ishidahajime

作家や小説家と音楽家の違い

昨日、ミュージシャンを目指す後輩と話した。
自分がブログを書いていることを話すと、次の話をしてくれた。

‘作家や小説家と違い、音楽家は「過去の自分」と向き合わないといけないんですよ。作家は過去の作品を再び書くことはないですね。でもミュージシャンは昔の自分の書いた歌を歌うことになるんです’

真理だと思った。たしかに、彼の言う通り私は過去に書いた作品を再び書くことはない。けれど歌手のコンサートでは何十年も前のデビュー曲が歌われることがある。歌手は過去の自分の作品を再び思いを込めて歌わねばならない。たとえ、それが「今はこんなこと考えないよな」と思ったとしても。

非常に面白い。

1日8時間の勉強、について

アメリカの大学は学生が平日1日8時間勉強をすることを基準にしている、と言う。高卒で働いている人と同じだけは学べよ、ということだ。これは「勉強=労働」と見ていると言ってよいだろう。

また佐藤優はいまも「1日6時間の読書」を日課としている。それも仕事で使う本ではなく、6ヶ月先のトレンドを見据えて(もちろん思想のトレンドである)読書をしている。’自己の内面で熟成するのを待つ’のだそうだ。(『「諜報的生活」の技術 野蛮人のテーブルマナー』 )

学生たるならば、休日をレジャーで過ごすのはあまりにももったいない。まして学者を目指すならば、1日8時間の勉強は最低すべきではないか。

…とはいうものの、なかなか難しい物である。

缶コーヒー

缶コーヒー
無糖を飲んで
ダイエット
でもラーメンは
普通に食ってる

無糖缶コーヒー

無糖缶コーヒーをよく見る。糖分を気にする人・カロリーを気にする人が増えてきたようだ。しかしそういう人に鍵って普通にラーメンやビールを口にしている。なら食うなよ、といいたいのである。

製本代の高さと処女作発行

著作集を今日まとめた。

タイトルは『著作集・高校生と語るポストモダン』だ。今までの大学3年間の集大成として作る。合計文字数5万字。市販の新書はもっと文字数が多いことを考えると、「意外に3年間、物を書かなかったのだろうか」と思ってきた。

作り方。印刷、製本、出来上がり。簡単である。けれど早稲田大学22号館の印刷機をしばらく占拠する形になり、申し訳なかった。

製本をするのに「くるみ印刷」という物をもちいた。印刷した原稿を厚紙で覆った上で印刷する。それで750円かかる。くるんでもらう紙に印刷をたのむと追加料金が1000円かかる。高い。

青木雄二が好きでよく彼の本を読む。彼ならばこの状況を見て「資本主義は設備や資本を持っているものが暴利をむさぼる社会だ」と語るであろう。持たない物は力がない。製本を依頼しないことには、目的を達成できない分、持たざる物は弱い立場にいる。

よく小さな団体の刊行物が、原稿を厚紙でくるんだだけの「くるみ印刷」であることがある。1000円を超えることもざらであり、「こんな安そうな本を売るなんて。ぼったくってるな〜」といつも感じていた。これはその団体の問題ではなく、製本所の問題であったのだ。

ともあれ、私の処女作がまもなく完成する。
出版社から出すのでも、自費出版でもない〈自分で印刷して、製本してもらう〉式の出版である。こんなやり方でも本は出せる。うれしいことである。
といっても、できあがるのはたった4部ではあるのだが。それでも紙代合わせて3500円はかかっている。

英語版wikipedia

英語版wikipediaは色々と面白い。「Japan」で調べると非常に興味深い。
https://en.wikipedia.org/wiki/Japan

Education and health」の欄では、次のことを言っている。

The two top-ranking universities in Japan are the University of Tokyo and Keio University.

この並びなら「東京大学と京都大学」や「早稲田大学と慶応大学」が適切なはずだが…。早稲田生として納得がいかないのである。

free skool

英語版のwikipediaでfree schoolを引いてみた。

A free school, sometimes intentionally spelled free skool, is a decentralized network in which skills, information, and knowledge are shared without hierarchy or the institutional environment of formal schooling. The open structure of a free school is intended to encourage self-reliance, critical consciousness, and personal development.

何やら、free skoolという言い方もあるようだ。

英語で教育学をやると、日本語では見えない点が見えてくるはずだ。

言語はメディアである。言語は自らの心情を単に示したものではない。言語を使うことで見えてくるものもある。
日本語という言語に限定せずに使っていく必要があるようだ。

脱学校と脱フリースクール

脱学校会議室(https://groups.yahoo.co.jp/group/deschooling-oriented/messages/1?expand=1
このサイトは面白い。

脱学校の急先鋒が、フリースクールであり、オルタナティブスクール実現の最善の方法だと思っていた。

しかし、人間は多様である。フリースクールの運営者も善人ばかりでない。

フリースクールゆえに人生をめちゃめちゃにされた人もいるのだと、このサイト(厳密にはメーリングリスト)は教えてくれた。

拝啓 寺山修司様

拝啓 寺山修司様

「言葉の魔術師」たるあなたは生前、非常に多くの作品を遺されましたね。

 私は映画監督としてのあなたの姿しか、目にしてはおりません。『書を捨てよ町へ出よう』も『田園に死す』も、遺作『さらば箱船』も面白く見させていただきました。

 個人的な話ですが『町へ出よう』は『街』とされた方が雰囲気が出る気がします。『箱船』、今では祖父役が与えられる山崎努の若かりし頃の迫力にシビれあがりました。

「見世物の復権」を訴えられたあなたの演劇は、厳密には再度お目にはかかれません。

 あなたが演出する演劇は、もはやこの世に存在しないからです。演劇を録画しても、演劇の数%のみを今に伝えるのみでしょう。なんといっても、見る場所によって見え方の違う演劇をあなたが作ろうとしたのですから。

私はあなたに憧れます。何の衒いもなく「アジテーター」であることを誇れるのですから。


私は脱学校論を専門にしていきたいと考える一教育学徒です。仮に事実として現存の学校の醜さ・非人間性を訴えることをしたとしましょう。教育学者であればそれで済みます。ですが、私の文章を読んだ中高生が「学校は欺瞞の固まりだ」と考え、学校をボイコットする。その結果、この中高生が将来的に「反抗少年」としてレッテルが貼られ、人生を棒に振ってしまった場合、私の文章作成行為は正しいと言えるのでしょうか。あなたは「正しい」と言うかもしれません。ですが、私はこの中高生の将来受けるであろうデメリットを考えると、「何も書かない方がいいのではないか」と思ってしまうのです。教育学者ではあっても、真理より子どもへの影響を考えてしまうのです。


あなたは映画のなかで何度も母を「殺」してきました。捨ててきました。けれど生涯母からは逃れることが出来ませんでした。あなたはハッキリとご自分の矛盾に気づいておられました。それゆえに私たちに「寺山の言うことを100%は信じないほうがいい」と無言のうちに語っておられたのでした。ですが世の中はそんな人ばかりではありません。あなたの言を真に受け、行動してしまった若者がいるのです。少なくとも、私の回りには1人はいました。あなたを乗り越えるべき父親像とするのであれば何の問題もありません。「昔はこんなことがあった」と流してしまえるからです。問題なのは、皆が乗り越えられる訳ではないということです。あなたを信用した結果、あなたを乗り越えること(精神的意味での「父親殺し」)が出来なかった者はあなたに人生を狂わされたと言わざるを得ないのではないのでしょうか。


あなたは食うために文章を書いた人間ではありません。では何のために文章を書いてこられたのですか。人を不幸にする可能性も考慮して、文字を原稿用紙に書き付けられたのですか。
永六輔の『芸人』にはある役者の言葉が出てきます。’江戸時代の役者の演技を見て、世をはかなんで自殺した若い娘がいた。私も、一人くらいはそうやって殺してみたい’と。あなたの創作行為はこのような物なのではないかと推察するのです。

死ぬのはいつも他人ばかり」。
あなたはよく口にされました。現に亡くなってみて、いかがですか。あなたは舞台の役者に話させました。「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって他人なんです」(『地獄編』)と。


死は他人の
認識のなかにのみ発生します。「死」を認識する自己は存在しないからです。限りなく死に近い状況でのみ「ああ、もうすぐ死ぬんだ」と思うことはあっても、本当に心肺停止をする際には私の認識は無くなっているからです。


ということは、このことは生命の不死を説明することになるのではないでしょうか。私が「死ぬ」瞬間、別の場所に私の生命が連続して続いていく。あなたの言を聞き、そう思うのです。


いつの頃からか、本を読んでいて「私はこの著者であった時があるのじゃないだろうか」と、ふと考えるようになりました。説明が不足してすみません。自分の前世やその前に書いた本を、自分自身が再び読んでいることがある気がするのです。私の妄想が実際におこっていたとすればさぞ愉快ですね。前世の自分の思索を今世の私が再び引き継ぐことになるのですから。前世に書いた本を私が「この著者の言うことは間違いだ」と指摘するとき、さらに面白くなります。いったい、私という生命は何なんだ、と思うからです。

あなたは一体、誰として(あるいは何として)いま今世におられるのですか? それとも生命は一期限りのものなのですか? 教えてください、「言葉の魔術師」様。

*『地獄編』からの引用はhttps://homepage2.nifty.com/highmoon/kanrinin/meigen/ijin2.htm#maより。

大学訪問記①玉川大学

 早稲田大学はもともとの早稲田村にできた大学だから早稲田大学という。地名→学校名だ。玉川大学はその反対。学校名→地名である。学校が出来てから、その名称が地名となった。だから学校の敷地でなくても、「玉川学園」が地名として使われる。
 大学名以外にも逆のところがある。例えばキャンパスの広さ。散歩できるほどの広い空間であり、自然が多い。あとは付属の小中高が同じ場所にある点だ。早稲田——特に早稲田キャンパスは——狭く、自然と言えば街路樹くらいで、付属・系列校は大学外に存在する。また両校とも教育学部をもっているが、玉川は教員育成の名門、早稲田は【教育学の研究場所】としての学部である。

 本日3月2日、私は小田急線を使った関係上「フラッと」玉川学園前駅に降り立った。そしてこの真逆である大学に足を踏み入れることになった。守衛さんは小学生に挨拶をするほどフレンドリー。その姿に感心し、コソッと大学に入るのでなしに許可を得て入ることにしたのである。

 玉川大学とはそもそもどんな大学であろうか? 玉川学園のWEBには次のように書かれている。

 玉川学園は、1929年(昭和4年)に創立者小原國芳により「全人教育」を第一の教育信条に掲げて開校されました。生徒数全111名、教職員18名によってスタートした学校は、現在K-12(Kindergarten to 12th) 、大学(文学部・農学部・工学部・経営学部・教育学部・芸術学部・リベラルアーツ学部)・大学院まで約1万人が約59万m2の広大なキャンパスに集う総合学園に発展し、幅広い教育活動を展開しています。
 創立以来「全人教育」を教育理念の中心として、人間形成には真・善・美・聖・健・富の6つの価値を調和的に創造することを教育の理想としています。その理想を実現するため12の教育信条 ―全人教育、個性尊重、自学自律、能率高き教育、学的根拠に立てる教育、自然の尊重、師弟間の温情、労作教育、反対の合一、第二里行者と人生の開拓者、24時間の教育、国際教育を掲げた教育活動を行っています。
(https://www.tamagawa.jp/introduction/history/index.html?link_id=his2)
 
 足を踏み入れてみて、ここに書かれている内容に、よくも悪くも嘘はないように感じた。創立者たる小原國芳はクリスチャン。小原の著書のエッセンスをおさめた『贈る言葉』(注 海援隊にあらず!)という本にも信仰を根底においたがゆえの言葉が書かれている。わざわざ人間形成の中身に「聖」をおくのは信仰故のものであろう。
 今ではほとんど聞かなくなった「熱い」言葉を伝えているのが玉川大学の教育学部であるようだ。「いい」教員になり、子どもに夢を与えよう、子どもによい教育を与えよう。古き良き教員像を見る思いがする。そのために「理想」の教育たる松下村塾や咸宜園(かんぎえん)を学校内に再現してしまっている。本当に教育に「熱い」学校である。
 玉川大学の本屋。「教育学」コーナーには教員養成や授業運営の仕方をキーワードとする本が多い。早稲田は文字通りの「教育学」に関する本しかない。ただ、水谷修の本は早稲田にも玉川にもあった。
 教育への「熱い」言葉の広まっている玉川大学。早稲田大学の教育学部は教員育成を主目的としない分、「いい教員になろう」「いい教育をしよう」ということをあまり伝えてこなかった。「熱い」ものに惹かれる傾向も私にはあり、「この大学で学んでみたい」という思いを久々にもったのである。
 現在は善の言葉がニヒリスティックに見られる時代となった。「正義」や「善人」という言葉や「人のために」という言葉を真正直に口に出すと恥ずかしさを感じる時代だ。教育学の世界でも、この傾向はあったように思う。教育に関しての「熱い」言葉が語られず、いたずらに脱学校論や近代教育批判が展開される。これ自体には何の問題もないが、あまりにも現代の教育批判に汲々としていると教育が本来もっていた「熱い」側面が軽視されてしまう。教育に無限の可能性や輝きがあったのは「今は昔」のことなのか? 本当にこの状態でいいのか?
 ニーチェは「神は死んだ」と言った。そして「神は死んだままだ」と続けた。誰の本だったか忘れたが、ニーチェのこの一連の言葉から、’神は確かに死んだ。まだ死んだままだ。けれど、この状態はいつまでも続いていいわけでない’という解釈をしているものがあった。教育学にも言える。教育における「熱い」言葉は確かに軽視されるようになった(死んだ)。けれど、この状態はいつまでも続いていいのだろうか? そうではないだろう、と。教育学が近代教育批判を躍起になってやりすぎたため、教育が本来もっていた希望や輝きが見えづらくなってしまったのかもしれない。
 
 玉川大学の竹薮に風が通る。3月2日の風は冷たいながらも心地いい。風に揺れた竹が夕陽に輝く。この光景を見ていると、教育への希望があふれてくるように思うのだ。