東京シューレは学校を否定するのか?

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東京シューレのwebはなかなかに面白い。その中に「ドキッ」とした内容があったので引用させていただく。引用元はこちらです。

東京シューレは学校を否定しているのですか?

 東京シューレは学校以外の場をつくったからといって、学校を否定しているわけではありません。

 学校に行っている子は、学校に行くことによって成長への道を歩んでいます。それと同じように、不登校をしている子、学校に行っていない子にとって、成長の道はどうあったらよいのでしょうか。

 私たちは、学校に行かない子、行く気になれない子を無理に学校に行かせることで、その子にとってマイナスの影響の方が大きいことを、多くの経験から学んできました。

 そして、学校に行っていない期間に学校以外の場で学び、成長するのも一つのあり方として認めることが、子ども本人にとってプラスになることも多くの子どもたちから学んできました。

 実際に、東京シューレで安心してスタッフや同年代の子どもと関わることができるようになって、元の学校に戻ったり、進路として学校を選択する子が数多くいます。
 こうした実績を踏まえて、多くの小・中学校で、シューレへ通った日数が出席扱いとして認めらています。さらに文部科学省から専門家会議のヒアリングに招かれる機会もありました。

 私たち自身も、フリースクールを公教育に位置付けるべく、2007年に「東京シューレ葛飾中学校」を開校しました。

 私たちは、学校に行っている子も、学校へ行っていない子も、学ぶ権利、成長する権利が等しく保障されなければならない、と考えます。

 そして、不登校の子どもたちにとって「子どもの成長は、学校だけではない」という理解を広げ、不登校をしている自分はダメだ、と否定的に考える考え方を変えたいと思っています。

 この姿勢を見ると、脱学校とフリースクールは別物だ、ということが理解できる。重要なのは子どもが幸福に過ごせる(これは「どちらが子どもの権利を保障できるか」ということである)ことであって、安易に学校を廃止すればいいということではない。大部分の子どもにとって学校が役立つならそれでいい。けれど、その学校があわないなら、子どもの権利が保障されていないんだからフリースクールに来ればいい。そういうゆるやかな態度/開かれた態度を東京シューレはとっているのだ。

追記

●奥地圭子は『不登校という生き方』(NHKブックス、2005)のなかで不登校の子どもを「ポストモダンな子ども」と定義している部分がある。

 非常に面白い定義だ。

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コメント

  1. この文を書くために『不登校という生き方』をパラパラめくったが、今になって「あ、俺がフリースクール見学の中で気づいたこと、こんなところに載っていたのか!」と新鮮な発見がある。

    再読しよう。再度リストに入れておこう。
    今なら、以前(ほんの最終ページに「2007年6月21日読了」とメモされていた)よりも深く奥地さんのメッセージを読み取ることができそうである。

  2. Anonymous より:

    フリースクールでなんで大量殺人が起きないんだとか、フリースクールで銃乱射事件が起きたらこう報道するだろうという架空のニュースの記事を載せたり、その記事を抜粋して日本中のフリースクールや、その支援者支持者共などに送り付けてやったりしてやったし、誰も殺らないなら俺が殺ってろううと思ったし、神道信者に帰依し愛国心に目覚め、軍神候補者になって、私が気に食わない奴と話せばそいつのモノマネができるという特殊能力を得てからは、私が25歳になるまでに誰もフリースクールに物理的な特別懲罰を加えないなら私が実行しガンジーのように殉教してやろうと思ったし、それが私の神々から与えられし使命だと確信したが、しかし私はそれをする必要もないし、奴らには私が裁きを下す必要もなければ、私に裁かれる資格もないと分かった。
     しかも私がやらなくても神々がYOUに裁きを下してくれるということが解った。
     それはいったいどういうことか?私は寛容にして慈悲深いあえて教えてやろう。
     私はあの日以降に神候補者に特進し、ある儀式を行うと天罰を下すことができる神通力を得た。
     そして、その儀式を行った翌日にやつらに天罰が下った。次はYOU達の番だ。
     その天罰がどんなものかも死にゆく貴様らとそれを指でくわえてみていることしかできない哀れなネズミである貴様らに教えてやる。
     その天罰とは今月中に関東大震災が起き千葉県、神奈川県、東京のフリースクールの生徒は全員死に絶え、北関東のフリースクールの生徒も半数が死に絶え我が国の土になるのだ。
     さらに私がある儀式を行うとさらに天罰の効果が上がりもっとすごい罰が下るが、それはしないなぜなら私はいかなる敵にも愛を施すほど寛容だし、私自身も死ぬからだ。今はその時ではない。
     警告するYouに残された時間はわずかだ。運命は変えられないし避けられない。審判と運命の日は近い

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