タイトル:ぽっぽこねんじゃ、あるいはサザン・オールスターズの夏。
『草枕』にあらずとも、山道を歩けば人は何かを考える。つまらないこと、会社のこと。進んでいくにつれて、段々と考えはより根本的なものに及んでいく。本作の主人公、入社三年目のビジネスマン・石田一(いしだ・はじめ)氏も、ひょんなことから山を登っていた。以下は、その記録である。
気がつけば、山を登っていた。いつからであったか、見当もつかない。にっちもさっちも行かない仕事、神経をイラだたせられるワープロ入力。目がチカチカしたときは、目薬で何とかする。机に転がるドリンク剤。一本三百円は高い。上司の小言が胸に痛い。気軽さの裏にある、一人世帯の侘しさ。「ただいま」を言う相手もいない。
いつから登っているのだろう。登っているはずであるのに、時おり下りがある。足に響く振動。靴は革靴。むし暑い。首に手をやるとネクタイを締めていた。真っ赤な勝負ネクタイである。そういえば今日は新製品のプレゼンの日であった。三ヶ月、かかりきっていた仕事だ。結果がうまくいったのかどうだったのか——というよりも、プレゼン自体やったのかどうか——よく覚えていない。
日が暑い。今は八月。お盆休みはいつからだったか。腕時計をしていたはずなのに、手首には汗ばんだシャツのほかは何もついていない。こんな小説をいつか読んだ。そうそう、カミュ。「太陽があんまり暑いから」。「流れる汗をぬぐおうとして」。これは殺人者の話か。
山を淡々と登っているつもりであるが、少し休んでいると、自分がどっちへ進んでいたか、わからなくなる。どちらが行くべき方向であるのか。というよりも、俺はそもそも、どこへ向かっているのか。頂上を目指すのか。山を越えるのが目的か。木々はどれも、高い。ヒノキや杉はあまりに真っ直ぐである。キッキッキッキ…。カワセミの声。クックルックク、クックルックク…。次は鳩だ。
休むわけにはいかない。蚊やアブに襲われるからだ。息があがってくる。それでも進む。水分補給が登山にとって大事だと聞くが、俺は何も持っていない。ラーメン屋で飲んだお冷やが、最後の水分のようだ。あと二杯ほど飲んでおくんだった。
俺という存在が、山を歩いている。そう考えていた。が、ふと気づくと俺の足が上にくっつている胴体を勝手に運んでいるように感じられる。ひょっとすると、この瞬間、足が意思を決定しているといえるのであろうか。山を降りる、という選択肢は残っている。けれど、何故か登り続けている。
歩いているのは登山道なのか、それともけもの道なのか。蜘蛛の巣を怖がっていては、山は登れない。倒れた木や枝のすき間を、あるときは跨いで進み、あるときはしゃがんで進む。横たわる木に乗った瞬間、バキッと音がし、崩れる。ワイシャツは木の芽に引っ掛けてあちこちに穴が開いた。枝に体をひっかけてしまい、枝を折ってしまう。俺は山の破壊者なのか。
平らなところへ出た。祠(ほこら)が二つ。失礼と思いつつ、扉を開ける。開かない。サビついた蝶番(ちょうつがい)。力を入れると、中に箱。グシャグシャしたこの空間を見て、無性に罪悪感を覚えた。
ハア、ハア、ハア。シャツの袖で顔をぬぐう。後ろを見る。前方とほとんど同じ風景。俺は真っ直ぐに前へ向かっているのか。無意識のうちに、後ろへいってはいないか。何となく不安になる。
息の音、鳥の声、虫の音。時おり、カサッという音。それ以外の音は、ない。息のみが俺の存在の証明か。目前に、道をとざす枝を見つける。くぐる際、ネックストラップがひっかかる。携帯の金具が、草に絡まってしまった。しょうがなくストラップを強く引く。草が抜けてしまった。
ずっと歩き続けていると、自分の周りを飛び、また地面を這っている虫のことがどうでもよくなってくる。都会では、ムカデやヤスデを見たらすぐに殺虫剤である。いまはどうも気にならない。ただ進むだけ、だ。
目的はとにかく登ること。この目的はいつからあったのか、自分で決めたのか、それは分からない。登ること、それ自体に価値を置いている俺がいる。
都会にいた頃の自分——といっても、数時間前までここにいたのだが——は、どこへ行ったのか。ただ一歩足を出す、ただ登る。それだけ。理由などどうでもいい。ただ俺は無性に登りたいのだ。山を登れば、自分の状況を変えられるのか。そうは思わない。しかし、登らずにいられないのである。
日が大分、傾いてきた。頂上には、いつ着くのだろう。携帯電話は圏外だ。誰かを呼ぶこともできない。
薄暗い、山の中。足を止めたくなる。しかし、俺は何故か歩き続けている。耳を澄ますと、やはり息の声のみが、俺の存在証明である。
ラララーララララララー
ラララーララララララー
砂まじりの茅ヶ崎 人も波も消えて…
歩みを続ける中で、俺の内面のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはいつかのカラオケの席で俺が意味もなく熱唱した、サザン・オールスターズの「勝手にシンドバット」だった。山にいて海の歌とは、我ながら妙だ。
さっきまで俺ひとり
あんた思い出してたとき
シャイナ ハートにルージュの色が
ただ浮かぶ
好きにならずにいられない
お目にかかれて
無意識のうちに歌い始めていた。
今何時 そうねだいたいね
今何時 ちょっと待っててオー
今何時 まだはやい
不思議なものね あんたを見れば
胸騒ぎの腰つき 胸騒ぎの腰つき
胸騒ぎの腰つき
心なしか今夜 波の音がしたわ…
「ラララーララララララー、ラララーララララララー」。俺は、歌い続けていた。歌というものは、なかなかに自身を励ますもののようだ。たとえ歌詞本来の意味とは違ってはいても、である。
段々、暗闇は広まっていく。まだ登りである。懐中電灯があるわけではない。いつまで登るのか。
その時であった。目前の枝に、俺の目は釘付けとなった。ゆるやかに動く生物。蛇であった。マムシか、何かである。
俺は凍り付いてしまった。気づけば、そっと後退していた。そのまま、俺はもと来た道を進んでいた。登り始めが唐突ならば、降り始めも唐突である。決定しているのは俺なのか、何なのか。
しばらく進む。不安感が広まる。「この道、通っただろうか?」。山道は逆から見たとき、まったく違う姿を現すことを、初めて知った。
下りは登りよりも、足に響く。そして滑る。やむなく手も使い、慎重に降りていく。
いつになれば湘南 恋人に逢えるの
お互いに身を寄せて
いっちまうような瞳からませて
江の島がみえてきた 俺の家も近い
ゆきずりの女なんて
夢をみるよに忘れてしまう
口から、再びサザンの登場だ。非常に、野生的な歌だ。今の自分は、両手・両足で下っている。自分の野生が、目を覚ましたようだ。広がる闇に、怯える自分。万が一、ここで野宿する場合、動物に襲われはしないか。そう考えているうち、体が滑り落ちた。頭から思考が飛ぶ。手を離した一瞬の隙だった。足で支えて助かったものの、俺は思わず「生きたい!」と思っていた。地上に戻りたい。必ず戻りたい。そう願っていた。子どもの頃、迷子(まいご)になったときとよく似ている。
田舎で育った俺は、街へ家族で買い物に行くとき、いつもはぐれてしまった。珍しいものに目を奪われ、家族と離れるからだ。あまりによくいなくなるので、「はぐれたら、駐車場に」という「駐車場ルール」が作られた。迷子になったときの寂しさは、大人になっても忘れない。この世の中に、ただ一人孤立して存在している、悲しき自分。半泣き状態で家族を見つけたときの安堵感といったらなかった。
いま、俺は間違いなく迷子だ。社会からの、である。子どものときと同じく、俺はものすごく寂しくなってしまった。「帰りたい」との切実な思いが強まった。
俺の中に、別の自分が姿を現したのだ。「子どもとしての俺」である。寂しがり屋で、弱々しいが、好奇心は失わない自分のことだ。「子どもとしての俺」は、田舎にいた少年時代、理性を持った俺の傍らに、常にいた。次第に、「理性の俺」に弱体化させられ、ついにはいるかどうかもわからなくなったのである。無目的に山を登れるのは、それは俺が「子どもとしての俺」を持っているからだろう。人から、「お前は子どもか!」と言われる度、意識して無理に殺そうとしてきた、「自分」。そうか、俺の今の不可解な登山は「子どもとしての俺」の逆襲であったのか。
子どもの頃、こんな暗がりの中、山を下ったことがあった。俺の故郷には、「ぽっぽこねんじゃ」という伝統行事がある。室町時代から続いているらしい。これは地域の子どもたちが山へ登り、松明(たいまつ)に火をつけるところから始まる。夜になり、松明を片手に子どもたちが下山していく。「ぽっぽこねんじゃ、ほうねんじゃ」と言いつつ。なんでも、豊作祈願の思いがあるらしい。だから「豊年じゃ」と叫ぶわけか。しかし未だに「ぽっぽこねんじゃ」の意味が分からない。
八月の下旬に、毎年行っている。俺も小六までは出ていた。燃えさかる松明を片手に地上を目指し進んでいくのは、なかなかにスリリングであった。
大人の、「理性者としての俺」の中に、「子どもとしての俺」が立ち現れる。こいつを弱らせて小さくしていても、ろくなことがない。俺は意図的に叫んでいた。
ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ
ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ
意味など、分からない不可解なフレーズ。大声で叫べるのは子どもだけだ。
ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ
ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ
俺の中の、「子どもとしての俺」は、こうして復活した。子どもっぽくて、何が悪い。無目的に何かを行える、子どもを見習うべきところは多々あるのだ。センス・オブ・ワンダー忘るべからずとは、レイチェル=カーソンの言ではないか。
ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ
ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ
俺の視界の中に、民家の明かりが見えてきた。頭上には、満月が輝いていた。(了)
――本稿のねらいは、何ですか。
著者:「人は追い込まれると、山を登る。この山は形而下のこともあれば、形而上のこともある」ということをテーマとしております。
生きにくさややりきれなさを、組織内にいる人間は感じます。そういうときこそ、「貫け!」と申し上げたい。
本作は入社三年目の若者が主人公です。新書に『若者はなぜ三年で辞めるのか』(ちくま新書)というものがあります。これは城繁幸氏の本ですが、本作の石田一も三年目でリーチがかかっているわけです。「辞めるか、辞めないか」というリーチですね。仕事の大変さを実感し、苦悩をし続けた石田がふと気づくと山を登っている。これは実際の山であることもあれば、石田の内面の山であるかもしれません。とにかく、この登山は葛藤なんですね、仕事や人生についての。登っていくうちに、石田は本来の自分というものを取り返そうとする。山を降りるということは現実世界にもどってくることです。精神の葛藤が終わったわけですね。形作った「自分」ではなく、案外子ども時代の精神状態にもどっている、ともいえましょう。「ぽっぽこねんじゃ」という、石田の故郷にあった風習を思い出したわけです。
――若干、理解に苦しんでしまう箇所がありましたが。
著者:それは仕方ないですね。処女作品ですから。私の場合は童貞作品とでも申しましょうか(笑)。本作は私が一気に書き上げたもので、その分至らないところが多くあったことと思います。ですが、あえてそれを残すことで、石田の複雑な葛藤が多少とも理解しやすくなるのではないかと考えたしだいです。
文は意を尽くさず、ですね。ですが、人間の精神なんて、こういうものではないでしょうか。明快に、論理的に説明しようとしても、まだ言い尽くさないところがある。悩んでいると、はじめに何を悩んだか忘れてしまっても、なんだか知らないが悩んでいる、ということ、ありませんか。悩んでいるだけでは、筋道が見つからない、ということもあらわしていると思います。
では悩みを解決するには、何をすればいいのでしょうか。
ゲーテは『ファウスト』の冒頭に、こんなシーンを残しています。老齢のファウスト博士が旧約聖書を翻訳する場面です。「はじめに言葉あり」が本来の訳ですが、ファウストは「違う」と考える。で、いろいろ当てはめようとするわけです。あれがいいか、これがいいか。最終的にファウストは「はじめに行いあり」と書き記します。
ファウストのような碩学が、物事はすべて何かを行うところから始まる、といっているのです。カール・ヒルティも「仕事を始めれば、知らぬ間に仕事がはかどる」と書いています。
悩んで、何をするか分からないときこそ、まず何かを行う。何かを行っているなら、それを貫く。これが必要じゃないかと思うしだいです。石田氏もよくわからないけれど、とにかく動き続けている。悩んだり、壁にぶつかったりしたときは、とにかく動き続けることじゃないでしょうか。石田は歌ってもいます。いじいじ悩むより、何かを成したほうがよほどいいようです。
私の好きな哲学者にアランがいます。彼は面白い言葉を残しています。いわく、「疲れたときは伸びをしろ」です。悩んだとき、われわれは頭のみで考えています。ですが、人間も動物です。体を動かせば、その分気分が軽くなります。私も何度もそれを体験しております。人は悩むとき、頭だけで悩むのでなく、体も悩んでいるんじゃないかと思うのです。だから体を動かすと、何か変わってくる。精神的に追い詰められた石田氏が、登山という行動に出たのは、何かを解決しなければ、という意思の働きかもしれませんね。本作でいう「子どもとしての俺」の逆襲でしょうか。
あなたが悩んで不可解な行動を取ってしまうとき、それは「子どもとしての自分」の逆襲が始まっているのかもしれませんよ。(了)
参考資料:
うたまっぷWEBサイトより、「勝手にシンドバット」の歌詞。
https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36840
私が昨年の夏に故郷の山を登った際のお話です。
「なぜ山を登るのか。そこに山があるからだ」の不条理さ。理由の説明に全くなっていない。でも何か本質をついているような気がするのはなぜでしょう。
近代は人間の行動をロゴスでのみ理解しようとしました。不条理なパトスにもとづく行動は人間的でない、とみなされたのです。
人間は果たしてロゴスのみで生きることができるのでしょうか? そういう訳はないでしょう。近代がロゴスを追求する分、ロゴスではあらわせないパトスが陰鬱と蓄積され、ある日突然姿に表れるのが今の時代かもしれません。
石田一氏の葛藤は、近代的価値観を生きるものに必ずおこるものなのではないでしょうか。