コミュニケーションとしての教育

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役立つ・役立たないを越え、

コミュニケーションとしての教育

という発想が必要かもしれない。

コミュニケーションは、多湖あきら氏のいう「雑談力」を鍛えることになる。そして文明の発展が低迷化してくるであろう近未来でも、会話は大切である(オートメ化はギリシアの奴隷と貴族のように人々を有閑にする)。

社会で役立つ・役立たないを越えて、コミュニケーションとしての教育・交わりとしての教育

を指向していくべきではないか。

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