電車内、席をお年寄りに譲ることはいわば共通見解だ
しかし電車では、例えば壁面部など「けっこうラクに立てる場所」もある。
そこは譲らなくていいのだろうか?
電車内、席をお年寄りに譲ることはいわば共通見解だ
しかし電車では、例えば壁面部など「けっこうラクに立てる場所」もある。
そこは譲らなくていいのだろうか?
現在の日本では、はたして「個人の幸福を全く問わない教育」は行われているのだろうか。友人に言われ、気付いた。つい、国家主義的教育が行われているように考えていたからだ。
「思い」「一念」の力は、形式的な「一日、~分を・・・に使おう」ということよりも重要である。「これをやり切るのだ」との熱い、強い決意は、単純な仕事割り振りとは異なる両立を達成できるはずだ。
両立に必要なものは、テクニックなどよりも思いである。「自分は絶対これをやり切るのだ!」との強い決意は、不可能を可能にするほどの力があるはずだ。
私は、ここ数年(中学3年から)ずっと「超・整理手帳」を愛用している。そのため、かなり前から、手帳=A5タテ半分サイズであった。
いま、私のメインのメモノートをA5サイズとした。この際、手帳もA5サイズにしようかと思う。そのほうが一覧性もあがるし、メモとの連動も簡単だ。難点は超整理手帳のよさである、スーツの内ポケットに入るというアドバンテージが使用できなくなることである。これは残念だ。また、リフィル使用時の見えない面が増えるのも難点である。あと、重大にして最大の問題点は、A5サイズのカバーは高い、ということである。これは残念だ。なかなか思い切ることができない。
やすいA5カバーを買って、新たに挑戦してみたい。
自分は、行動は出来る。論理だても出来る。私に必要なのは、行動・論理に感情・思い・祈りを込めることである。
「慈なくして詐り親しむ」ことになるからである。
「先生」や「先輩」は、相手の名前がわからなくとも使用できる、便利な代名詞なのだとわかった。
急に寒くなった。
温かいコーヒーを買おうとした。
自販機すべてが「つめたーい」 表記であった。
スーツに運動靴という服装になってしまった。まるで教師である。
教師っぽさは、「ちぐはぐなかっこう」で現れるのかも知れない。
教育の手段視は人間の手段視に繋がっている。
ヘッドホンとイヤホンつけたまま、人と話すな!最近、俺はこう叫びたいことが多いのである。