すことである。」(81)

「ブルデューにとって、真の知識人は時の権力、経済的ならびに政治的権力の介入から独立していることによって定義される。」(90)

*アメリカのダウンタウンのボクシングジムの事例を出すヴァカン。このあたりは、彼のエスノメソドロジー実践を示している。

「結論としていえば、それが示唆しているのはブルデューの社会学が彼がこの言葉に与えた意味でのひとつの政治として読まれるべきだということだ。つまり、われわれを構築したものの見方を変える企てとしてである。それゆえに社会学は、合理的に、そして人間的に、社会学を、社会を、そして究極的にはわれわれの自己を形づくることができるのだ。」(93)

第Ⅱ部 リフレキスヴ・ソシオロジーの目的(ヴァカンの質問にブルデューが答える)

「あらゆる社会学は歴史学的であり、あらゆる歴史学は社会学的であるべきなんです。事実、私の提案している界の理論の機能のひとつは、再生産と変動、静態と動態、あるいは構造と歴史の間の対立を消滅させることです。」(124)

「界という観点から考えるということは、関係論的に考えるということです。」(130)
「ヘーゲルの有名な言葉をもじって、実在するものは関係であるといってもいいでしょうね。社会学的世界の中に存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように「個人の意識や意志からは独立して」存在する客観的諸関係なのです。」(131)

「界の概念の主な利点は、それぞれの界について、境界は何か、他の界とどのように「接合」されているのか、といった点をつねに自問するよう強いることです。それは実証主義的経験主義の理論不在に陥ることではなりません。現実に対して立てられる、繰り返し立ち戻ってくる問いの体系を扱うということです。」(147)

「ハビトゥスとは知覚図式、評価図式、行為図式の体系、持続が可能で組み替えの可能な体系ですが、この体系は社会的なるものが身体(あるいは生物学的個体)のなかに成立した結果です。界は、さまざまな客観的関係からなる体系ですが、この体系は社会的なるものが、物のなかに、あるいは物理的対象とほぼ同じリアリティを有するメカニズムのなかに成立した産物です。さらにはいうまでもなく、社会科学の対象はこの[リアリティと界との]関係から生まれたものすべて、すなわち社会的実践や表象、あるいはそれらが知覚され評価されるリアリティの形態として現れたものである界をも含みます。」(168)

「ハビトゥスは特定の状況とのかかわりのなかでしか現れません。」(177)

「私の研究活動においては、もっとも重要だと私が考える理論的アイディアを見つけだしたのも、聞き取り調査を実施したり質問票の集計をしたりすることによってだったのです。」(208)

「保護されていた結婚制度から「自由交換」への移行は犠牲をつくり出します。」(214)
→現在の「婚活」の発想を、ブルデューは1989年の時点で指摘していた。

「社会学者とは、街頭に出かけていって誰にでもインタビューをし、人々の話に耳を傾け人々から学ぼうとする人たちです。これはソクラテスがいつもやっていたことです。」(256)

*第Ⅱ部ではブルデューのハビトゥスや界の概念がいかに安易に解釈され、誤解されてきたかを示している。そして、その誤解を訂正する内容のやり取りが多く行われている。

第Ⅲ部 リフレクシヴ・ソシオロジーの実践

「私がみなさんに教え込みたいと願っている姿勢のなかに、研究を合理的計画としてとらえる能力があります。研究を一種の神秘的な探究として大げさに語るのは、自分を安心させるためなのでしょうが、逆に恐れや不安を大きくするだけです。研究を合理的な企てとみる現実主義の姿勢は(…)はるかに深い失望を味わうことのないよう身を守るための、おそらくは最良の方法であり唯一の方法なのです。」(271-272)
→だからこそ「研究者が淡々と自分の仕事をこなしていく」ことを否定的にみないのが重要である。ウェーバーの『職業としての学問』にあった「日々の仕事(ザッヘ)へ帰れ」も、要するに淡々と研究することであろう。

「他のどんな思想家以上に社会学者にとっては、自分自身の思考を思考されざる状態に放置しておけば、自分が考えているつもりの当の対象に道具として使えてしまうことになるのです。」(293)
→これはマンハイムの「存在の被拘束性」ということとしても説明できる。また、ウェーバーの「客観性」論文も、同様の内容である。研究者自身の認識枠組みやハビトゥス・界に自覚的であることが必要だと名高い社会学者たちは語っているといえる。

訳者あとがき

「相手を対象化しようとうる動機(社会学に惹かれる人間につきまとう動機)それ自体が当人に自覚されない限り、人は相手について語っているつもりでつねに自分について、あるいはその相手と自分との関係について語ってしまう、という洞察に立脚するものだったのである。」(338)

「誤解を恐れずにいえばブルデューの学問的営為を「異文化体験の現象学」と形容できるのではないだろうか。ここで「現象学」という言葉は、本書で用いられる客観主義と対置されている主観主義という意味ではなく、志向性という概念を軸に「知る者―知られる者」のあいだにある「関係」を考察の焦点とするという本来の意味で用いている。」(339)

*本書冒頭ではヴァカンが「この本にはブルデューの著書のダイジェストでもなければ、ブルデューの社会学の体系的解説もふくまれていない」(10)と断わりを述べている。しかし、結果的に本書がブルデュー入門になっているのは興味深い点である。また、ブルデューの学問観や学者に求める姿勢が非常に参考になる。

*本書は竹内洋『社会学の名著30』のトリを飾るものである。

シャドウ・ワークと冷却作用Cooling-Out(ゴフマン)の連結について。

 人びとが現在の体制を支える形で行う他律労働。それがシャドウ・ワーク(イリイチ)である。これが学歴社会と繋がった際、竹内洋がいう形の冷却作用が成立するのではないか。
 『臨床社会学のすすめ』で大村英昭がいうように、「鎮欲のエートス」(大村2000 :231)が冷却作用にはある。これはイリイチのいうシャドウ・ワークの一つの形ではないか。
 どちらも人を他律的に働きかけるという共通点がある。
 この構造を一体化させられればなかなか興味深い気がするが、さてどうしようか。

PISAの調査結果報道から見えてくること  ~各紙社説の検討から~

0、目次

 本稿は以下のように構成されている。

1、はじめに
2、「社説」から見えてくること
2.1. PISA調査の重要度認識の違い
2.2. 内容の検討
3、調査結果の社説報道の問題点
3.1.教育問題の「格差」性への各社の認識
3.2.教育問題を煽る社説
3.3. 他のアジア諸国への言及
3.4. 社説の最終部分の記述
4、日本の義務教育の内容・方法について、今後改善すべき課題ないし改善策
4.1. 教育問題の「格差」性への検討
4.2. 教育目標の検討
4.3. 教員の自己教育力の養成
5、終わりに
6、参考文献

1、 はじめに

 PISAの調査結果をもとに日本の義務教育の内容・方法について考察を行うのが本稿のテーマである。そのために、まずはPISAを巡るマスメディアの言説を探る点から行っていく。
 本稿では各紙に掲載されたPISA2009年調査の結果を受けての「社説」の内容の検討を行う。対象となるのは全国紙5紙(読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日経新聞)に地方紙1紙(東京新聞)の朝刊である。なお、本稿では各紙を略称で扱うものとする。
 図表1に、検討する社説の掲載日とタイトルをまとめている。

図表1 検討する新聞社説と掲載日の一覧

新聞名 掲載日 社説タイトル
読売 12月9日 国際学力調査 応用力を鍛えて向上めざせ
朝日 12月8日 国際学力調査 根づいたか「未来型学力」
毎日 12月8日 国際学力テスト 向上の流れを確かに
産経 12月9日 国際学力調査 「8位」で手綱を緩めるな
日経 12月8日 「考える力」をどう育てるか
東京 12月9日 国際学力調査 順位に一喜一憂ではなく

2、「社説」から見えてくること 

2.1. PISA調査の重要度認識の違い

図表1をみると、PISA関連の社説の掲載日には2010年12月8日のグループ(朝日・毎日・日経)と9日のグループ(読売・産経・東京)の2つがあることが分かる。
12月9日にPISAに関する社説を掲載した読売・産経・東京も、8日の1面にはPISAの記事を掲載している 。1面に掲載するほど重要であると認識されたPISA調査について、社説で取り扱うのが9日になった理由は一体何であるか。それは、12月8日の社説においてPISAよりも重要だと認識される内容を、社説で取り扱う必要があったためであると考察できる。図表2に12月8日の各紙の社説をまとめている。

図表2 各紙の12/8の社説

新聞名 上段/下段
読売 日米韓外相会談 中国と連携し対北圧力強めよ/諫早湾開拓訴訟 「開門」命令が問う政治の責任
産経 民社「復縁」 数合わせで国益害するな/日米韓外相会談 連携して対中圧力強化を
東京 菅内閣半年 課題に挑む気迫感じぬ/日米韓外相会談 中国も北の暴走止めよ
朝日 朝鮮半島 外交で打開する以外ない/国際学力調査 根づいたか「未来型学力」
毎日 日米韓外相会談 中国は「北」説得に動け/国際学力テスト 向上の流れを確かに
日経 中国は北朝鮮の蛮行封じ込めへ行動を/「考える力」をどう育てるか
斜体はPISAに関する社説である。

 各紙社説に日米韓外相会談に関する社説が掲載されている点は6紙共通の特徴である。2枠ある社説欄のもう1欄において、読売・産経・東京はPISAではなく「諫早湾開拓訴訟」(読売)・「民社『復縁』」(産経)・「菅内閣半年」(東京)と、いずれも政治面、特に政府批判の内容を掲載している。朝日・毎日・日経のように8日にPISAの社説を掲載しなかったのは、読売・産経・東京が政府批判の文脈が強いためであると考察できる。つまり、PISA調査よりも政府批判の社説掲載のほうを優先したと考えられる。
 今回のPISA調査結果において、日本の子どもの学力が改善したと報道をされている。読売・産経・東京にとっては現政府の政策の取り組みを肯定する評価を下すことになる。そのためあえて社説発表を9日にずらした可能性を考察することができる。
 実際、読売・産経・東京のPISAに関する社説では、民主党政権への批判が取り上げられている。読売は全国学力テストが「PISAと同じ応用力を問う問題が出される」意味合いで有効と述べたのち、「民主党政権はコスト削減を理由に抽出方式に変えたが、全員参加方式に戻すべきだ」と記述している。産経は「民主党政権は学力テスト方式を全員参加から一部参加に変えた。『競争』から目をそらしている。教育の成果を適切に評価する取り組み姿勢に欠ける」と言及。東京は「国を挙げての〝受験対策″が軌道に乗り始めただけだ」と指摘する。いずれも現政府への批判となっている。一方、朝日・毎日・日経では政府批判の内容は掲載されていなかった。
 政治的色合いのもとで、各紙はPISA調査に関する内容を報道していることが見て取ることができる。
 なお、産経・読売については筆者の想定する「ストーリー」を述べたいと思う。一般的に保守的とされる産経・読売は、今回のPISA調査で日本の順位が上がったことを真っ先に報道したいと考える。いわば「国益」とも言えることだからだ。しかし、現状は「民主党政権」である。素直に日本の順位が上がったことを述べてしまうと、現政府に花を持たせることになる。そのためにあえて12月8日に現政府批判の社説を掲載し、翌日にPISA調査に関する社説を出したのではないか。その際も、「民主党政権」への批判を書くことを怠らずに行うことで自社のスタンスに反しないようにしているのである。

2.2. 内容の検討

 朝日の社説では「日本の子が苦手とされてきた「読解力」の分野で、国別順位が改善した」ことを述べたのち、「だが、21世紀を生き抜くための力が日本の子どもたちに備わってきたと、本当に喜んでよいのだろうか」と指摘する。「言葉という道具を駆使して他人と交わり、考えを深め、社会に役立ててゆくような力強さはまだまだ。そんな日本の子の姿が浮かぶ」とまとめた後、「朝読書」などの事例を述べている。しかし全体として何が言いたいのか不明瞭になっている。
 日本の新聞メディアにおいて、今回のPISAの調査結果を「改善」と見る動きが強い。しかし、「社説」では記者がいろいろ「本当に喜んでよいだろうか」(朝日)などと教育内容を煽る。その割に記者が提案するのは「朝読書」(朝日・東京が言及)のなかで「感想を話し合い、違う意見もとりいれて発表する」(朝日)など、教育学プロパーから見て低レベルな内容でしかない。
 新聞記者の視点にはリテラシー能力向上の「手法」は「朝読書」くらいしか入っていない点に注意をしたい。
 教育行政全体の変革を述べていたのは毎日と日経のみである。毎日は「状況を大きく前進させるには入試改革が不可欠だ。思考や表現を重視する授業を普及させるには高校、大学が手間をかけた試験を避けてはならない。暗記知識の多寡でコンピューター処理をするような試験は、PISA型学力からは最も遠い」とまとめている。ここで考えるべきは、毎日の社説が言うような「コンピューター処理」する入試を経ずに入学する生徒が現状では6割いるという点である。「暗記知識の多寡」で受験者を選別できる学校は、いまでは数少なくなっている。毎日の提案は現状とミスマッチなのである。
その点、日経は毎日同様に大学入試改革を述べてはいるものの、「教育課程の弾力化と、地域や学校現場の創意工夫を生かす教育行政の分権が欠かせない」と書いていた。提言として妥当なのは日経のこの提起のみである。
  
3、調査結果の社説報道の問題点

3.1.教育問題の「格差」性への各社の認識

 近年、教育における「格差」の存在が言及されることが多くなった。今回のPISA調査の結果を受けた社説をみると、「格差」について言及をしている社説と全く言及のない社説の2つにわかれた(図表3)。朝日・日経を除く4紙はいずれも「格差」について言及をしていることがわかる。

図表3 「格差」への言及の有無
新聞名 格差への言及
読売 「低学力層」
毎日 「学力格差」「経済格差」
産経 「格差も解消されていない」
東京 「所得格差」
朝日 ×
日経 ×

 「格差」についてもっとも多くの文字数を使って言及をしていたのは毎日であった。学力二極化の傾向への指摘にとどまらず、「経済格差」にも言及があった 。読売は毎日同様「低学力層」の存在の指摘を行った後、教員への要望を述べている 。東京は「成績の良い子と悪い子の二極化が依然目立つ」との指摘後、「背後には所得格差の問題が潜んでいる」と述べ、不明確な形ながら「格差」の存在を匂わせている。
 興味深いのは産経の記述である。参加国と比較し「日本は学力下位層が多く、格差も解消されていない」と言及した次の箇所で、「民主党政権は学力テスト方式を全員参加から一部参加に変えた。『競争』から目をそらしている。教育の成果を適切に評価する取り組み姿勢にかける」と述べている。「格差」解消を目指しつつも「競争」を重視する姿勢に矛盾を見て取ることができる。
 一方、教育問題が経済格差などとつながりを持っている点について、朝日・日経では指摘がされていない。教育問題の持つ「格差」性についての認識をマスメディア自身が持つことが必要であろう。

3.2.教育問題を煽る社説

 なぜ学力の向上を行う必要があるのか。その哲学性や理念についての言及が6紙の社説には現れていない。産経は「国力」やノーベル賞受賞という記述があるが、教育問題をなぜ社説で扱う問題であると考えるのか、その点の考察が必要である。現状ではただ教育の現状を嘆き、教育の改善を煽る紙面になってしまっている。

3.3. 他のアジア諸国への言及

 今回のPISA調査では初参加の上海が全領域でトップの結果を示していた。そのことについて言及しているのは読売・産経・東京・日経の4紙である。12月9日に社説を掲載したグループに日経を足したものである。一方、朝日・毎日は自国の調査結果に関する内容のみで終始した内容である。
 東アジア諸国への言及があった4紙でも、記事の扱い方は異なっている。読売・産経は「アジアのライバルの学力向上熱は高い」(産経)、「アジアの優秀な学生を日本の本社で採用する企業も現れ始めた。日本の若者が各国のライバルと就業を競う時代に入っている」(読売)と、明確に「各国のライバル」と日本の若者が競うことを言及した内容となっている。一方、東京・日経は上海を含めたアジア諸国のPISA結果が高かった、という事実の記述にとどまっている 。
 まとめると、PISAが国力を競うものとして騒がれる傾向が読売・産経では強く表れている。一方、東京・日経は調査結果として「アジア勢」の結果が上位に並んだことを掲載したのみであり、朝日・毎日は全く他国の結果を掲載していなかった。

3.4. 社説の最終部分の記述

 次に、新聞社説の最終部分について比較を行う。この部分を比べるのは、照らし合わせた際に各紙の主張や傾向が強く表れていたためである(図表4)。
 図表4をみると、朝日・東京は「腰を落ち着け、学びの質をかえてゆくときだろう」(朝日)・「一喜一憂する必要はない」(東京)と、教育政策の方向性を漸進的に変化させる方向性での記述がなされていることが分かる。また日経は朝日同様、「学びの質」を改善する内容を述べていることで共通している 。
 一方、読売・毎日は今後の教育政策を「自己表現力」などを高める方向性で変えていく必要性について述べている。産経は若者への呼びかけで終えている点が特徴的である。

図表4 各社説の最終部分の記述
新聞名 最終部分の記述
読売 「自己表現力や対話能力も問われる。見劣りしない能力をつけさせることは国の責務だろう」
朝日 「未来に向けて腰を落ち着け、学びの質を変えてゆくときだろう」
毎日 (入試改革の提言をした後に)「暗記知識の多寡でコンピュータ処理するような試験は、PISA型学力からは最も遠い」
産経 「将来の日本が世界と競い合うためにも、若い世代はひたすら学ぶしかない」
日経 「子どもにしっかりものを考えさせる、本来の意味での『ゆとり』が大切だ」
東京 「順位に一喜一憂する必要はない」

4、日本の義務教育の内容・方法について、今後改善すべき課題ないし改善策

 ここでは今まで検討してきた各紙のPISAをめぐる社説の記述から見えてきた点をもとに、日本の義務教育をめぐる改善すべき課題と、改善策に関する筆者の私見をまとめる。

4.1. 教育問題の「格差」性への検討

 先に図表3において各紙の「格差」報道を見てきた。「『社会生活を営む上で支障があるレベル』とされる低学力層の割合が、日本は三つの分野とも1割を超えていた。上位10か国・地域の中では目立って高い」(読売)。この「社会生活を営む上で支障があるレベル」の低学力層の割合が高い点は、読売・毎日の記述に述べられていた。安彦(1996)が述べる「基礎」と「基本」に義務教育の範囲をたてわけ、「基礎」だけは個別指導や特別授業を行ってでも底上げをするという改善策が考えられる。
 また、所得格差問題についても毎日において指摘があった。これを是正するためには、生活保護の受給を容易にする点や、北海道三笠市のように給食費無償化を実現する点などを方法として挙げることができる。

4.2. 教育目標の検討

 3.2.において、各紙の社説が教育問題を煽って終わりになっている点を述べた。
 教育方法を定めるには、目標goalが必要である。そうでなければPDCAサイクルをそもそも動かすことができない。「ゆとり教育」には学力低下などの批判がさらされたが、「生きる力」という目標が定められていた点に一つの意味があったと考えられる。目標や理念が曲がりなりにも定められていたため、「ゆとり教育」という目標の妥当性を議論できたのである。 
 PISA導入後、「リテラシー能力」や「基礎・基本の徹底」などが新たな目標として語られるようになったが、これらはあらゆる方向に向けられたものであり、結局のところ何を目指すのか不明確になっている。
 次の4.3.でも述べることではあるが、義務教育において何を求めるのか、議論が必要であろう。それは教育行政のみではなく、職員会議(現状では校長の方針を打ちだすのみの場になっている)や教育委員会内での真剣な議論が必要であると考える。

4.3. 教員の自己教育力の養成

 各社説には現場教員への提言も3紙に述べられていた。「先生が細かく目を配り、つまずきを克服するまで指導することが大切である」(読売)・「授業をどう工夫するか先生の力量がますます問われる」(東京)・「教科書の使い方や教科を横断するような形式の授業にも、工夫が必要だ」(朝日)。
 実際、現場教員自身の自己教育が今後の必要となるであろう。PISA型学力への転換、「考える力」重視の教育実践も、最終的には教員の創意工夫によって実現されることである。むろん、一方的押しつけにならないよう十分に議論して政策を行う必要はある。しかし、教員自身の取り組みが「良い教育」を支える根拠となることは確かであろう。
 アーレントは空間をprivate-public-socialの3つの側面から考察する(Arendt 1957)。画一的なsocialたる教育行政・教育政策のみでなく、その学校・その教室独自の公共性publicを作っていくことの重要性を、アーレントの概念枠組みから読み取ることができる。彼女は理想の公共空間として、他者との網の目の空間に「現れ」、議論・行為するなかで正義を実現することを述べている(同)。理想の教育空間(あるいは場)は教員-生徒間で作り上げていく必要がある。そのためにこそ、教員自身の自己教育が必要となる。これが教育行政に使役される形で行われるならば、イリイチのいうシャドウ・ワーク(賃金の支払われない他律的労働)になるが(Illich 1981)、国家の権力に対抗する形で行うこともできる。
 上から言われた通りに行うだけで「効果」が出るわけでないのが教育現場である。教育目標が「ゆとり」や「学力向上」の間を揺れ動く中、自分に関与する児童・生徒との間での教育実践をアーレントの言うpublicの図式に合う形で行うことで、国家の力を制限することができる。
 ちょうど向山洋一の教育技術法則化運動も、教員自身の自発性・能動性に支えられていることも思い起こす必要がある。向山は新任校での自己紹介を朝会で行う際、5分のあいさつのために何時間もかけて指導案の作成・検討・練習を繰り返したという(向山 1987)。教員自身が国家や行政とのバランスの中で「良い教育」を実践するためにも、教員自らの自己教育が必要であるということができる。

5、終わりに

 本稿では各紙社説の検討後、それを基にして今後日本の義務教育段階で行っていくべき提言を3点提示した。具体的な方法論についての検討はできなかったが、数ある方法の中から児童・生徒の現状を見て必要な方法を用いられるよう、教員の自己教育力の養成(4.3.)や教育目標をpublicな議論によって決定すること(4.2.)が養成されると考察できる。また、教育実践を行うための土台となる「格差」の是正を政治・行政のレベルで行うこと(4.1.)が必要であるといえる。
 本稿の課題点を述べる。今回はPISA調査を受けての社説記事の出る日付が12月8日と9日に各紙が分かれていた点を取り上げている(図表1)が、前回・前々回などのPISA調査結果報道の際は社説掲載日にずれがあったのか、検討することができなかった。その点について今後検討する必要があるだろう。

6、参考文献

安彦忠彦(1996):『新学力観と基礎学力』、明治図書出版。
Arendt, Hannah(1957):志水速雄訳『人間の条件』、ちくま学芸文庫、1994。
向山洋一(1987):『子供を動かす法則』、明治図書出版。
Illich, Ivan(1981):玉野井芳郎・栗林彬訳『シャドウ・ワーク』、岩波現代文庫、2005。