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ネットワーク社会のゆくえ

高度なネットワークは田舎にまで張り巡らされた。田舎にいながら、社会と繋がることが可能となった。

過疎の進む田舎と社会が繋がったのである。これは何を意味するのか。

まずかつては都市でしか享受することの出来なかったサービスを田舎で得ることが出来る。過疎化しても、都市と繋がりを持つことが可能になる。Uターンしてくることも容易になる。

文明の発達は都市化と過疎化をうんだ。ネットワーク化はその矛盾を埋める存在であるかもしれない。いや、過疎・過密を防ぐため、断じてそのような働きを持たせるべきである。

田舎の価値、都会の価値

田舎にいく。そこに価値を感じられない人は、都会の本当の価値を気付くことも出来ないのではないか。

ドストエフスキーの言葉

君たち、仮に人間は馬鹿でないとしよう。(中略)しかし、たとえ馬鹿でないとしても、呆れるほど感謝の念がない。桁外れの恩知らずだ。人間に最もふさわしい定義は、恩知らずの二本足だ、と俺は思っているくらいなんだ。しかし、これだけじゃない。これはまだ人間の主要な欠点ではない。最も重要な欠点は、絶え間なき善行の不在だ。(「地下室の手記」より)

パリ、テキサス的世界

自分は不意にすべてを投げ捨てどこかに行きたくなる。映画「パリ、テキサス」 のラストに同じ。

自分の精神的弱さが原因か。

blog

blogは自己目的化する。

一般に、自己目的化を防ぐのは難しい。

本の一節

詰め込み教育は、詰め込んでいない

効率主義に対しての批判は、効率が上がっていないために起こる

教科書は厚いほうがいい

詰め込みや理解重視か、受け身型学習かそうでないかという2者択一の思考でなく、学習者にとってどちらが学習しやすいかを問うべきである。

勉強法のワナ

どこの予備校にも、勉強法専門家然とした学生がいる。この人たち、何故か受からない。

方法論は、自己目的化する傾向性がある。方法を知っても実行しなくなるのだ。

受験生は勉強法の本にはまる。私も和田秀樹に始まり柴田氏などにうつっていった。そして気付く。勉強、ほとんどしてないじゃん、と。

方法を知った方が、効率は上がる。大事なのは何のための方法論か忘れず、方法論にもてあそばれないようにすることだ。

モンテーニュのエセーに、

自分は猫と遊んでいるが、本当は私が猫に遊ばれているのでは

という一節がある。方法論はあくまで方法論なのだとの自覚を忘れてはならないだろう。

一人暮しの虚しさ

一人暮しなのに家出する

某賃貸業者の広告にあった。始め、実感しなかったが、今よく思う。

家に帰っても何もプラスがない、寝るしかない。家にいても虚しい。一人暮らしでは常に思う。