映画

映画『重力ピエロ』

 八王子の大学に通っている弟と、久しぶりに会った。髪が長くなり、背も高くなった(ような)気がしたので、一瞬誰か分からなかった。金を使わない性格の弟なので、21時に大阪行き深夜バスを見送るまで、書籍代しかかからなかった。
 相変わらず、私の話に論理的に批判をしてくる。兄弟で議論をすると楽しいのはその点だ。こうまで痛烈に批判をしてくる相手はほとんどいない。血族の成せる技だ。

 夜の9時、新宿に一人取り残される。そんなとき、私は映画館に駆け込みたくなる。周りの喧噪を目にしていると、いたたまれなくなってくるからだ。そんなわけで、新宿武蔵野館で映画『重力ピエロ』を観る。選んだ理由は単純明快。「たまたま、あと少しで上映開始だから」である。私は「この映画が観たい!」と思って映画を見に行くのでなく、「何か映画を観たい!」と思い映画館へ行き、それから観る作品を探すタイプの人間だ。わが親友のOが伊坂幸太郎の作品を絶賛していたことも、選択の理由である。

 泉水(いずみ)と春(はる)の兄弟には、ある秘密があった。泉水は実の子どもであるが、春は母がレイプされた時に出来た子どもであったのだ…。春の出生の秘密は、地域においては公然の秘密となっている。父は妻が強姦魔の子を身ごもったことを知ったとき、即座に「生もう」と妻を励ます。このシーンが印象的だった。

 思わず涙が出たシーン。2段ベットで寝る小学生時代の兄弟の会話。

春「おにいちゃん、レイプって何? みんな僕のことをそういうんだ」
泉水「(しばしの沈黙。その後、思いついたように)レイプ、グレイプ、ファンタグレープ。レイプ、グレイプ、ファンタグレープ」
春「(真似をして、笑顔で)レイプ、グレイプ、ファンタグレープ。レイプ、グレイプ、ファンタグレープ」
 楽しげにリズムに乗る春とは対照的に、泉水は沈んだままの表情だった。

 レイプされて生まれた子ども。本人は何も悪くないにも関わらず、周りはその子を悪く言う。子どものもつ苦しみを感じた映画である。
 
 昔、早稲田松竹で観た『サラエボの花』のテーマも、『重力ピエロ』と同じであった。主人公・エスマは、ボスニア紛争中、兵士のレイプに遭いサラを身ごもる。サラには長い間、この事実は秘密にしていたが、ある日エスマは事実を口走ってしまう…。取り乱すサラとエスマ。けれど学校の旅行にいくサラを見送るラスト・シーンには希望が見えている。手を振るサラのアップが印象深かった。

 映画館を出た私の目には、再び新宿の光景が広がる。『重力ピエロ』の泉水と春は、なんだかんだいい兄弟であった。私と弟の関係も、そのようなものにしていきたいと思う。お互い東京に住んでいながら、最近全く会っていなかったからだ。

『重力ピエロ』原作:伊坂幸太郎 監督:森淳一/2009年/日本

『サラエボの花』監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ/2006年/ボスニア・ヘルツェゴビナ

追記
●最近、本を読むのが面倒になってきた。人が「この作家、いいよ」といっても、あまり読む気がしない。
 そのかわり、「名著」の映画版(あるいはマンガ版)を積極的に観るようになった。『重力ピエロ』も、いちど伊坂幸太郎の作品に触れておきたい思いから観ることにした。

映画『マトリックス』(1999年)

映画『マトリックス』(1999年)
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
主演:キアヌ・リーヴス
 表面上は1999年の社会。けれどそれは機械が人間に見せている虚構の現実であった…。主人公・ネオはモーフィアスの助けでその事実に気づく。機械用の生体熱エネルギーを得るために、人間が「栽培」される世界。これが「現実」の世界だったのだ。ネオのことを「救世主」と信じる仲間と共に、ネオは機械への戦いを開始する。こんなストーリーの本作、多くの方はもう見ておられるのではないだろうか?
この映画は社会学者・ボードリヤールの理論を基にして作られた。それだけに、非常に哲学的かつ学問的内容の示唆が多い映画である。見ていて、非常に勉強になった。少なくとも、あと2回くらいは観ると思う(ツタヤはそれまで待ってくれないが…)。
 箴言として残しておきたい文章も多い。「入り口までは案内した。扉は自分で開け」・「救世主であることは恋愛と同じ。それは自分でしか分からない」・「道を知ることと実際に生きることは違う」。
 特に気に入ったのは「マトリックスの正体は人から教えられるものではない。自分で見るものだ」との台詞。教育学に通じるものがある。思想家・イリッチは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」現象を批判した。教えられるのでなく、「自分で見る」こと・自分で「学ぶ」ことの大事さを語っているように思う。
 もう一つあげるなら、「人生は自分で決めるもの」という言葉であろう。ネオも「予言者」も語ったこの言葉は、本作のキーフレーズである。本作ではネオは何度も選択を迫られる。真実を知るか否かも、ネオが自分で決めたことなのだ。
 本作のテーマは、機械に〈生かされる〉社会から、人間が〈生きる〉社会への転換の必要性についてである。真実を見つめず、〈生かされる〉生き方をするほうが容易である。けれどそれは人間の本来生きるべき道ではない。たとえ困難であったとしても、人間として〈生きる〉生き方をこそ選ぶべきなのだ。そのためには行動しなければならない。どんなにキツイ戦いになったとしても。真実を知ることには、行動する義務が付きまとうのだ。
 けれど、真実を知ることは辛い。途中でやっていられなくなる。ネオ達を裏切ることになるサイファーがいい例だ。寒くて食事も不味く、楽しいこともない現実社会を生きるくらいなら、仮想現実の作り出す夢の世界を生きればいいじゃないか。そして彼は「無知は幸福」と言ってのける。
 たとえそうであったとしても、現実から逃げないで戦い続けるべきことをネオ達は示している。宮台真司の著書に『終わりなき日常を生きろ』がある。現在は輝ける未来もなく、かといって世界の終焉もなく(ハルマゲドンは存在しない)、いまと同じ日常が延々と続く時代である。けれど、そうであったとしても生き続けなければならない、と主張する本だ。
 『マトリックス』の世界は、宮台の言っているような社会であるように思う。現実社会はキツくて辛い社会である。仮想現実の夢に戻りたくなるけれど、それでもネオ達は生き続けなければならない。
 現実が暗くてキツくてショボいなら、仮想現実の夢を見たくなる。あるいは現実から逃避(引きこもり、自殺など)したくなる。それであっても、生きなければならない。そんな現代の困難さを実感した映画であった。

映画『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(SWEENEY TODD)

『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(SWEENEY TODD)

 宮台真司によれば近代初頭、人々ははじめて「見知らぬ他者への信頼」をしなければ生きられなくなった。
 たとえば床屋。見知らぬ理髪師にヒゲをそられる。切れ味鋭いナイフで。ひょっとすると、目の前にいる理髪師は殺人鬼かもしれない。けれど、信頼しなければヒゲをそることもできない。
 たとえばレストラン。何の肉かも分からない。それ故、日本にマクドナルドが入ってきたときも「猫の肉を使っている」「実はミミズの肉が使われているんだ」という噂が広まった(宮台の本より)。
 いまの社会は「見知らぬ他者への信頼」によっている社会である。けれど本来、「見知らぬ他者」は不安を感じさせる相手なのだ。人々の不安が、スウィーニー・トッド伝説を作り上げた。いかにも「ありうるかも知れない話」ゆえに、たびたびミュージカルで上演されてきた。
 本作はその伝統を踏まえたミュージカル映画である。主人公・スウィーニー・トッドの生きがいは美しい妻とかわいい娘であった。床屋の仕事にも熱がこもる。けれど、彼の妻の美しさに惹かれたターピン判事によって彼は無実の罪で捕らえられてしまう。15年後にようやくかつて暮らしたロンドンに戻ってくることができた。けれど、妻は死に、娘はターピンの保護下にあるという事実を知る。
 復讐のため、理髪店を再開させたトッド。判事を理髪店におびき寄せ、ヒゲをそるふりをしながら喉元をきって殺そうとする。待つ間、1階のミセス・ラヴェットと共謀して恐るべき犯罪を行い続けることになる。それは①2階の理髪店に来る客の喉元をカミソリで切り、②その肉を使ってラヴェットが1階のレストランでミート・パイを作り客に食わせる、というものだ。肉が新鮮なものだから、レストランは大繁盛なのだ。
 2階の床屋で殺した人間の肉が1階でミートパイになるという恐怖。ゾクゾクしてくる。観た後で、見たことを後悔する映画はたまにあるが、本作もそんな映画の一つのような気がする。しばらく床屋にいけなくなったからだ。
 映画を最後まで見て、いろんな意味で「見知らぬ他者への信頼」によって近代が成立しているんだな、と気づいたのである。だって、「見知らぬ他者」と思っている人が実は「最愛の人」であったのだから…。

 教育学徒として一言。 
 本作ではトビーという子どもがキーパーソンを演じる。彼はミセス・ラヴェットのレストランで働くことになる人物である。彼は孤児院出身。はじめに「引き取って」くれた人物はトビーを自分の商売のためこき使っていた。本作の舞台となった19世紀中葉のイギリスでは児童労働が当たり前だったのだ。
 この映画の舞台となったのは、子どもが結局損をする社会である。孤児院は「ひきとる」という名目で虐待的待遇で働かせる「大人」に孤児を渡す。その例が『オリバーツイスト』である。イギリスの子ども(特に孤児)の悲惨さを知れば、『子どもの権利条約』が成立した背景が分かる。マルクスも『資本論』で子どもの悲惨な労働の状況を批判している。
 イギリスは人権先進国という。たしかに「人間」に権利を認めた。しかしその「人間」は生物学でいう人間とは別物だった。はじめは貴族、つぎは資本家、つぎは平民男子が「人間」だった。女性や「子ども」が「人間」扱いされるようになるのは最近のことである。つまり、かっこつきの人権思想であったのだ。

映画『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』

 今日起きると、14時になっていた。寝たのは4時である。長く寝たものだ。昼過ぎに起きたとき、快晴であるととても損した気分になる。けれど、今日は雨。ザーザー降っていると、「まあいいか」と開き直ってしまう。うーん、ダメ大学生・石田一。何とか直したいものだ。
 寝坊した日は、何か価値的なことをしたくなる。本を読了するとか、演劇を見るとか。大体はツタヤや映画館で映画を観る。今日は早稲田松竹にいった。映画は未来の自分への蓄積となる。一度見た映画は何となく覚えているからだ。将来、教育学についてものを書くときも「昔、こんな映画を見た。このシーンは教育学で言う……という現象を示しているように思える」と書くことができる。未来の自分への「遺産」となるからこそ、寝坊したときは将来の蓄積をしたくなるのだ。

 さて、早稲田松竹18時上映開始の本作の原題は、邦題より少し長くなる。「My big fat Greek wedding」。「ギリシャの」という説明が追加される。何故邦題から「Greek」が消えたかは分からない。
 本作はアメリカにおける、マイノリティーとしてのギリシャ人コミュニティーを描く。アメリカに移民していても、ギリシャ人の誇りは常に忘れない。通常の学校とは別にギリシャ語学校に通わせる両親の姿が描かれる。多文化社会を考える上で非常に興味深い映画だ。特に印象的なのは結婚式のシーン。ギリシャでは悪魔払いのおまじないとして、人にツバを吐きかける。結婚式場でも、入場してくる新婦に対しそれを行う親戚たち。新郎の両親は眉をしかめる。説明されると分かるだろうが、されない限り「一体なんなんだ!」と思ってしまう。異文化理解の難しさを感じた。
 主人公はギリシャ料理店の「婚期を逃し」そうな娘。この枠組みは小津監督の『秋刀魚の味』にもあった(中華料理店の主人と彼の「行き遅れた」娘が描かれている)。眼鏡でダサい服を着る彼女が、大学講師に恋をする。「自分を変えたい」。その思いから大学に行き、コンピュータを学び始める。その技術を使って「オリンピア旅行代理店」(本当にギリシャ人コミュニティを象徴するような名前だ)という親戚の会社で働くこととなる。偶然、憧れの講師が店に来て、双方恋に落ちる。映画の後半は結婚準備に追われる新郎・新婦とその一族の姿が描かれている。結婚準備中、新婦一族のやかましいギリシャ文化と、新郎側の静かな生活との対比が描かれる。衝突が何度も起こり、その度結婚の可能性が低くなるように映る。果たして2人は無事結婚式を迎えられるのだろうか? 

 映画の本筋とはあまり関係ないが、教育学者を志す私としては本作に“教育による輝き”が描かれているように感じた。主人公は大学に行き、新たな自分を作っていった(「自分探し」という言葉が嫌いなのでこう書いた)。大学で学び始めることで、親の言いなりの〈か弱い娘〉から、自分の運命を自分で切り開く〈自立した女性〉に変わっていった。『人形の家』のノラと同じだ(ところで彼女は何故突然自立したんだっけ?)。“教育による輝き”に有効性があった、ということを久々に実感した。
 女30、未婚で子無し。日本ではこの人々のことを「負け犬」と呼ぶことがある。たとえ「負け犬」ではあっても、大学で学ぶことで人生を変えることは可能であるのだ(それにしては〈大学でコンピュータを学ぶことで新たな仕事に就く〉というベタな展開である)。
 適当に学びにいける場所としての大学。敷居が高くない大学。これからの余暇時代・高齢化社会ではこの映画のような「手軽に行ける大学」が重要になってくるように思われる。実際、主人公の弟も大学でアートを学び画家を目指すシーンがある。
 学びとは新たな自分になること。生き方を変えること。教育に対して肯定的評価を下している映画であった。

映画『欲望』

映画『欲望』を観る。原題BLOW-UP。写真の引き延ばし、という意味だ。
 唐突な終り方。推理サスペンスになるかと思いきや、唐突に終る。友人のNと共に観たのだが、「え?」と二人とも感じる終り方であった。
 そのため、いま音声解説を観ながら映画の意図を考えている。
 解説者が「主人公のこの行動の意味は不明」「このシーンを挿入した意図は不明」と多く言及する。これ、解説じゃないじゃないか! けれど、実際この映画は無駄だと思われるシーンが多い。通常、映画に出たシーンはラストシーンまでに何らかの意味合いが説明されると感じてしまう。けれど、この映画はそうではない。ある写真家の生活に密着した映画なのだ。最初から最後まで、主人公である写真家の出ないシーンはない。
 そこからこんなことが言えるんじゃないか。「主人公の行動の意図は不明」。しかし、人の行動なんてそんなものだ。退屈な日常・ありふれた日々・無意味な行動が人生という作品を作っている。そしてそのシーンは相互に関わりが低いのだ。
 解説者も「目的があるものは芸術ではない」と語る。人生の各シーンに目的はないことが多い。けれどまぎれもなくシーンの集まりが人生という芸術を形作っているのだ。

映画『ウォーリー』

 早稲田松竹で公開中の映画『ウォーリー』が面白くて仕方ない。大学に入ってから結構映画を見てきたが、同じ映画を映画館で2回以上見たのは本作が初めてだ。

〈環境汚染のため、人類が地球を見捨て宇宙に出た。その際、一台だけスイッチを切り忘れたロボットがいたならばどうなるのだろうか?〉。このアンドリュー・スタントンの問題意識が、本作を構成した。

 設定ではウォーリーは700年間一人で働く中で感情が芽生えてきた、とされる。ウォーリーはクライマックスにおいて一度故障し、マザーボードを交換しているが、その際彼はプログラムに忠実に従うだけの存在となってしまう。本来のウォーリーには感情も何もなかったのだ。
 時の経過により、感情を得たウォーリー。彼には他のロボットに感情を与える作用があるようだ。ロボットに感情を与えるという〈啓蒙〉を行っている。ウォーリーと会う以前は従順にオートパイロットや人間の命令に従っていたであろうロボットたち が、ウォーリーに味方をし、反乱を起こすようになるのはそれが理由であろう。
 イヴというヒロインのロボットは初め、全く女性性を見せない。他のロボット同様、ウォーリーとの交流の中で、徐々に女性性が発揮されるようになってくる。だからこそ大団円でのウォーリーとの〈握手〉は非常に印象深いものとなっている。
 
 映画のラスト。アクシウム艦が地球に帰還する。植物が育つようになったとはいえ、砂嵐が頻発するなど(映画中、ウォーリーは2度も嵐に教われていました)自然環境はまだまだよくない。イヴは原子力発電所のプラントを破壊していたが、放射能汚染はないのだろうか? 
 ラストシーンを見ていて、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を思い出した。『ナウシカ』は「火の7日間」により文明が崩壊した後の物語である。一度絶頂を迎えたあとの残滓で人々が暮らしている。中世同様の生活をしていながらも、何故か一人乗り飛行機(メーヴェですね)や飛行艦隊が存在する歪な世界である。アクシウム艦の住人にはコンピュータの蓄えた膨大な知識と智慧が与えられている。けれど聞かない限りこれらの知識をコンピューターは教えてはくれない(艦長は「土って何?」「海って何?」という三歳児レベルの質問をコンピュータにするまで、これらの存在を知っていなかった)。ロボットも多数存在する社会ではあるが、もはや住人はその構造すら知っていない。
 はたして映画のあと、この世界はどうなるのだろうか。私ならば「アクシウム艦に乗っていた頃が懐かしい」と復古主義に走る。艦長は「生き残るのではなく、生きたい」と主張するが、この生き方は相当ハードである。自分で道を開かないと行けないのだから。少数には可能でも、大多数の人間にとってやはり「宇宙こそパラダイス」(映画中に出た、BNL社のCMより)であり、懐かしき故郷となるのではないだろうか。

追記
●いい映画は、何度見ても鑑賞に堪える。もう一度、観に行ってこようと思う。実は『ウォーリー』もそうだが、同時上映の『マジシャン・プレスト』も見たいのだ。
 中谷彰宏は〈同じ物からいくらでも学べる人が学習力のある人だ〉といっていたのを思い出す。自分が「これだ!」と決めた本・映画を徹底して学んでいく姿勢も重要なのである(おそらく師匠などの「人」もその対象に入る)。いまは16時。17時上映分を観に行こう。
●それにしても。この映画で主役たちを「食って」しまうほどの演技(活躍?)をしたのはモーというロボットだろう。〈汚染物質〉まみれのウォーリーの足跡(キャタピラの跡)をひたすらに掃除し続ける執念が、観客に笑みを与える。エンドロールでも大活躍であった。
●映画『ナウシカ』を観た時と同様、観賞後に非常に感傷的になる映画だ。映画の世界にノスタルジーを感じてしまう、ということだろうか。
●ウォーリー、イヴ、モー、オートには、目しかない。けれど目の存在により、人間らしさが表現されているように思う。人体において「目」の存在は大きいのかもしれない。
●『2001年 宇宙の旅』が下地になっている。オートの目が赤く、一つ目であるのも『2001年』の影響だ。艦長が立ち上がってオートと格闘するシーンでは『2001年』のテーマが流れるのである。
●艦長は地球に戻ることを、はじめ嫌がる。それは「いつもと同じ」に憧れるからだ。けれど、ウォーリーの体に付着していた物質(「土」のことです)を契機に、地球についてをコンピューターから教わって後、艦長は自らの意思で行動を開始する(それまではオートパイロットの言いなりであった)。これは何故であるのか。
 ベーコンは「知は力なり」といった。知ることが力になる、との意だ。自分の行動の意義を「知る」ことによって、人は主体的な行動がとれるようになるのであろう。艦長は地球復興を目指す。ようやく2本足で立てるようになった(比喩ではなく、文字通りの意味です)艦長たちが、世界を新たに造っていくのは不可能ではないだろうが、かなりシビアなことである。けれど不可能そうなことに挑んでいく上で、「知る」ことは大きな力になるようである。
●宮台の『終わりなき日常を生きろ』。そこには最近のアニメが「ハルマゲドンそのもの」を描くものから「核戦争による終末後の世界」を描くものに変わっていったことが書かれている。本作『ウォーリー』は後者の「週末後の世界」を描いていると考えられる。

映画『レッドクリフpart2』

 ツタヤの広告や電車の中吊りなどで、レッドクリフの宣伝を積極的にやっていた。それにつられて、本日K君と新宿バルト9へ行ってきた。会場内、一杯。昨夜寝る前に予約を取っていて本当によかった。そうでないと「あれ、観れないの?」「……。」と萎えてしまう。

 昨年、チベットの問題などで結構日中関係は冷え込んでいた。その年も、本年も『レッドクリフ』のような中国伝統の物語映画が作られるのは意義深いことである。

 前作ラストの鳩のシーンから始まる。実はあの鳩は伝書鳩の働きをしているのだと明かされる。
 知略を周瑜や孔明が尽くしていても、多くの兵が空しく死んでいく。曹操軍へ正面突破。雨のような弓に襲われ、倒れゆく兵士たち(空しさレベルでは前作の方が上だけどね)。どんなに優秀な軍の司令官がいたとしても、戦争とはこのように多くの兵がいたずらに死んでいくものなのだとの認識を新たにした。
 本作の登場人物は人物が大きい。負けていても堂々としている。敵方・曹操にしても最後まで命乞いをせず、絶体絶命のピンチでも笑う余裕がある(本当のラストはさすがに悲しげ)。最大のピンチで笑える人間こそ、大事を成し遂げられるのではないか、と感じた。
 それにしても。ラストシーンは原作同様、曹操にとどめを刺すことはしなかった。直前に曹操は孫権に「お前は青二才だ」と語り、孫権がものの敵ではないことをアピールする。曹操ならば軍師が殺されるのを見ても、平気で敵方のトップへ弓を放っていただろう。

そんな先のことはわからない。

B:今晩はどうするの?
A:そんな先のことはわからない。

映画『カサブランカ』内の言葉である。

私の場合も、その日がどうなるのかよくわからない。妙に親近感を覚える言葉である。

映画『オリエント急行殺人事件』

いくつかの映画評論などから、「皆が犯人」というパターンの推理ドラマであるということは知っていた。けれどこの結末は予想外であった。

映画『容疑者Xの献身』は昨年見た。
〈事実が明らかになっても、誰のためにもならない〉という後味の悪い映画であった。それに比べ、『オリエント急行殺人事件』は〈事実よりも大切なものがある〉というスタンスをとっている。

事実や真理は必要な物である。けれど常にそれだけに価値があるのではない。イデア論は現在の私たちが読むと、うさん臭さを感じる理論である。同様に、〈神託〉がどうのこうの、という理論も「非科学的だ」と感じる。けれど、それを理由にプラトンが迷信にとらわれていた/真理を捉え損ねていたとは誰も言わない。

社会のため/人びとのために、真理が犠牲にされるときもあるべきではないのか。それを感じた。

過去の自分との再会

昨日、自分の著作集をまとめていた。

自宅での試しコピーの際、裏紙を使用した。何気なく本文を見て驚く。
その裏紙は、私が1年生のときサークル内で発案した「早稲田大学合格体験記・記事募集のチラシ」であった。

昔の自分の行動を、こんな形で知ることになるとは…。ワープロ文の下に書かれた手書きの補足説明。稚拙な文字で恥ずかしくなった。

黒澤明が官僚制批判を行った映画『生きる』。その主人公を思い出す。かつての意欲を失った市民課長たる彼が、ハンコを拭くために引き出しから紙を出す。それは何十年も前に自分が書いた’役所業務の効率化私案’の文章であった。何の気無しにその束を破り、淡々と判を拭う主人公の姿が記憶に残っている。

過去の自分は乗り越えられるべき対象なのか。それを乗り越えた時が自分の成長と言えるのか。粛々とハンコを拭く主人公は若かりし自己を乗り越えたのか。

映画では主人公は「余命半年の間、死ぬ気で働き、市民の要望する公園建設を断固成し遂げよう」と決意する。そして奮闘の結果、公園が完成するのだ。